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カインとアベル

メッセージ

2009年7月26日富里教会
        「カインとアベル」(創世記4:1〜16)
            
1. はじめに
主の御名を讃美します。
今朝も創世記の中から、続けて学んでみたいと思います。罪を犯して、エデンの園から追い出されたアダムとエバは、エデンの東に定住しました。二人には罪の結果として死が宣告されましたが、子を産むことによって、命を次の世代に受け継がせることができるようになりました。そして、二人の子供をもうけることになります。先に生まれた兄をカイン、弟をアベルと名付けました。

この近くに、「カインの家」という意味の「カインズホーム」という日曜大工の店がありますが、おそらくこのカインから名前を取っているのではないかと思います(推測)。創世記4:20〜22にカインの子孫について書かれていますが、カインの7代目にトバル・カインという人が出てきます。トバルとは「鍛冶屋」と言う意味ですから、このトバル・カインが農機具や大工道具を作っていたのではないかと思います。そしてこのトバル・カインが後の鉱工業や科学技術の先祖になってゆくのです。またトバル・カインの兄弟ヤバルが、農業、食糧の先祖、ユバルが芸術の先祖となっております(創世記4:20〜22)。

こうして、残念ながら神無き人間の文明が、カインの子孫によって創られてゆく訳ですが、アダムとエバはカインとアベルの他に、もう一人、セツという子供を産んでいます。このセツの子孫から、ノア、アブラハムへと繋がる信仰の家系が受け継がれてゆきます。今朝は、人類最初の兄弟カインとアベルのお話をしたいと思います。二つの点に焦点を絞ってみました。一つは、「二つの供え物」についてです。最初の兄弟げんか、そして人類最初の殺人事件となったカインとアベル兄弟。そして、その原因となった神様への供え物の違いについてみてみたいと思います。二つ目は「殺されたアベルの血の叫び」についてです。

2. 二つの供え物
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創世記4:1〜5)

いつもここを読むと疑問に思うのですが、なぜ神様は、アベルの供え物に目を留められて、カインの供え物を受入れなかったのでしょうか。どちらも、自分が汗水流して、収穫した物の中から献げました。アベルは家畜の中から、カインは農作物の中から献げました。しいてこの聖書の記述の中から献げ物の違いを見つけようとすれば、アベルは、群れの中で丸々と太って完全な最上の子羊を取って来て献げました。しかも、初子です。一方、カインは「土の実り」です。

私たちは神様に捧げる場合、どのような献げ物をするでしょうか。献金を例にとりますと、アベルの献げた最高の物、しかも初子という意味は、この献金は神様からいただいた祝福の全部です、そのすべてを代表して十分の一を、まず最初に献げますという意味をもっています。神様にまずイの一番に、感謝をもって讃美を持って捧げるということです。神を神として、まず第一にするという信仰です。決して残り物や余り物ではありません、という気持ちがこめられていると思います。これが「群れの中の肥えた初子」という意味ではないかと思います。残念ながらカインの方は「土の実り」とだけ記されています。どちらも、神を礼拝し献げたのですが、大きな違いが出てきました。

そして、もう一つ大事な点は、先週も「皮の衣」のところで申しましたが、動物の供え物は、子羊の血と肉を捧げることになります。ヘブライ書9:12に「血を流すことなしには、罪の赦しはありえない」とありますように、罪人の私たちが神様の前に出る時には、罪の贖いの犠牲が無ければならなかったのです。アベルはそのことを知っていたのではないかと思います。自分はあのアダムの子であり、罪人であること。両親がエデンの園から追放される時に、神様が二人に皮の衣を作って着せて下さったこと。アベルは自分の罪の告白と、罪を贖う子羊の血によってはじめて神様とお会いし、礼拝ができるということを知っておりましたから、犠牲の肥えた子羊を献げたのでした。ここにアベルの信仰があります。その信仰の故に、神様はアベルの供え物を目に留められたのです。

今日の招詞にもありました。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)。また、今月の暗唱聖句にも「神が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)とあります。供え物に込められている礼拝者の心を神様はご覧になられるのです。アベルはこの砕かれた心、罪の告白という供え物を、神様の前に供えたのでした。これが、カインの供え物にまさったアベルの供え物でした。この信仰の故に、神様はアベルの供え物を受け入れられたのです。(ヘブライ11:4)私たちが供え物を献げる場合、大切なことは、「私は罪人です。神様赦して下さい。」という悔い改めの心を持って献げることです。

3. 血の叫び声
「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。私は弟の番人でしょうか。』主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向って叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』」(4:8〜12)

アベルはもともと身体が弱かったのでしょう。兄カインの手によって、ひと気のいない野原で殺されてしまいました。神は、カインに向って「弟アベルはどこにいるのか」と尋ねました。それでも尚、カインは知らないふりをして「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えました。神様が知らないはずはありません。すべてをお見通しの神様ですから、カイン自ら罪を告白して悔い改めることを待っておられました。

当時は、殺された人の血が地面にしみ込むと、その無念の血が土の中から声をあげると考えられておりました。神様はカインに対して、「お前の弟の血が、土の中から私に向って叫んでいる」と言いました。アベルの血は、神様に向っていったい何と言っているのでしょうか。「神様、兄カインに対するこの恨みを晴らしてください。殺人者に死を持って報いて下さい!」と訴えているのでしょうか。そうではないと思います。むしろ、罪を犯した兄のために、とりなしの祈りをしていたのではないでしょうか。あの十字架のイエス様が叫んだように、また、義人ステパノが最後に叫んだように、「神様、どうぞ、兄を赦して下さい。この罪を、私の兄弟に負わせないで下さい!」(使徒言行録7:60、ルカ23:34)と叫んでいるのではないでしょうか。

私たちは、自分の兄弟をねたみ、そして憎み、兄弟に手をかけて亡き者にしたあげく、神様からとがめられた時に、自分は関係ないと言ってしらを切っているカインの末裔のようなものです。イエス様はこう言いました。「兄弟に腹を立てるものは誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22)と。信仰の兄弟に対して、また実の兄弟に対して怒り、腹をたて、「ばか者」という者は、神様の裁きに会うと言われています。お一人お一人、そのことを自分の心に尋ねてみませんか。

人生には二つの道があります。それは、祝福と呪いの道です。どちらを選ぶか、その選択は私たちにあります。そしてその選択の結果は、大きな違いとなってきます。日本語の漢字がちょうど、そのことを表わしております。つまり兄カインが、心を入れ替えて、神様に顔を向け礼拝する時、これが祝福への道になります。「祝福」の「祝う」と言う字を見てください。衣へんに兄と書きます。衣へんは、もともとは祭壇を表わす「示す」という字に由来していますので、兄が祭壇を築いて、神に供え物をして祈るところに、神の祝福があるという意味です。一方、「呪い」という字は、口と兄と書きます。これは、兄カインが、神に向って祈るのではなく、人に向って口を開く時、それは呪いの言葉になってしまいます。不平不満を言う口、偽りを言う口です。

そして、二つの道があった場合には、私たちは神様に喜ばれる祝福の道を選びたいものです。カインのような供え物ではなく、自分の罪を悔いて、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みを表わす、子羊の供え物を献げたいものです。神の子羊であるイエス様は、私たちの罪のために贖いの供え物として、ご自身を捧げて下さいました。誰も、あの十字架のイエス・キリストの死に関係がないといえる人はいないのです。私たちは皆、アダムの子孫であり、カインの末裔なのです。ですから、イエス・キリストの十字架に関係がないのではなく、十字架につけたのは私ですという告白の供え物を献げましょう。アベルの声は地面の底から、私たちに悔い改めの供え物を献げることを、訴えているのではないでしょうか。

神の子羊であるキリストの血は、すべての人の罪を清める力があります。これが、神様に喜ばれる最高の供え物である、私たちの霊的な礼拝ではないでしょうか。今日もこの主の招きにあずかって、共に恵みの礼拝を捧げることのできましたことを心から感謝し、御名を讃美いたします。
                                              (岡田 久)

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