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エルサレム陥落 (列王記下24:10~24)

メッセージ

2012年9月30日富里キリスト教会
「エルサレム陥落」
(列王記下24:10~20)

1.ユダ王国と周辺世界

エルサレムの本来の意味は、「平和の所有」または「平和の基礎」という意味です。別名、「モリヤの地」(創22:2)、「シオン」(列王下19:21)、「ダビデの町」(サムエル下5:7)、アリエル(イザヤ29:1)とも旧約聖書では呼ばれています。また、新約聖書では「聖なる都エルサレム」(マタイ4:5、黙示録21:2)と呼ばれています。

今日でも、イスラエルはパレスチナの小さな国ですが、世界で唯一のユダヤ教の国として、キリスト教国とイスラム教国の間に挟まれて、厳しい外交政策を取っております。今日のイスラエルがそうであるように、この南北王朝時代のイスラエルも東西の大国に挟まれて、厳しい外交政策を余儀なくされていました。紀元前約600年の東西の列強と言いますと、東にバビロニア(現在のイラク)、そして西にはエジプトと言う大国が、共にせめぎ合ってこのパレスチナ地方の覇権をめぐって争っておりました。

当時の天下分け目の戦いと言われていますカルケミシュの戦い(BC.605)で、エジプト軍がバビロン軍に敗れまして、それ以降はバビロン軍がこのパレスチナ一帯を支配することになります。ユダ王国の最後から数えて四代目の王ヨアハズは、当時はエジプトの支配下にあり、ユダには金銀の罰金を科されておりました。次のヨヤキム王の時代に入りまして、バビロンのネブカドネツァル王が攻めて来まして、今度はバビロンの支配下に移ることになります。このように東西の大国に挟まれて、揺れ動いていた国でした。ヨヤキムは三年間、バビロンに服従しますが、その後反旗を翻し、バビロンの同盟国であった近隣諸国から総攻撃を受けることになります。

そして、最後から二番目の王ヨヤキンの時に、再びバビロン軍がネブカドネツァル王と共に攻め込んできたのが今日の聖書箇所です。戦う力のなかったヨヤキン王は降伏して、王室、高官、勇士、そして多くの技術者と共に、バビロンに捕え移されました。これがバビロン捕囚の始まりです。この時、合計約17,000人が捕囚となりました。捕囚と言うのは、今日で言う捕虜あるいは拉致と言ってもいいかも知れません。

そして、その叔父のマタンヤが、バビロンの王によって名前をゼデキヤと改名されて、ユダ王国の最後の王様になります。どうして彼が最後になったかと言いますと、彼が治世9年目にまたもやバビロンに反旗を翻しました。そして、とうとうバビロンの王ネブカドネツァルの逆鱗に触れて、完全にユダ王国は滅ぼされ灰塵と帰してしまいます。これをもって、紀元前1000年から始まりサウル、ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル王国は、400年の歴史にピリオドを打つことになります。このようにして、ユダ王国から数回にわたり、戦争のたびに高官や学者、技術者が捕囚としてバビロンに連れて行かれることになりました。これがバビロン捕囚と言われている出来事です。

2.エルサレム滅亡の理由(人間の罪)

この列王記の中で一貫して流れているのは、歴代の王たちの不信仰と偶像礼拝の数々です。わずか数名の王だけが信仰的な宗教改革をするのですが、次の王がまた主の目に悪いことをします。良く出てくる言葉が、「彼は先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。」(23:32、37、24:9、19)と言う言葉です。善王ヨシヤを除いて、最後の四人の王様に、ことごとくこの「主の目に悪とされることを行った」と言う言葉が付け加えられています。

イスラエルの選ばれた王であるにもかかわらず、王が先頭に立って主の目に悪とされることを行ったことによって、イスラエルの国は神の怒りと懲らしめを受けることになります。一体何が王たちをかくも真の神から離してしまったのでしょうか。理由は三つあります。一つはやはり、いろんな神々を持ち込んで真の神から心が離れてしまったことです。そして第二に、王たちは預言者の言葉に耳を傾けませんでした。このような悪を行う王に対して、主は近隣の諸国の軍隊を用いてまでも、主の言葉に従わせようとしました。

周辺諸国の部隊にしても、バビロンの部隊にしても、ユダが攻められるのは、主の御言葉を語る預言者の声に聴き従わなかったことがその大きな原因でした。そしてまた、敵国バビロンの王ネブカドネツァルの口を通してまでも、主はユダの国に語りかけたのです。このように神の言葉に耳をふさぎ、自分の力や軍隊、また周辺の大国の力により頼んで、何とか生き延び地位を保とうとする時、ユダはますます神の怒りと懲らしめを受けました。

最後の王ゼデキヤの悲惨な裁きの場面を見てみましょう。25:6以下です。
「王は捕えられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。」とあります。ユダ王国の最後の王の姿が、ここに記されています。

ゼデキヤ王は、傀儡政権とは言え、せっかくバビロンの王から王位をいただいて十年近くユダの国を治めたにもかかわらず、側近に唆されて、バビロンに反旗を翻してしまいました。その結果、主の怒りが燃え、主の御前から捨て去られ、取り返しのつかない最悪の事態になってしまったのです。王子達は父親の目の前で、全員殺されてしまいました。そして本人も両目をつぶされて、青銅の足枷をはめられて、バビロンまで連行されていったのです。いくら戦争とは言え、目を覆いたくなるような悲惨な光景です。

3.天のエルサレムをめざして(十字架の救い)

これほどまでに、神から怒りの杯を飲ませられた民は他にいたでしょうか。このバビロン軍の攻撃にあって、都の中では、子供たちが飢え渇き、次々と倒れて行く、母親が自分の子供の肉を食べるという地獄絵図を見たことがあるでしょうか。祭司や預言者たちも容赦なく殺され、エルサレムは炎と剣と血で汚れてしまいました。

この時、預言者エレミヤは、声を大にして、「おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。いつまでさまようのか。背き去った娘よ。」
(エレミヤ31:21~22)と、声を大にして呼びかけています。そしてバビロンと戦うのではなく降伏してバビロンに服従せよ、これこそ神がユダの国に求めていることであると説きます。しかし、最後の王ヒゼキヤはこのエレミヤの声に耳を貸すことなく、どこまでも戦いを続けて、ついには国が滅亡してしまう結果となりました。

しかし、エレミヤは、このような状況の中で、やがて主がイスラエルと新しい契約を結ぶ日が来るということを預言しています。「来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の内に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)「わたしの生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう」(哀歌3:18)と。

もはや人間の力や知恵や財産や地位によっては、人は救われない、ただ主だけがわれらの救いである。だから、この方だけを待ち望もうという信仰が生まれたのです。この有史以来の未曾有の患難の中にあって、預言者は、この主のもとに立ち帰ることを訴えました。そしてやがて、新しい契約を結ぶ日が来る。その時には、我々のために罪を贖って、我々のために代わって戦ってくれる方が来られるということを預言しました。それが来たるべきイエス・キリストの到来でした。そして、その方を待ち望もうという信仰が生まれたのです。

そして、この預言の言葉どおりに、万民を救うキリスト救い主が来られました。主は、ご自分のからだをもって、エルサレムの神殿を壊し、三日目に目に見えない霊的な神の神殿を建てると言われました。霊のイスラエルの誕生と拡大が、あのエルサレムの町で、シオンの丘から始まったのです。それがキリストの十字架の血によるところの新しい契約であり、誰でも主の十字架を信じるならば罪赦され、神の国の一員、天のエルサレムの住民になることができるという救いの御言葉です。

もはや、行いによるのではなく、ただこのお方を信じる信仰によってのみ、私たちは霊のイスラエルの民、霊のエルサレムの住民とさせていただけるのです。男でも女でも子供でも、この十字架のキリストを信じ受け入れるならば、霊のイスラエル、新しい神の都エルサレムの住民としていただくことができるのです。十字架の主は、あのシオンの丘の上から私たちを手を広げて招いておられます。

この方のもとに立ち帰ることができたならば、いつ死んでもいいと思えるのではないでしょうか。その方が存在しておられるということです。真に、自分の今までの生き方を顧みて、心底悔い改めて主に立ち返るために、主は、この未曾有の苦難をユダの王と人々に与えたのではないだろうかという気がしてなりません。地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して、共に信仰を持って歩んで行く者となりたいと願っております。(岡田 久)

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