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エリアとエリシャ (列王記下2:8~18)

メッセージ
2020年11月29日富里キリスト教会
「エリヤとエリシャ」
(列王記下2:8~18)
1.エリシャの信仰告白

「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。エリヤはエリシャに、「主はわたしをべテルまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい。」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はべテルに下って行った。」(列王記下2:1~2)

ギルガルやべテルにも、預言者の養成所のような学校があったと言われています。今で言いますと神学校のようなところでしょうか。そこの指導者的存在であったエリヤが、弟子の中からエリシャを選んで、声をかけました。「わたしは主に遣わされて、これからべテルまで伝道に行くが、お前はここギルガルに残っていなさい。」といいました。すると弟子のエリシャは、「主は生きておられ、エリヤ先生も生きておられます。わたしは先生から離れません。ご一緒について行きます。」と答えたのです。

そして、こう言う同じ問答が、ギルガルを出る時、べテルを出る時、そしてエリコを出てヨルダンまで行く時までに、合計3回繰り返されています。途中他の弟子たちが、「エリヤ先生が、今日お前からとり去られるのを知っているか?」と尋ねますが、エリシャはそのことを口外しないようにと戒めています。このエリヤとエリシャのやり取りは一体何を意味しているのでしょうか。しかも同じような会話が3回繰り返して出てきます。

わたしは、これはやはり師であるエリヤが、エリシャの信仰を確かめたのではないかと思います。いわば、エリシャの信仰告白です。それをエリヤは三度問う形で確かめました。そしてエリシャの信仰告白の内容な何かと言いますと、三つあります。①「主は生きておられます」②「あなたご自身(エリヤ)も生きておられます」③「わたしはあなたを離れません」この三点です。

あのアブラハム、イサク、ヤコブに現れた神様は生きておられるという信仰です。
そして、わたしたちの罪のために十字架に架かられ、三日目に復活された主イエス・キリストも生きておられるという信仰です。いつも言いますが、信仰の核心は何かということです。それはイエス・キリストの十字架と復活を信じることです。そしてこの死んで甦られたお方が、今も生きておられること、今も共に生きておられることを告白することです。主イエス・キリストが実際に生きておられるということを体験し、理解できなければ御言葉を宣べ伝えることはできません。わたしたちも預言者も、この復活の主の証人なのです。

預言者が預言をするのは、このお方が今も生きておられるということを宣べ伝えるためです。いくら知識があり経験があっても、この生ける神との出会い無くしては預言者にはなることはできません。主と出会ったからからこそ、こうして宣べ伝えずにはおられないのです。復活を信じていなければ、生ける神に出会っていなければ、誰もこの救いのみ言葉を、確信をもって語ることができません。

そして「あなたご自身も生きておられる」というのは、エリヤ自身もこの復活信仰によって生かされているということを証しているのです。復活信仰に裏打ちされた預言者が目の前に居て、そのお方の生き方を通して、自分の信仰も核心が強められているということです。だから、わたしは先生を離れないでついて行きます。エリヤ先生の中に神の力と知恵が働いているからです。これが弟子の預言者エリシャの信仰告白であったのです。この生ける主なる神について行きますと答えたのです。エリヤは、エリシャに彼の復活信仰を三回も確かめました。そして、ギルガル、べテル、エリコの預言者集団を巡回しまして、そこでエリシャの信仰告白を聞いてもらい吟味したのではないでしょうか。

2.二つ分の霊をください

「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください」と言った。エリヤは言った。「あなたは難しい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」(2:8~10)

二人はヨルダン川に岸辺に立ちました。そこでエリヤが外套を丸めて水を打つと、流れが左右に分かれて、二人は乾いた土に上を渡って向こう岸に行くことができました。このヨルダン川を渡るということは、かつてイスラエルの民が、エジプト脱出の時に、モーセの指導によって、紅海の水を分けて渡ったこと(出エジプト記14:16~31)、そしてまたヨシュアの指揮のもとに、イスラエルの民が契約の箱を担いでヨルダン川を渡ったこと(ヨシュア3:13~17)を思い出されます。

いずれもイスラエルの民の救いに業を示している出来事です。ある意味では水をくぐるというバプテスマかもしれません。つまり水をせき止めて渡るということは、イスラエルの民が古い罪の生活から清められて、新しく生まれ変わった民となって行くということを意味しています。その務めがエリヤに与えられていたわけです。そこでエリヤは自分の職責を意味する外套を取って、川の水を打って左右に分けました。そして二人で、川を渡り、預言者の務めをエリシャに示しました。救いのしるしとしてのバプテスマです。この後、エリヤが天に昇って行って、エリヤの外套だけが落ちてきます。そして今度はエリシャがその外套を使って、ヨルダン川の水を分けて渡ります。それを預言者仲間が見ることによって、彼が名実ともにエリヤの後継者となったことを公認することになります。

この時、エリヤがエリシャに何が欲しいかと尋ねます。するとエリシャは、「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください。」といいます。この二つ分の霊と言いますのは、エリシャが正当なエリヤの後継者であることを意味しています。申命記21:17には「たとえ疎んじられた妻の子供であっても、その妻の子を長子として認め、全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。」とあります。つまり正統な預言者エリヤの後継者として認めてほしいということです。

するとエリヤは、「あなたは難しい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのを見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」(2:10)といいました。つまりエリヤの正統な後継者になりたいと言ったエリシャに、あなたが正しい後継者であるかどうかを決定するのは、最終的に神だと言ったのです。確かに人は、この霊の賜物を求めて熱心に精進し、師に仕えるでしょう。しかし、預言者として立たせてくださるのは、エリヤではなく、最終的には神様だということをエリヤは伝えたのです。

たとえ人間の願望が強くても、熱心な人、努力する人が預言者、伝道者、牧師になるわけではありません。神の召命は本人の熱望ではなく、神様の側から、自由に来るのです。神の熱心と熱望が、その人を預言者、伝道者として選ぶのです。たとえ恩師のエリヤでも決めることができないし、与えることができないのです。ただ、エリヤは一つのヒントを与えてくれました。それは自分がエリシャのもとから取り去られてゆくのを見たら、あなたの願いがかなえられるというのです。

そしてそう話して歩いていると、突然、火の戦車と火の馬が現れて、二人の間を裂いて、エリヤは共に天に上って行きました。エリシャはこれを見て思わず、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」(2:12)と叫んだのでした。エリシャは、先生が言った通りに、師匠の取り去られるのを目の当たりにしたのです。全く不思議が光景でした。しかし、神の預言者エリヤの最後にふさわしい昇天の出来事でした。

エリシャはこれを見て、思わず自分の外套を二つに引き裂いてしまいました。これは彼の驚きと悲しみを表しています。すると天からエリヤの外套が落ちてきました。彼はそれを拾って、再びヨルダンの岸辺に立ちました。そしてその外套で水を打つと、なんと水は左右に分かれたではありませんか。そして彼は、川を歩いて戻ることができたのです。ここでエリシャははっきりと、恩師のエリヤが火の戦車に乗って自分から取り去られ、天に上って行くのを見たのです。それを見せたのは神様です。その結果、彼は約束通り、エリヤの二倍の霊を受け継ぎ、名実ともにエリヤの後継者となったのです。

エリシャの信仰告白と献身の召命、しかしそれを最後に決定するのは神ご自身であるということです。エリシャと神の関係です。エリヤが授けるのではありません。霊の賜物の按手は、わたしが授けるのでもなく、教会が授けるのでもなく、主御自身が授けるのです。わたしたちは主の祝福の道具なのです。そのためにも、1月の按手式には身を聖めて、祈りをもって備えてゆく必要があります。エリヤの火の戦車に乗って天に帰られるということを、神ご自身がエリシャに見せて下さったのです。そして神ご自身が、エリシャこそまぎれもなく預言者エリヤと同じ神の預言者であると証明して下さったのです。そして神のみならず、エリシャの水を分けるという奇跡によって、仲間の預言者も彼をエリヤの後継者として公認したのです。(2:15)

3.真の神の預言者とそうでない預言者との違い

このあと、エリヤの遺体と埋葬についてのお話が続いています。それは、エリコの他の預言者たちは、エリシャこそ正しいエリヤの後継者出ると認めたのですが、彼らには、この天に上って行った火の戦車と火の馬の幻は見えていなかったようです。ですから、エリシャにこう言いました。「ご覧ください。僕たちのところに50人の戦士がいます。彼らにあなたの主人を捜しに行かせてください。主の霊は彼を運び去り、どこかの山か谷に投げ落としたかもしれません。」(2:16)と。エリシャは、そのような愚かな行為を止めさせようとしましたが、何としてでも遺体を捜しに行くと言ってきかず、三日間エリヤを捜索しました。しかし、遺体を見つけることができませんでした。

このエリコの預言者たちも師匠であるエリシャを慕っていましたし、なんとしてでもその遺体を見つけて、きちんと埋葬して墓を造ってあげなければならないと思っていたかもしれません。日本人的なところがありますね。ユダヤ人も遺体を大事にしますから、分からないこともありません。しかし、エリシャは違いました。「主は生きておられます。そしてあなたエリヤも生きておられます。」と告白しています。それは復活のキリストがいるから、それを信じる者も、死んではいない、生きているのであるという告白です。

預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたのであるという信仰です。創世記のエノク(創世記5:24)がそうです。彼は神と共に歩み、神が取られたので天に帰って行きました。モーセも晩年はモアブの地で死にましたが、その場所は誰も知らないと記されています。(申命記34:6)そのですから偉大な信仰者の遺体を捜すことや墓を造って盛大に祀るということは、信仰的なことではありません。

本当に復活信仰を持っているかどうかが、エリコの預言者仲間と真の神の預言者エリシャを分けるものでした。ですから、エリヤはギルガルを出る時に、多くの預言者仲間の中から、あえてエリシャを選んで試したのです。そしてエリシャは、はっきりと「主は生きておられます。そしてあなたご自身も生きておられます。そのあなたを生かし今も生きておられる神から、わたしは離れません。」と告白したのです。主は生きておられる。これはエリシャの時代も、イエス様の時代も、そして今日のキリストの証人としてのわたしたちの時代も、共通の信仰告白です。

4.御言葉の力と権威

最後に、預言者の霊の賜物をいただいたエリシャが、エリヤの後継者としてどんな働きをしたのかを見て終わりたいと思います。19節から二つの奇跡の出来事が記されています。一つはエリコの町の水が悪く、人々は不毛に悩まされていました。エリシャは、新しい器を持って来て、それに塩を入れるよう命じました。そしてその塩を水源まで持って行って、塩を投げ込みました。そしてこう言いました。「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不幸も起こらない』」と。すると水は清められて、今日まで至っているというのです。(2:21~22)

新しい器である預言者エリヤが、命の水を、塩をもって清めたのです。おそらくエリコの人々は、清められた御言葉を今まで聞いていなかったのではないでしょうか。しかし、エリシャの手によって、町の人々の魂を潤し、命を与える清められた命の水が出たのです。人々はこの新しく清められた命の水を飲んで、今日まで生かされていると言っています。これは預言者の口から出る、命の言葉、神の預言の言葉ではないでしょうか。み言葉の宣教と牧会です。こうしてエリコの人々は、エリヤの語る新しい命のみ言葉によって、乾いた心を潤し、命を与えられて生きるようになりました。

そしてもう一つの悲しい出来事が続いています。それは、子供たちがエリヤをばかにしてはやし立てたことです。そしてエリシャがその子たちを呪いますと、森の中から二頭の熊が現れて、42人の子供達がかみ殺されてしまったというのです。この出来事は少し残酷なような気もしますが、何を意味しているのかと言いますと、預言者の権威をばかにしてはいけないということです。預言者である牧師は神の御言葉を取り次ぐ、人々を生かすという貴い働きをしています。そして御言葉は、神の権威をもって語られるものです。その預言の言葉を軽視し、馬鹿にするということは、神様から大きな罰と裁きを受けるということを戒めています。

牧師は神の御言葉を取り次いで、皆さんを養い、永遠の命に至る実を結ばせようとして、毎週説教を準備します。そして神の名によって礼典の執行を行い、祝福を祈ります。教会は神の救いの砦であり、教会を通して人々が神のもとに立ち帰ることを教えています。そして世の人々を救うために、教会は牧師を立て、説教と牧会と礼典の職務、バプテスマ、主の晩餐式を委託します。その業は、すべて神の権威、イエスの名によってなされるものです。

その牧師が、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け。」と子供達からバカにされたら、どうでしょうか。子供が言っていることだからではなく、子供が言うということは、親も言っているということです。エリシャは、頭の毛が薄かったか、はげていたかもしれません。そして恩師エリヤが、天に上って行ったのを見たと証言したかもしれません。しかし、町の人々の中には、そのことを揶揄して、かえって馬鹿にして、「はげ頭のエリシャよ、お前もエリヤのように天に上って行け」と陰で言う人もいたかもしれません。それをこどもがそばで聞いていて、エリシャをばかにしたのです。これは、御言葉を取り次ぐ預言者である牧師の権威を無視し、おとしめるものです。大きな罪です。サタンの働きです。預言者の権威とおとしめ、語る神のみ言葉の権威を亡きにしようとする狡猾なサタンの工作です。ですから牧師は、その権威を無視し、おとしめるようなことを見過ごしてはいけません。

この二つの奇跡を通して、エリシャはエリヤの後継者となって行きます。エリシャはこうしてエリヤと同じように、多くの苦難と闘いを通して、不信仰なイスラエルを、御言葉をもって神のもとに立ち帰らせる、苦労の多い預言活動に入って行くことになります。イスラエルの民にとって、預言者の働きがいかに大切で、かつ苦しいものであったか、そして教会にとっても同じように、牧師の働きがいかに大事であるか、どのようにして牧師を迎え教会の霊的指導者として立ててゆくかが問われています。そのことを絶えずまた聖書を通して、繰り返し、繰り返し学びながら、霊のイスラエルである教会の成熟と発展のために、学びを続けて行くことを願っています。(岡田 久)

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