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エデンの園・罪の起源 (創世記3:1~7)

メッセージ

2011年5月15日富里キリスト教会
「エデンの園・罪の起源」
(創世記3:1~7)
1.罪についての問い

よく耳にする言葉ですが、「罪って何ですか?私は何も悪いことをしたことがありませんが・・。」とおっしゃる方がおります。おそらくほとんどの人は、この罪と言うことの本当の意味が分からないのではないでしょうか。何か犯罪行為とか、法を犯した場合を考えているのではないかと思います。あるいは、こういう方もいます。「なぜ、神様は罪を犯すような人間を造られたのでしょうか。そういう罪人の人間を造った神様のほうに責任があるのではないでしょうか。」という意見もよく耳にします。神様が間違っていると言わんばかりです。たいていの人は、この罪についての本当の意味も自覚もないといって良いかもしれません。

でも、やがて人間の罪が原因となって起こる死の現実に、誰でも直面します。死は誰にでも、否応なくやって来ます。そして人は、死を恐れ、死に対する万全の対策を常に講じています。それでも確実に一人一人に死はやって来ます。でも、聖書では死についてこう言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12/p.280)

つまり、人間が一番恐れている死という現象は、人間の罪の結果なのです。つまり、人類の祖先である一人の人間アダムが罪を犯したので、この一人の人によって、罪が全人類に入り込み、その結果として全人類が死の運命を負わせられたのです。これが人間の現実です。罪が入り込んだ世界です。死に定められた世界です。あの最初の神様が創造された世界は、今や、人間の罪によって汚染されてしまいました。すべての人は、生まれながらにして例外なく罪人なのです。

2.蛇(=サタン)の誘惑(罪の起源)

最初に罪の起源について、創世記3章1~5までを読んでみましょう。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神はおっしゃいました。』蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」(創世記3:1~5)

せっかく神様が合わせて下さった男と女が、心も体も合わせ一体となっているならば、二人とも神の御言葉に従ったかもしれません。しかし、時には別々に居る時もあるでしょう。蛇は、その心のすきまを狙って入り込み、まず最初に、弱い器である女のほうから誘惑しました。夫婦が一体とならず、別々に生活していると本当に弱いです。そして、サタンは本当に巧妙です。エバが神様から直接御言葉を聞いていないことを知っていました。夫アダムからの又聞きです。中途半端にしか御言葉を覚えていませんでした。そこを突かれました。ですから、私たちは夫婦共に御言葉をしっかりと学ぶ必要があります。一字一句、間違わないように心に刻みつけることが大事です。(暗唱聖句の大切さ)

蛇は、「園のどこ木からも食べてはいけない」と言ったのですか。と問い掛けました。神様は「すべての木から取って食べなさい」と言っています。あたかもエデンの園にいるのが束縛されているような言い方です。「クリスチャンも大変ですね。酒もタバコもダメなんですか。不自由ですね・・。」と言わんばかりの蛇の言い方です。

そしてこのエデンの園にいるのが、束縛され不自由なものであるかのような印象を与えて、エバの口を通して、神の命令の言葉を言い換えさせようとしています。それが3節の「死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」というエバの言葉です。神様は、私たちが死んではいけないから食べるなと言ったのでしょうか。私たちを心配してそう言ったのでしょうか。そうではありません。神様は「食べると必ず死ぬ」と言いました。「絶対食べてはいけない」と言いました。これは神の絶対命令なのです。人はこれに従うしかありません。しかし、実はそこに真の自由があるのです。

でも、女はその命令を自分の視点で、自分中心の立場から捉えたのです。それが「死んではいけないから」と、言い換えた言葉です。ここに、すでに女の心の中に、神中心の信仰ではなく、自分中心の信仰が芽ばえていることに気がつきます。これが罪の始まりです。すなわち、神の御言葉に背かせることです。そして、サタンの狙いは、人間を神の言葉から引き離してしまうことです。この神と人間の間が、引き離されている状態のことを罪と言います。これが今日の人間の現実の姿です。(数年前に、渋谷で起きた小学6年生の女子児童監禁事件の例。)

3.すべての人は生まれながらの罪人

そこまで来ると、もう蛇の手中に陥ってしまったようなものです。あとはもう簡単です。ちょっと誘いの言葉をかければ、罪の真っ只中に落ちて行ってしまいます。6節から読んでみます。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:6~7)

二人の目が開かれました。普通目が開かれるということは良い意味で用いますが、ここでは神の如くに善悪を知る目をもってしまったのです。その結果どういうことが起こったかと申しますと、二人とも自分たちが裸であることに気が付きました。そして、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いたのです。

これが罪の状態です。すなわち、人間同士の比較競争が始まったのです。男女ですから肉体的に異なります。つまり、自分に無い物を相手が持っていると恥ずかしいと思うようになったのです。善悪を知る木の実を食べる前までは、二人とも裸でありましたが、恥ずかしいとは思いませんでした。たとえ体の違いがあっても、それは神様が造ったものですから、決して恥しいと思うことはありませんでした。神の視点で、お互いを見ていたのです。

皆が神に目を向けるなら、そこには違いがありません。しかし、目を神に向けず、上を向かずに、つい横を見て他の人の服装やスタイルに目を取られてしまうと、そこには比較と競争の魔術にかかってしまいます。自分の恥、つまり相手が持っているものを、自分が持っていないというコンプレックス、相手には出来て自分には出来ないというひがみ、劣等感、それによって人は落ち込んだりします。ある時には、逆に優越感に浸ったりします。そして自分の欠点を必死に隠そうとします。その違いの故に、苦しんだり、憎んだり、ねたんだりしてまさに、今日のような週刊誌や新聞をにぎわす事件で世の中はいっぱいです。(二人の奥さんのブランド品によるねたみと競争の例、あるいは「砂の器」の例)

4.罪と死の解決のための唯一の道

目が開かれ、神の如くに善悪を知るようになった二人は、神の顔を避けて木の間に身を隠しました。誰でも罪を犯してしまった時、本能的に自分の姿を隠そうとします。子供が悪さをして、お母さんに見つかって、本能的に隠れたり嘘をついたりするようなものです。いちじくの葉で腰の部分を隠し、さらに木の茂みに隠れて自分の裸の姿、罪の姿を隠そうとしました。

神がアダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」と。しかし、アダムは、ここで素直に「わたしが食べました。」とは言わずに、「あなたが与えたあの女が私に与えたので、食べてしまいました」と、いわば女のせいにしているような言い方です。これは、罪の責任転嫁です。どこまでも自分の非を認めません。しかも、神様が与えた女と言っていますから、与えてくれた神が悪いと言わんばかりの言い分です。同じように、女にも尋ねましたら、女も自分の非を認めず、蛇が自分をだましたのだと言いました。こうして、罪を犯してしまった人間は、自分の罪を決して認めようとはしませんでした。今日もなお、人間はいちじくの葉で、自分の欠けを必死に隠そう隠そうとして生きています。

そこで、神は、蛇は生涯、地面を這いまわり、人間に憎まれるようになると言い、女には産みの苦しみを与え、男には労働の苦しみを与えました。そして最後に「塵にすぎないお前は塵に帰る。」(3:19b)と言われました。つまり、御言葉どおり二人は死に定められたのです。こうして、アダムが犯した罪によって、全人類に死が入り込んだのです(ローマ5:12、6:23a)。これが罪の結果です。私たちは、この罪と死の鎖からどうしたら逃れることができるのでしょうか。どこに救いの道があるのでしょうか。

そういう罪と死に支配され、滅びに向って一直線に突き進んでいる人間に対して、神様は御子イエス・キリストを送って下さいました。そして御子イエス・キリストは、罪の罰と死の呪いをことごとくご自分の身に受けて下さいました。そして十字架の苦しみと死をもって、全人類の罪の贖いの業を成し遂げて下さったのです。新約聖書にこう書かれています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(Ⅰテモテ2:4~5)

そして、神様は、このイエス・キリストを通して最終的な創造の業を完成されたのです。イエス・キリストの十字架以外に私たちの救いものは他にありません。十字架こそ最終的な神の愛の表れだったのです。創造の完成です。永遠の命への入り口であり、あのエデンの園へ帰ることのできる唯一の道なのです。今もこのエデンの楽園への道は開かれています。誰でも、イエスを主、救い主と信じるなら罪赦されて神のもとへと立ち返ることができます。今日がその恵みの日救いの時です。             (岡田 久)

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