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インマヌエルの神2016 (マタイ1:18~25)

メッセージ
2016年12月18日富里キリスト教会

「インマヌエルの神(2016)」
(マタイ1:18~25)

1.ユダヤの結婚式の真の意味

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:18~19)

ここに当時のユダヤ社会の結婚観というものが、明確に述べられています。それはマリアとヨセフは、まだ婚約期間中でしたが、聖書には「母マリア」「夫ヨセフ」と記されています。当時は結婚までに三つの段階があるとされています。まず第一段階は、両親や仲人によって、本人たちが知らなくても結婚の約束をすることです。ふつうこれを婚約と言います。日本でも昔、親同士が約束して息子や娘を、誰それの嫁にしようと本人の意志とは関係なく決めたりすることがありました。子供の時から、いいなづけの関係が成立したわけです。

ユダヤでは、実際に結婚するためには、再度結婚の意志を確かめたうえで、結婚式の1年前に、婚約期間を設けて、二人はそれぞれの実家で結婚に備えての教育を受けるわけです。この時に、婚約を解消したければ、解消ができます。しかし、いったん正式に婚約を承認してしまいますと、二人は正式に夫婦とみなされます。ですから、すでに「母マリア」「夫ヨセフ」と言う呼び方ができたのです。

また婚約が成立してから、この婚約を解消する時には、その時には正式に離婚届けを出す手続きが必要でした。それほど、この婚約期間を大切にしていました。それだけ結婚と言うことが神様の御前でなされる、聖なる契約関係というものを意味していました。今日のように、結婚して1年もしないうちに別れると言うようなことはありませんでしたし、簡単には赦されませんでした。

それだけ、この婚約が成立してから結婚式までの1年間が大事な準備期間として設けられていました。そしてこの婚約期間が、わたしたち信仰者の信仰生活そのものを意味していたのです。つまりそれは、わたしたちがキリスト様と婚約して、数十年間の花嫁修業時代を過ぎて、晴れてキリストの花嫁として天に迎えられる時に至るまでの地上での信仰生活を表していたからなのです。私達も、イエス・キリストを信じて聖霊様を通してその保証と承認をいただきました。でもまだ、天国は約束の段階です。花婿なるキリストの顔を見たこともありません。

やがてキリストと天にて相見える時に、ベールを取っていただいて、顔と顔を合わせて相見える時が来ます。晴れてめでたい結婚式の時です。しかし、それまでは約束の保証として聖霊様の証印をいただいているだけです。また結婚の約束の言葉だけです。ですから、この婚約期間にどのように過ごすかが、結婚が成立するかどうかのカギになるわけです。その間、いろんなテストや試練、誘惑があるかもしれません。私達の信仰生活と同じです。

そういう中で、ヨセフとマリア夫妻に起こった試練はとんでもないことでした。妻のマリアが、子供を宿したと言うのです。この事件は、一番の当事者であるマリアの場合には、本人の身に起こったことですから、驚くことはありますが、それを受け留めて行くことは、ヨセフよりは容易ではなかったかと思います。

しかし、問題は夫の方です。自分の身に全く覚えのないことが突然起こったわけです。いくら天使が受け入れなさいと言ったところで、男として、夫として。その不祥事を受け入れることができるでしょうか。いやそれよりも、婚約者であり既に妻となっているマリアを赦すことができるでしょうか。男性の皆さんはいかがでしょうか。自分をヨセフの立場においたら、簡単に解りましたと承服できる出来事だったでしょうか。わたしはマリアよりもむしろヨセフの方が、悩み苦しんだのではないかと思います。

顔に泥を塗られたようなものです。プライドが傷つけられました。面子がつぶされました。ある人は、マリアを結婚詐欺として訴えるかもしれません。そして律法に従って彼女を処刑してしまうことも考えられました。(申命記22:22~24 P.315)でも聖書には、「ヨセフは正しい人であったので」とあります。ヨセフは自分が辱められた、プライドが傷つけられたといろんな複雑な感情はあったと思います。でも彼は、自分の良心と信仰に基づいて、彼女のために最善の道を取ってあげる決心をしました。彼の正義を示したのです。それが「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。

2.インマヌエルの神(神、我らと共にいます)

そのように思い悩んで、最後に自分でできる最善の道を決心した時に、そこに神様が介入されたのです。「このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」と言う意味である。』(1:20~23)

ヨセフが信仰を持って、良心的に考えて、マリアに害が及ばないように、黙って秘密裡に離縁状を出して、ことを納めようとしていた時に、そこに神様の御手が介入しました。天使が夢の中に現われて、ヨセフに神の言葉を告げました。
それは、「恐れずに、マリヤを妻として迎えなさい」とうことです。そしてもう一つは、「その子の名前をイエスと名付けなさい」と言うことでした。

そもそも女性が、聖霊によって子供を宿すと言うこと自体、ヨセフにとっては信じられないことでした。それは常識では考えられないことだからです。マリアもそうでした。自分が聖霊によって、子供を宿すと言うこと自体信じられないことです。彼女も突然天使から子供を宿したと告げられて、どんなに迷ったことでしょう。自分にとっても受け入れられない出来事でした。でも、天使が「神にはできないことは何一つない。」と言った時に、彼女は、「お言葉どおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と言って、受胎したことを受け入れました。ヨセフも悶々として眠られない夜を過ごしていたに違いありません。でも、その中で神の御使いが夢に現われて言った言葉を信じたのです。

わたしはマリアにしてもヨセフにしても、大事なことは、何か自分にとって受け入れがたい出来事が起こった時に、悩み考えると言うことが大事ではないかと思います。ヨセフもマリアも、信じられないことが起こった時に、「考えていた」「思いめぐらしていた」とあります。何のことだろうと考え悩んでいる時に、神様は必ず、わたしたちにも聖書の御言葉を思い浮かばせたり、聖書の人物や場面を思い出させたりして、どう決断したらいいかを教えてくれるような気がします。悩む力、悩み抜くことです。そこに神様の御言葉や夢や幻が与えられるような気がします。

自分の身に起こった事件や出来事を避けたりしないで、しっかりと表面から向き合うことが大事ですね。そしてその時の言葉を選び取り、その御言葉に従って決心して行くことが大事ではないでしょうか。そのためにもふだんから、聖書を読むこと、御言葉を暗唱すること、御言葉を調べることが大事です。

「インマヌエル」というのは、イエスが神の子であり、なおかつ受肉をされた神であると言うことを意味する呼び名です。イエス・キリストの神性と受肉を表現した呼び方です。「イマヌー」が「宿る」、「エル」が「神」と言う意味で、「神我らと共にいます」と言う意味になります。ですから、クリスマスのメッセージは、「神が我々と共にいます」と言うことを告げ知らせているのです。そしてこの福音書の最後の言葉も、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ28:20)と言う言葉で締めくくられています。このマタイによる福音書のテーマは、このインマヌエルの神、神が我らと共にいますと言うことが、初めから終わりまで一貫して述べられているのです。

はじめにわたしたちと共におられた方は、世の終わりまでずーっと見放すことなく、共におられるお方なのです。つまり人生の中で経験するどんな苦しい時も、辛い時も、受け入れがたい時にも、必ず主が共にいて下さると言うことです。良い時だけではありません、絶好調の時だけではないのです。駄目な時にも、苦しい時にも、病の時にも、どんな時にも主は我々と共にて下さる、私達の間に働かれておられる、そしてこのわたしたちの心の中におられると言うことです。ですから恐れる必要はない、心配する必要はないと励ましておられるのです。

3.ヨセフの信仰

本当にヨセフもマリアも、この楽しいはずの婚約期間中に、神からの大きな試練を受けました。でも、その試練は大きなものでしたが、そのことを通して二人は救い主の父と母と言う最高の名誉を受けたのです。この婚約期間と言う花嫁の修業時代には、誰でも経験します。試練やテストを経験しないクリスチャンはありません。様々な試練を通して、たとえ失敗しても挫折しても、神様はどんな時にも見捨てることなく、必ず私たちのそばにいて下さいます。

パウロ先生も言っています。「愛する人たち、あなたがたを試みるためにふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(Ⅰペトロ4:12~13)またこうも言っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)と。

最後にヨセフは、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」(マタイ1:24)とあります。ヨセフは離縁しようと決心しましたが、夢で天使のお告げを受けて、その御言葉通りにマリアを妻として受け入れました。その後、ヘロデ大王の手を逃れてエジプトに逃げていき、ヘロデが死ぬまで、エジプトに滞在していました。まさにマリアと結婚したばかりに、その結婚生活は波乱万丈の生活でした。楽しいはずの結婚生活も、天使のお告げの通り、長男イエスが生まれるまでは、夫婦の関係は結びませんでした。そしてイエスが生まれてから晴れて、夫婦としての結婚生活に入ることができたのです。そしてヨセフは、御告げの通りに、その子の名前をイエスと名付けました。これは「神は救いたもう」と言う意味です。

ヨセフは、もしかしたら自分の子供ではないのではないだろうか。誰かよその男性の子供だったらと考えると、名前を付ける気にはならなかったと思います。でも、最後にイエスと名付けたと言うことは、自分はこの子の父親である、この子の親権を認めこの子をわが子と認知をして、この子を生涯、責任を持って育てて行くと言う父親の決意があったのではないでしょうか。イエスの父親になると言う覚悟をしたのです。

私達もイエスを自分の救い主として受け入れ、生涯イエスと共に歩んで行きますと言う決心をすることは、正直大変なことではないかと思います。いつも信仰の決心をする時には、どこかに損をしたような、リスクを犯すような気がします。でも父親になると言うことは、そういうことではないでしょうか。何かを犠牲にする覚悟が必要です。ヨセフは、こっそりとマリアと離婚して、安全な道を選び取るという道もあったのではないでしょうか。でも、彼はイエスの父親として、わが子を責任を持って育てると言う覚悟をしました。それが、名付け親としての責任です。自分が考えた名前ではなく、神様が考えた名前を信仰を持って選び取りました。これから先どんなことがあろうとも、「インマヌエル」、神我らと共にいますと言う御言葉を信じて行く決心をしたのです。

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