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インマヌエルの神 (マタイ1:18~25)

メッセージ

2013年12月8日富里キリスト教会

「インマヌエルの神」
(マタイ1:18~25)

1.イスラエルの系図の断絶と連続性

この42代続いたイエス・キリストへ至る系図は、突然、イエス・キリストの誕生を持って終わっています。もしこのまま行けば、イエス・キリストの系図が今日まで二千年間にわたって続くわけですが、どういう訳か、イスラエルの系図はイエス・キリストでストップしてしまいました。

確かにイエス様は、結婚しませんでした。子供も残しませんでした。子孫もありません。生涯独身で、30歳から伝道の公生涯を始められ、ガリラヤ、ユダヤ、エルサレムを中心に伝道され、33歳であのゴルゴダの丘で死刑になってしまいました。この世的に言えば、一人の大工を稼業にしていた男が、冤罪の汚名を着せられて囚人として処刑されたというちっぽけな事件に過ぎないかもしれません。彼には、何人かの弟子や仲間はいたかもしれませんが、それが国を変え世界を変え、歴史を変えるほどの事件になろうとは、誰も想像できませんでした。

それほどに、イエス・キリストの誕生は特別な意味がありましたし、人間の知性や思想では計り切れないほどの出来事でした。一体この男のどこが違っていたのでしょう。それはただ一つ、彼は聖霊によって身ごもったということです。そして、彼は神の子であり、神御自身であったということです。

(断絶)
つまり、イエスの誕生以来、人間の男女の親が子供を産んで代を重ねて血を守るとか、家を守るという時代の終焉を遂げたのです。皆さんも、そういう時代の中で今も生きています。イエス・キリストの誕生は、このような骨肉の世代、血と肉による血縁の時代が終わったということなのです。そのような世代との決別と断絶が、イエス・キリストの誕生によって到来したということです。つまり、聖書が言わんとしている「子供が生まれる」というのは、結婚しなければとか、男と女でなければできないとか、医学的、生理的、血液学的な根拠をもって子孫を残して行くという時代ではもはやないということです。後を継がせるとかという伝統の時代が、終わったということです。

じゃあ、なんで生まれるのですか、なんで子孫を増やして代を重ねて行くのですか、ということになります。それは、聖霊によって子供が生まれる新しい時代が到来したということなのです。今の時代は、聖霊によって霊の子供が誕生する時代に入ったということなのです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ、一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。」(ガラテヤ4:27)と聖書にもあります。

(連続)
この二千年続いたイスラエルの歴史に、連綿と続いて来た約束の民、信仰の民の歴史に、天から神様が突然と介入されたのです。アブラハム以来の約束を守ってきた民に、約束通りに、神がその約束を成就されたのです。何故、この民を選ばれたのか、他にももっとふさわしい一族があったかもしれません。しかし、神は一人の人アブラハムを選ばれ、彼を通してその祝福の約束を実現しようとされました。どうしてかというと、それはもう神様の一方的な選びであり、神様の熱心と熱意がそうさせたという以外にありません。

このイエス・キリストに至る人々の血と肉による系図は、単なる系図ではなく、信仰をもった者の系図でした。神の約束を信じて歩んできた者の系図でもあったのです。ですから、神は、アブラハムの子孫であり、ダビデの家系をもったヨセフをキリストの父として選ばれました。この42代にわたるイスラエルの系図は、信仰を持って救い主の到来を待ち望んでいた信仰の系図です。

このイエス・キリストの後に続く、新約聖書の時代の信仰者の系図と、この点でイスラエルの歴史は連続してくるのです。私たちが霊のイスラエルと呼ばれるゆえんです。信仰による霊のイスラエルとして、イエス・キリストを信じている私たちと同じ系図の中に、キリストに至る彼らも立っているのです。血と肉による人間の系譜が終焉を遂げ、これからは霊による新しい命の誕生の系譜が始まる、いや既に始まったということです。これがこのマタイ1章のイエス・キリストの系図にみる、断絶と連続性ではないかと思います。

2.聖霊によって神の子を宿す

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
                      (マタイ1:18~21)

ヨセフは、確かにダビデの家系のものです。でも、仕事は大工さんです。家系は立派でも、普通の仕事をしている普通の人間です。でも、神様は、その約束のゆえに、ダビデの血筋を持つ者、ダビデと同じ信仰の持ち主である一人の名もない男を選ばれました。これは神様の一方的な恵みの御計画であり、なぜヨセフがキリストの父に選ばれたのかということに疑問を差し挟むことは出来ません。ただ、神様が選ばれた、神様の救いの熱意がこの男を選んだのです。

私たちの信仰生活も同じです。今は、私たちも花婿であるキリストとの婚約期間を過ごしています。やがて、花婿であるイエス様とお会いするまで、今は信仰の花嫁修業中です。花婿であるイエス様のお顔は、まだ見ていませんが、信仰を持って、聖霊の助けによって、やがてお会いする最終的な結婚式の日を楽しみにしております。その時には新郎のイエス様をはっきりとみるでしょう。それまで、聖霊様の保証と言う助けをいただいて、御言葉と祈りによって、信仰を確かなものにして行こうと訓練を受けています。

婚約者のヨセフにも大きな試練が襲いかかりました。自分の許嫁の妻が、結婚式も上げないうちから、そして自分が知らない所で妊娠したというのです。でも、ヨセフは正しい人でしたので、ひそかにマリヤと離婚しようと決心しました。突然の事件の中で、ヨセフの頭も真っ白になったのかもしれません。毎晩眠ることもできなくなったのではないでしょうか。どうしようかと悩み苦しんでいる時に、天使がヨセフに現れて、マリヤの受胎の真実を告げました。「マリヤは聖霊によって宿したのだから、恐れないでマリヤと結婚しなさい。そしてイエスと名付けなさい。これは預言者イザヤが預言されたとおりの事だから。」とヨセフに告げたのです。そして、ヨセフは、この天使の言葉を信じて、マリヤを妻として迎え、イエスが出産するまで、マリヤとは夫婦の関係を持つことはありませんでした。そして、その子の名前を天使が告げたとおりに「イエス」(=主は救い)と名付けたのです。

3.インマヌエルの信仰

この救い主なるイエスの誕生は、実は、さかのぼること600年も前に、あの南王国の預言者イザヤが預言したことでした。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(1:23)「インマヌー」が「宿る」、「エル」は「神」です。インマヌエルの意味は、「神は我らに宿る、我らと共におられる。」と言う意味です。どんなに状況が悪くなっても、国が滅ぼされそうになっても、「神が我らと共にいる。」と言うこの御言葉は真実だということです。そして、これが神様が私たちに与えてくださったしるしだというのです。

このイエス・キリストの十字架の贖いを信じる者は誰でも例外なく、罪赦され、神の子とされ永遠の命に入ることができるという時代に入ったのです。それは、肉や血筋による誕生ではなく、ただ、聖霊がその人に臨む時に、その人の心の内にキリストが宿り、新しく生まれ変わることができるという新しい命の誕生の時代が始まったのです。それがこのクリスマスの、「インマヌエル=神我らと共にいます。」と言う約束です。

このインマヌエルの出来事は、いわばピンチをチャンスに変える出来事ではないでしょうか。どんな時でも、「神我らと共にいます。」このインマヌエルの言葉を教会の合言葉にしましょう。この富里キリスト教会の中に、神様がおられます。そして、この罪深い私たちの内にもキリスト様がおられます。これがインマヌエルの信仰です。「神は我らを見捨てたのか!」という信仰ではなく、「いや、神は我らと共にいます。」という信仰です。たとえ失敗しても、ダメなことがあって、失望落胆するようなことがあっても常に、「インマヌエル」と言いましょう。

良い時ばかりではなく、悪い時にこそ「インマヌエル」と言いましょう。そして、苦しい時、つらい時、悲しい時にも「インマヌエル」と言いましょう。いつもあった時には、「インマヌエル!」と挨拶を交わしましょう。つまり、「聖霊様によって、キリストを自分の心の中に受け入れ、この私の心の中に宿って、すべてを御支配しておられるイエス・キリストの御名によって祈ること。」これがインマヌエルの信仰です。ヨセフも、失望と狼狽と不安の中で、主に祈りました。そうしたら天使が、イザヤの御言葉を運んで来て下さって、「インマヌエル、大丈夫、心配しないでマリヤと結婚しなさい。」と言って下さいました。

この神様によるその最大のそして最初の奇跡が、このマリヤが聖霊によって身ごもって男の子を産むという出来事ではないでしょうか。そして今は、聖霊様によって神の子が次々と誕生するという新しい創造の時代に入っています。この聖霊による神の奇跡の出来事は、教会の中で、そして私たちの交わりの中で今も起こり続けています。このインマヌエルの主を待ち望みながら、このクリスマスの時を、感謝と信仰を持って過ごして行きましょう。   (岡田 久)

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