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インマヌエルの神 (マタイ1:16~25)

メッセージ

2012年12月16日富里キリスト教会
「インマヌエルの神」
(マタイによる福音書1:16~25)

1.婚約期間の真の意味

今朝は、アドベントを迎え、マタイによる福音書1:18からマタイの見た御子イエス様の誕生物語について見てみたいと思います。18節から読んでみます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリヤのことを表ざたにするのを望ます、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリヤを迎えなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリヤは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
                      (マタイ1:18~21)

御子イエス・キリストの誕生は、マリヤとヨセフが婚約していた時に起こりました。当時は、いったん婚約しますと、実質的な夫婦とみなされました。しかし、一年間は、お互いに行き来したりデートさえできずに、それぞれの実家にいいて来たるべき結婚式に備えての準備の時を過ごしました。そして社会的にも二人は夫婦とみなされていましたから、もし、婚約破棄ということになりますと、法律上は離婚とみなされました。また、婚約中に婚約者が死んだりした場合でも、新婦は未亡人とみなされました。

それだけこの婚約期間というものはユダヤ人にとりましては、大切な意味があったのです。それは来たるべき結婚式に向けての準備であり、夫婦生活、社会生活、家庭生活を神の律法に従って正しく歩み、ユダヤ教徒としての信仰的な家庭を築きあげるための大切な準備期間でした。今日のように、婚約したから、もう夫婦同然の生活をしても許されるというようのことではありませんでしたし、結婚前に婚約解消しておいて良かったというようなこともありませんでした。

どうしてこれが信仰的にも大切な習慣だったかと言いますと、婚約は結婚の約束です。そして結婚式はその成就です。この婚約期間に特に花嫁は結婚式に向けて自分を磨き最も美しくなる時だと言われています。それと同じように、私たちの救いも今は約束です。そしてそれが実現するのはイエス様が再臨されたときです。その時には、イエス様と顔と顔を合わせて相見えることができます。ですから、私たちの信仰生活がいわば、主と相見える時までの婚約期間を指していると思ってもいいのではないでしょうか。

私たちも、やがて花婿なるイエス様と顔と顔を合わせて相見えること楽しみにして、自分の信仰をますます固くし、花嫁にふさわしい純潔な衣装をまとって主の再臨と言う結婚式に臨みます。ですから、この婚約期間は、信仰が試され、信仰は育てられるためのテスト期間だと考えてもいいのではないかと思います。キリストの花嫁として、どれだけ美しく、汚れなく、純潔になり、聖くなることができるのか花嫁修業の期間と言ってもいいかも知れません。

ところがこの婚約期間中にマリヤの妊娠が、ヨセフに耳に入って来ました。ヨセフは迷い、悩みました。私たちも、ヨセフのように、人生の中で難しい判断を迫られる時があります。ヨセフは、信仰者として自分でできるかぎりの最善の方法を求めました。それが、このことを公にせず、ひそかに縁を切るということ決断でした。しかし、神様の答えは違いました。それは、マリヤを心配しないで妻として迎えなさいということでした。

2.聖霊によって宿る

ある時、どう決断しようかと迷いながら眠っている時に、ヨセフの枕もとに主の天使が現れて、こう言いました。「マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったものだから、恐れず妻として迎えなさい。」(1:20)と。そして、生まれる子供の名前まで告げられました。神様はこのようにして、私たちが人生の選択や決断で悩んでいる時に、夢の中で御使いを使って教えられることがあります。

このようにイエス様の誕生物語には、天使とか、聖霊とかまるで神話やおとぎ話の話、空想の世界のような出来事が描かれております。科学的な考え方の強い現代人にとっては、にわかには信じ難いことだと思います。ある方が、「わたしは聖書の中に、復活とか処女降誕と言う話がなければ信じられる。」とおっしゃった方がおりましたが、その気持ちも解ります。

しかし今日、科学によって、逆に男と女がいなければ子供ができないという科学的医学的根拠も崩れて来つつあります。それは科学の発展によって生じた、クローン人間です。人間よりも体が大きい家畜の段階で雄雌の生殖によって子供が生まれるということなしに、体の一部の細胞を使ってコピーをするように、子供がつくれる時代となりました。先日ノーベル賞をもらったⅰPS細胞を使って、人間の臓器の再生だけではなく、人間そのもの再生もできる日が来るのではないでしょうか。科学技術の発展が、すでに雌雄の生殖によって子供ができるという科学原理をくつがえしつつあります。

天地創造の時には、神の霊が、被造世界を覆っておりました。そして神は、人間を土のチリから造られ、その鼻に神の霊である息を吹きかけて生きる者としてくださいました。それは神と共に、神の前に生きるという意味です。ですから、人間をチリから造られることさえおできになりお方ですから、聖霊を通してマリヤの胎に御子を宿らせることくらいできないはずはありません。それが、「マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と言う言葉です。なんら驚くことではないと思います。しかし、まだ若いヨセフにとっては、この天使の言葉をにわかに信ずることはできませんでした。

3.ヨセフの信仰

この時ヨセフは悩み考えました。20節に「このように考えていると」とありますが、ギリシャ語では「エンスーメオマイ」と言う言葉です。ある英語の聖書ではponderという訳がありました。これはpond=池と言う名詞からできた動詞ですが、ただ単に考えるのではなく、いろいろと思いをため込むようにして思い巡らすという意味ではないかと思います。ですから、ヨセフはマリヤの妊娠について悩みながらも、いろいろと熟考していたのではないでしょうか。

そしてそういうふうにして、自分の人生に起こった思いがけない出来事について、考え思い巡らすことが大事ではないかと思います。ヨセフではなくとも、誰でも悩みます。しかし、人生悩み考えることが必要です。その葛藤の中に、天使が現れて語って下さるのです。それはマリヤを妻として迎えることでした。しかも、自分の子ではない子供を妊娠している妻です。

聖書では、簡単にヨセフはその通りにしたと書いてありますが、実際は大きな葛藤と悩み苦しみがあったのではないかと思います。ヨセフの信仰が試されたときでした。これが、神の救いの約束を信じるという信仰の戦いではないでしょうか。キリストの花嫁たる全てのクリスチャンに課せられた課題です。花嫁修業中の試験です。ですから、何か人生の中で大きな危機や葛藤が起こった時には、神様は今、自分をテストしているんだなと思ってもいいのではないかと思います。

ヨセフは、主の御言葉を信じて、その通りに従いました。信仰の決断というものはそういうものです。先が見えて、安心できる広い道が待っているということが分かれば、誰でも悩むことなく決断するでしょう。でも、信仰の決断は、正直言って先が見えないのです。世間の目を気にしながら生きて行けるだろうか。この子をどう育てたらいいだろうか。いろんな不安や心配が起こって来ます。暗闇に、足を一歩踏み出すようなところがあります。深みに飛び込むような思いかもしれません。信じられないことに決断して賭けることですから。

みんな悩みます。でも思い切って、主に委ねて一歩踏み出す時に、そこに道が開けて来るのではないでしょうか。それが信仰の歩みではないかと思います。ヨセフはこの信仰決断を持って、一歩踏み出しました。マリヤと一緒に、身重の体のままでベツレヘムに向けて、何十キロもの長い旅に出ました。ヘロデ王が幼子の命を狙っていると聞いて、更にエジプトまで幼子を連れて逃げて行きました。厳しく長い旅の始まりです。でも、ヨセフは、この御使いの御言葉を信じて、マリヤとの厳しい信仰の旅を選び取って行ったのです。

4.その名はインマヌエル

最後に、インマヌエルについて述べて終わりにしたいと思います。ヨセフは、御使いが告げたとおりにその子をイエスと名付けました。これはギリシャ語ですが、ヘブライ語ではヨシュアと言います。意味は、「主は救いなり」と言う意味です。天使は、「この子は自分の民を罪から救うからである。」とその使命を付け加えました。そして、マタイはこのイエスの誕生を、あの預言者イザヤが預言したインマヌエル預言の成就とみました。

マリヤとヨセフは、これから身重の体を抱えたままで、生まれ故郷ベツレヘムまでガリラヤから旅をしなければなりませんでした。しかし、神様がいつも共にいてくださり、幾多の難を逃れ、旅を重ねながらでも二人は無事にガリラヤに戻って来ました。マリヤにとってもヨセフにとっても、まったく先の見えない生活が待ち受けていましたし、身に危険を感じることも幾度となくありました。しかし、その都度その都度、神様が二人を助けてくださり、二人は守られて信仰の旅を続けて帰って来ました。あの夜、天使が語った御言葉を信じて決心し、妻マリヤと共に信仰の旅路に足を踏み出してみなければ味わ言えない御言葉の真実です。

「神様」が共にいるということであって、「わたしたち」が神と共にいるということではありません。あくまでも主体は神様です。神様が最初なのです。だからこそ、確かであり真実であり裏切られることはありません。神が共にいる、インマヌエルの神、これが、聖書の一番最初に宣べられている神様の約束の言葉です。やがて、婚約期間が終わり、輝かしい結婚式の時が来て、花婿であるイエス様と顔と顔を合わせてお会いする時がやって来ます。それまで、このインマヌエルの神を忘れないで、信仰の旅路を一歩一歩、歩んで行きましょう。
(岡田 久)

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