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イスラエルの罪と士師の戦い (士師記10:6~11:11)

メッセージ
2018年9月2日富里キリスト教会
「イスラエルの罪と士師の戦い」
(士師記10:6~11:11)

1. 士師記の背景

今日から聖書教育は「士師記」に入ります。普段は説教でめったに取り上げない箇所ですので、1か月間ですがじっくりと学んでまいりましょう。英語ではJudges(裁判官、裁き人)といいますが、政治的軍事的、また宗教的な指導者と言っていいかもしれません。時代的には、モーセとヨシュアに指導されてエジプトからカナンに入ったイスラエルの民の、約束の地カナンでの国盗り物語です。モーセの時代にも荒野の旅を40年間旅することによって、人々の信仰が試されて、ついに約束の地に入り、ヨシュアによってあのエリコの町を攻略することに成功しました。

しかし、そのあと荒野の厳しい訓練の時代を経験していなかった若い新しい世代が出てくることによって、いとも簡単にカナンの偶像と同化してしまうようなことが起こってきました。イスラエル全体の指導者である王がいないというせいもあったでしょう。士師記の最後の言葉がこう記されています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいことをすることを行っていた。」(士師記21:25)とあります。国としての統一が取れないで、民は勝手なことをしていた一番不信仰な時代と言ってもいいかもしれません。

口にしたくないようなおぞましい不信仰と蛮行がまかり通っていた時代です。それが事細かに記録されていますので、関心のある方は、どうぞこの書を最初から最後まで読んでみてください。エジプトを出て、カナンの地に入って強力な指導者を失い、信仰的にも未熟な時代の新しい世代の人々が、失敗や過ちを繰り返して来ました。そして、少しずつ成長していって、ようやく次に始まるダビデ誕生の先駆けであるルツ記に至ることになります。

全部で14名の士師が立てられていますが、その召命と働きと結果には、一つのパターンがあります。今日の個所の前の10:6を見てみましょう。「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕えた。」(10:6)すると7節「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。」と神の手による民への圧迫が始まります。するとイスラエルの民は10節で「わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。」(10:10)と罪の告白と悔い改めをします。すると主はギレアド人エフタを送ってくださいました。そして士師エフタは6年間イスラエルの民を治めました。(11:7)しかしまた、民は主の前に悪とされる偶像礼拝を行い、異邦人の圧迫と支配下の時がやってきます。(13:1)

このようにしまして、14人の士師の背後には、「イスラエルの民の神への背信」→「神の手による敵の圧迫」→「民の悔い改め」→「神の救済」→「平安」→「再び民の背信行為」と続くサイクルが見られます。これが14回も繰り返されているのがこの士師記だと言っても過言ではないでしょう。教会も同じように、背信、圧迫、悔い改め、救済、平安というサイクルを何度も繰り返すことによって、ようやく教会の信仰が固まってくるのではないでしょうか。

In this month we will study the Judges in old testament. This story started from the occupation of Jericho and ended Ruth story that was the origin of the King David. In those days Israel had no king ; everyone did as he saw fit. (21:25)The Lord left some gentiles in the land of Canaan to test Israel and see whether they will keep the way of Lord and walk in it as their forefather did. The Lord let the new young generation learn the warfare to the descendants of the Israelites who had not had previous battle experience. (2:22-23)
So the immature Israel used to go to the idles in Canaan. Then the Lord sent the foreign army to the Israel to punish them. They groaned under those who oppressed them and they asked to God to save them from the enemy. Then God raised the Judges to save them and the peace came as long as the Judges lived. There is one pattern in this story. that is “the unfaithfulness of Israel to God” “the oppressed of enemy” “the repentance of Israel” “God’s salvation” “Peaceful time” “the unfaithfulness again”. This cycle was repeated many times in this story. We should be trained many time to establish our faith to follow the word of God.
Even if we may encounter the trials in our church and in our life, it is a training time from the God and advancing way to the promise land. God loves us as his child and trains us for the sake of His great love.

なぜこんなにもイスラエルが、恥とスキャンダルの歴史で書き綴られた試練を受けなければならなかったのでしょうか。この書の最初の部分に、その理由が書かれてあります。「カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべてのものを試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるために他ならなかった。ペリシテ人の5人の領主、すべてのカナン人、シドン人、バアル・ヘルモンの山からレボ・ハマトに及ぶレバノン山地に住むヒビ人がそれである。彼らはイスラエルを試みるため、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。」(士師記3:1~4)

つまりいろんな試練はわたしたちの信仰を訓練するためのものであるということです。罪との戦いを学ばせるために、神はあえて敵を残されて、わたしたちが神の戒めである御言葉に完全に聞き従がって勝利を得ることができるかどうか、試されているのです。すべての試練は、わたしたちの信仰の訓練と鍛錬のためなのです。信仰を鍛えるためなのです。よく耳にする言葉です。「なんで神の教会なのに、こんなに分裂や争いがあるのですか?スキャンダルでいっぱいではないですか。これでも教会ですか。こんな教会じゃ行きたくありません。どうして?なぜ?なぜ?」とこういう疑問を、よく耳にします。

でもこれはすべて、神様から来る訓練なのです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」(ヘブライ12:5~7)

2.神の憐れみと忍耐

10:6に当時どんな偶像があったかが記されています。「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテの神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。」(10:6)とあります。7つの偶像が存在しました。そちらの方に走ったのです。

そういう背信行為が何度も繰り返されたものですから、ついには主ご自身も堪忍袋の緒が切れて、そんなに偶像がいいならそっちに行きなさい、わたしはもう知らないと背を向けてしまいました。10:13に「しかし、あなたたちはわたしを捨て、他の神々に仕えた。それゆえ、わたしはもうあなたたちを救わない。あなたたちの選んだ(偶像の)神々のもとに行って、助けを求めて叫ぶがよい。」とこう答えています。もう面倒見切れない、何度言うことを聞いてやったら気がすむのだ、もういい加減お前たちの気まぐれにつきあうのも嫌になった。そんなに偶像が良かったら、その偶像に助けてもらったらどうだというのです。主はイスラエルの民を突き放しました。

そうしましたらまた食い下がって来まして、「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」(10:15)と彼らは食い下がってきました。さあ、主なる神様はどうするでしょうか。皆さんでしたらどうするでしょうか。聖書にはこう記されています。「彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。」(10:16)とあります。他の聖書では、「神はイスラエルを見るに忍びなくなった。」とか「かわいそうになった」と訳しています。

いったん背を向けて、お前なんか知らん、もう勝手にしろと言った主の心を動かしたのは何だったでしょうか。それは彼らが、悔い改めて異国の神々を自分たちの心の中から、自分たちの生活の中から取り除いたからです。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。」と言いました。つまり偶像礼拝の罪を認めて、その偶像の罪を主の前に持って行って、悔い改めたからです。

口で祈っただけでは、聞いてくださらないかもしれません。でも口で祈って、実際に自分の罪を認め、そのことを告白して悔い改めるならば、神の心が動かされます。悔い改めるものの祈りを主は無視されることはありません。しかし口先だけで祈って、心の中に偶像や苦い根を持ったままでいるならば、その祈りは聞かれるでしょうか。その罪の根を探ってもらう必要があります。隠された偶像を見つけ出してもらう必要があります。

そういういろいろな諸々の偶像を自分の中から一掃することを、神様は一番喜ばれます。自分を無にしてただ主にのみ仕えることです。主に心を明け渡して主の前にへり下ることです。主の御言葉にのみ従おうとすることです。最大の士師サムエルの言った有名な言葉があります。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす捧げものやいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記上15:22)と言っています。自分の願いではなく、神の御言葉に聞き従うこと、これが神の心を動かすのです。そのための士師記の訓練なのです。この祈りが主を再び振り向かせられました。

そしてこの後、神様はエフタを士師として立ててくださいました。それは民が主の前に自分たちの罪を告白して悔い改めたからです。士師エフタは、遊女の子として、正妻から生まれた兄弟からは差別され、結局は家から追い出されてしまいます。でも彼の元には多くの好戦的な勇士が集まって、いつの間にか大きな武装集団を形成してゆきました。そして、外敵アンモン人に戦争を仕掛けられた時に、エフタを追い出した人たちが、彼のもとを訪ねてイスラエルの指揮官となってくれるよう頼んだのです。

いったん差別され追い出された人間が、今度は追い出した者たちが困ったからと言って、指揮官になってくれと言ったところで、その要請にこたえることがあるでしょうか。でも神様は、この士師エフタに働いて、イスラエルの民の自分勝手なやり方にもかかわらず、エフタをも指揮官として振り向かせてくださったのです。このように自分勝手な願いを、何度も何度も繰り返すような不信仰で身勝手なイスラエルの民ですが、彼らが必死に自分の罪を悔い改めて、罪を自分たちの内から取り除いた時に、主は必ず助け手を起こしてくださいました。

このわがままなイスラエルの民は、わたしたちのようなものです。のど元過ぎればまた罪を犯してしまいます。主の前に完全な人間も教会もありません。みんな罪の塊であり、罪人の集団です。でも私たちが自分の罪を認めて主の前に食い改める時、主は速やかにその祈りに答えてくださるお方だということを覚えたいと思います。わたしたちの罪の苦しみを共に担い、共に苦しんでくださるお方です。「主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。」とあるように、わたしたちが苦しむ時、呻く時、共に呻き共に苦しんでくださるお方です。

The God said to the Israel after many unfaithfulness behavior to the Lord “I will no longer save you. Go and cry out to the gods you have chosen” (10:14). But when they confessed their sins and repented to the Lord and they got rid of the foreign gods among them and served the Lord, The Lord could bear Israel’s misery no longer. (10:16) The Lord answered their prayer, He sent the Judge Jephthah. The confession of the sins and sweeping away the idles is able to move the Lord’s heart and turn around the Lord’s face to them. Don’t you have any idles in your heart, please refrain yourself and think it whether we have some idles or not and search your inside by helping the holy Spirit. The Lord surely answer our prayer whenever we cry out to the Lord sincerely even if we are weak and sinful and immature Christian.

そのためにも主の前にまず、自分の罪を認めて告白しましょう。そして悔い改めましょう今日も、この宣教の後で、主の流された贖いの恵みの十字架の血潮を受けてゆきたいと思います。そのためにも各自が、まず主の前に自分の罪を認め告白し、悔い改めをもって恵みの血潮と肉にあずかることです。裁くための主の晩餐式ではありません。恵みと赦しを与える主の晩餐式です。あずかる方々は、まず主の前に自分の心の中を調べ吟味したうえであずかりましょう。

もしそのような罪の告白と悔い改めなしにあずかるならば、その人はキリストの死をもてあそぶことになると聖書は警告しています。そして神の裁きを身に招くと警告されています。どうか自分自身を顧み、心の中を探りながら、砕かれた真実の心と素直な悔い改めの心をもってあずかりましょう。主はすぐに振り向いてくださいます。心を動かして祈りに答えてくださいます。すぐに救いの手を差し伸べてくださいます。罪を赦し清め、新しく造りかえてくださいます。

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