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イエス様が船長 (マルコ6:45~51)

メッセージ

2012年1月1日富里キリスト教会
「イエス様が船長」
(マルコ6:45~51)

1.祈るために山へ行かれた

今朝の御言葉の中にこうございます。マルコ6:46に「群衆と別れてから、(イエスは)祈るために山へ行かれた。」イエス様は、わざわざ祈るために山に行かれました。またこのマルコ1:35でも「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。

イエス様は、祈るためにわざわざ弟子たちと離れ、群衆と離れて一人静かなところへ行かれて祈られました。そして、天のお父様と二人きりになって、神のふところに身を隠すようにして祈られました。ここに、イエス様の力の源があります。イエス様が、あのような奇跡を行うことのできるのは、まず最初に、朝早く、父なる神様と二人きりになられて親しく語り合っているからです。

私は、教会に住んでいますから、独りになる場所と部屋はいくらでもあります。礼拝堂、講壇の両隣りの小部屋、二階のジュニアの部屋、牧師室、いくつもありますが、皆さんは家庭ですからなかなか場所が見つからないと思います。ましてや声を出して祈っていたら、「お母さん、大丈夫?」と家族の方が心配するかもしれません。小さな声で祈るしかないですね。

ともかく、神様と二人きりになれるところです。私もマンションに住んでいる時には、声を出して祈るわけにもいきませんので、そういう時には車を近くの公園まで動かして、車の中で祈っていました。

イエス様は、祈るために山に行きました。また一人になるため夜明け前の暗いうちに寂しい所へ行って一人で祈られました。そこが、イエス様の力の源なのです。神様に祈り、神様と交わり、御言葉の支持をいただくときに、私たちは大胆に信仰を持って、何事にも対処してゆくことができます。もし、その時間と場所を取らないならば、心配、恐れ、不安、人への不信と非難の日々になってしまいます。 

2.そばを通り過ぎようとされた

「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いているのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」
                      (マルコ6:47~49)

その時イエス様は、舟のそばを通り過ぎようとされました。どうしてでしょうか。すぐには舟に来て下さらないのです。これは弟子たちの信仰を試されようとしたのではないかと思います。弟子たちの反応を試されたのではないでしょうか。前回は、舟の中で寝たふりをして弟子たちがどうするかを見られました。腕に自信のある漁師出身の弟子ですから、なかなかイエスの助けを求めませんでしたが、いよいよ船が沈みそうになって、ようやく「先生、起きてください、私たちがおぼれてもかまわないのですか!」(マルコ4:38)と言って、必死になって起こしました。

今回も、イエス様を信じることができずに、幽霊だと思ってパニックになりました。なぜそんなにパニックになるのでしょうか。最近パニック障害という精神的な障害の方がるそうですが、一人で電車にも乗れなくなってしまうことがあるそうです。でも、このような心理になるのは誰でも経験するのではないでしょうか。

つまり、自分の目だけに頼っていては、真実を見ることはできないということです。目に見えるものにだまされるということです。イエス様は、舟のそばを通って彼らを試しました。どんな反応をするかです。皆さんでしたらどうされるでしょうか。「嵐を静めてください!」というでしょうか、あるいは「私たちを助けてください!」と訴えるでしょうか。最初にお話しした一人の御婦人は、心が騒いでどうしようもなかった時に、「イエス様、あなたのお言葉をください!」と祈りました。そうしたら、フィリピ4:6~7の御言葉が与えられて、平安が訪れ、血圧が下がったとのことです。

目の前の健康上の不安、数値が上がったとか、夫婦関係、人間関係の悩みで心がパニックになる時、まず私たちが求めるのは、こうしてくださいああして下さいということよりも、目先のことではなく、「主よ、お言葉をください。そうすれば僕はいやされます。」という祈りの言葉ではないでしょうか。そのことを期待して主は、舟のそばを通り過ぎようとされましたが、残念ながら弟子たちはおびえてばかりでした。それでも、主は「安心しなさい。わたしです。恐れることはありません。」と声をかけられて船に乗り込んでくださいました。

3.イエスが舟に乗りこまれる

50節から見てみましょう。「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始められて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗りこまれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。」(6:50~51)

イエス様は言葉です。語りかけられるお方です。そして船に乗り込んでくださるお方です。この船は教会ということです。あるいは私たちの心かも知れません。イエス様の御言葉が入って下さると、風は止み静かになるのです。いろんな問題や困難がある中で、この教会と私たちの心に打ち寄せてくる荒波の中でも、そして順風満帆の時でも、イエス様のみ声を求めて行くことが、私たちの信仰ではないでしょうか。見えるものではなく、見えないお方に目を注ぎ、目ではなく、耳でイエス様の語りかけを聞き取って行くこと、ここに私たちの信仰があります。おる意味では、実に狭く細い信仰の道だといってもいいでしょう。

ヨハネ6章21節の同じ聖書箇所では、こう書いています。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」と。このイエス様の声を聞いて、イエス様を舟の中に迎え入れようとしただけで、舟は目的地についてしまいました。聞こうという気持ちを持っただけで、目的地に着くのです。「先生がそう言うなら、じゃあ、今日から一つやってみようか。」と思うだけで目的が達成されるとあります。

今年はイエス様の御言葉を聞きましょう。大きな船の船長の顔は見えません。でも、伝令管を通して操舵室からいつも船長の声が流れてきます。「面舵いっぱい!取り舵いっぱい!全速前進、前方注意!」という声が流れてきます。イエス様こそこの船の船長です。今年、2012年は、教会の船長であるイエス様の御言葉に耳を向けましょう。夜寝る前、朝起きた時に主の御言葉に聞こうとするだけで、私たちは目的地に着いたとあります。      (岡田 久)

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