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イエスを迎え入れる (ヨハネ6:16~21)

メッセージ
2020年1月19日富里キリスト教会
「イエスを迎え入れる」
(ヨハネ6:16~21)
1. 見守っているイエス

「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」(ヨハネ6:16~17)弟子たちは夕方に、ガリラヤ湖の岸辺に下りて行って舟を出し、対岸のカファルナウムという町に向かって舟をこぎ出しました。しかし、その時にはまだイエス様が来ていませんでした。

マルコによる福音書の同じ個所には、こうあります。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(マルコ6:45~46)このヨハネの方も15節には「ひとりでまた山に退かれた」という言葉になっています。

主イエスはあえて、弟子たちだけを舟に載せて先に向こう岸へやられました。どうしてご自分は乗らなかったのでしょうか。独りになって、祈るために山に退かれました。これはやはり訓練をするためではなかったかと思います。自分達だけで、舟をこいでゆけるかということです。そしてこの船というのは一般的に教会を意味しています。そして向こう岸は、天国を表していると言われています。つまり弟子たちに、イエス無しでこの世から自分たちの技術で船を操って航海し、うまく向こう岸、天国へ着くことが出来るかどうかを試されました。

この富里教会という船を操って、みんなで天国まで無事着くことが出来るかどうかの訓練をしたのではないでしょうか。ですから、イエス様ご自身は乗らないで、弟子たちだけを先にやって、どのように舟を操るか、航海するかというのをご覧になったのではないでしょうか。マルコでは、「強いて船に乗せた」とありますから、渋る弟子たちを無理やり船に乗せて真っ暗な海へと漕ぎ出させたのです。弟子たちの中には、漁師経験者が4人もいますから、待ってましたと言わんばかりに、元気に夜の海に向かって船を漕ぎ出したのではないでしょうか。

この間、イエス様は一人で山に退かれて祈っていました。船は岸から25~30スタディオン離れたところまで来ました。するとガリラヤ湖特有の山からの風が突然吹き下ろしてきたのです。さすがの海の男たちも、この嵐には勝てません、陸から5,6キロ離れた場所ですから、進むことも戻ることもできません。荒れ狂う波と風に悩まされて、舟はにっちもさっちも行けず漕ぎ悩んでいました。この船を教会にたとえますと、教会にも突然の嵐が吹いてくることがあります。わたしも長い牧会生活の中で、何度も突然の嵐に遭遇しました。何で、どうしてこんなことが起こるのかと思うほど、教会を襲う嵐も突然にやってきます。

マルコ6:48では「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」とあります。つまりイエス様は、あえて弟子たちだけで船に乗せて送り出しましたが、山の上からじっとその湖に浮かぶ船をご覧になっておられたのです。つまり、主の姿が見えませんが、イエス様の方からはわたしたちを見守っていてくださるということです。そして何かあったらすぐに駆け付けようとしておられるのです。

イエス様がいない時に、目に見えない時に、わたしたちがどういう行動をとるかをイエス様は試したのではないでしょうか。必ず見ておられる方ですから、心配する必要はありません。そして教会に吹きつける嵐も、主がわたしたちを試そうとしておられるのです。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が表れる時にも、喜びに満ち溢れるためです。」(Ⅰペテロ4:12)ですから、どんな艱難も問題も喜びましょう。主はすぐ近くにおられます。ご覧になっておられます。見守っておられます。

2. 近づいて来るイエス

「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。25ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」(ヨハネ6:18~19)
イエス様は、ご自分は同行しないで、弟子たちだけを先にやらせたのでしょうか。それは弟子たちを訓練するという意味があったと思いますが、いったい何の訓練だったでしょうか。嵐の時にはどうすればいいか、操船技術だったでしょうか、航海術だったでしょうか。そういう訓練のために夜の海へ弟子たちだけで漕ぎ出させ、嵐を送られたのでしょうか。

もしこの船を教会にたとえるならば、礼拝をどう発展させたらいいか、伝道をどうしたらいいか、教会学校をどうしたらいいか、スモールグループをどうしたらいいかという教会運営のための技術を学ばせるために、押し出したのでしょうか。そうではなく、教会にとって一番大事なことは何かという根本的な事を教えるために強いて押し出したのではないでしょうか。技術ではないはずです。教会という船が安心して航海し、目的地に着くための最高の方法を教えることではなかったでしょうか。

おそらく船の漕ぎ方とか、天気の見分け方ということでしたら、弟子たちの方が専門家ですから、よく解っていたと思います。そういう専門技術ではなく、最善の航海方法、安全運転法は何かということです。この教会にとって一番大事な事、最優先すべきことを学ばせるためだったのです。しかし自分の力や技術や知識や経験により頼んでいるうちは、目的地に着くことはできません。突然の嵐に対処することが出来ないのです。

現代の教会が安全に目的地に着くための航海法、それはこのイエス様ご自身を第一にして、このお方を舟の船長にしてゆくこと以外にないということをイエス様は教えたかったのではないでしょうか。嵐に道を阻まれ、漕ぎ悩んでいる舟を見て、イエス様は山から下りてこられました。そして舟に近づいて来られたのです。ああ、よかったこれで嵐を回避して無事航海を続けることが出来るはずでした。ところが、どうしたことでしょう。肝心のイエス様が近づくと、弟子たちが喜ぶのではなく、恐れにうちふるえたのです。マタイもマルコも「幽霊だと思って、恐怖の叫び声をあげた」と記されています。喜んで舟に迎え入れるどころか、恐怖に駆られて大声を上げたのです。どうしてでしょうか。せっかく助けに来たのに。

それは弟子たちの目が、荒れ狂う荒波と風に奪われて、肝心の助け主であるイエス様を認めることが出来なかったのです。この世の嵐、予算がない、病気になった、人がいない、そういうこの世の方に目が行きますと、わたしたちは山から下りて来るイエス様を認めることが出来ないのです。自分の心の恐怖感がイエス様に投影されて、その恐怖の心を投影して、イエス様をお化けのように思いこんでしまうのです。

大嵐が起こって、もうだめだ教会が沈没してしまうと思う時に、わたしたちがどうするのか、それをイエス様はご覧になっておられます。いつまで波風におびえていて、何もしないままか、あるいはイエス様がそばを通って行かれた時に、何も助けの声も出せずにただ怖がって見過ごしてしまうのでしょうか。恐れでいっぱいのわたしたちです。本当に信仰のない、弱い私たちです。そういう私たちに対して主は、声をかけてくださいました。

3.話しかけられるイエス

「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(6:20~21)とあります。主はご自分から、舟の中でパニックになって恐れ惑っている弟子たちに対して、声をかけられました。このようにイエス様は、天からいつでもわたしたちをご覧になっておられます。そして私たちが悩み苦しむ時に、天から下だって来られます。どこに居てもいつでも、主はまるで幽霊のように近づいて来てくださるのです。幽霊には足がありませんからどこでも行けます。そしてお声をかけて下さるお方です。

ここにわたしたちの信仰があります。目で見ようとするかぎり、わたしたちは恐怖心を拭い去ることはできません。目はわたしたちの心を惑わします。信仰とは目で見て確かめるのではなく、聞いて信じることです。わたしもここのところ、引退のことや次の後任の牧師のこと、また柱の工事などで、大分心が重くなる時がありました。そうしましたら、ある時、スマホの御言葉のアプリをたまたま開いてみました。普段は無視してみないのですが、その日に限って開いてみました。

そうしたら、フィリピ4:4~6の御言葉が書かれてありました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」という御言葉でした。これを読んで、ス~と心の重荷が取れてゆくのを感じました。心配しなくてもいいんだ。ただ感謝を込めて祈りと願いごとを捧げれば良いんだと思ったのです。

「わたしだ、恐れることはない。」という主の御言葉です。わたしたちの心の中に恐れがあるのです。わたしたちの心の方がイエス様を認めないのです。問題はわたしたちの側にあるのです。信仰の目をもって見ているかどうかです。信仰をもって聞いているかどうかです。主の御言葉を聞くならば、イエス様の姿が見えてきます。「御言葉はわが道の光、わが足の灯火」(詩編119:105)主の御言葉に耳を傾けたいものです。これが、主を迎え入れるということではないでしょうか。

4.イエスを迎え入れようとした

マタイもマルコも、同じ記事ではイエス様が船に乗り込まれると嵐は止みました。そしてこのヨハネの方は、イエス様を舟に迎え入れようとしました。迎え入れたのではなく、入れようとしたと書いています。つまり弟子たちが、自分たちの恐怖心を悔い改めて、イエス様を自分たちの船に入れましょうとしただけなのに、舟は目指す地に着いたのです。普通でしたら、弟子たちは喜んでイエス様を舟に迎え入れました。そうしましたら不思議なことに、嵐が止んで静かになり、舟は目的地に無事につきました。という表現になるのではないでしょうか。

でもこの文章では、「迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」となっています。英語ではimmediatelyとなっています。直ちに、すぐにという意味です。ある聖書では、They desire them to take Him into the boat, and immediately the boat became at the land which they were going. つまりイエス様を舟に迎え入れようとしただけで、あるいはイエス様が船に入り込んだと同時に、舟は目的地に着いたということです。

イエス様が入った瞬間に、舟はもう目的地に着いたということを言わんとしているのではないでしょうか。イエス様が船に入った時と、目的地に着いたときの時間的隔たりがなく、イエス様ご自身が目的地と同じように書かれてあります。ヨハネは、イエス様が共にいる場所そのものが既に天国であるということを言わんとしているような気がします。目指す地、向こう岸とは天国です。そしてわたしたちが目指すべき天国とは、イエス様ご自身でもあるわけです。目指すべき地である神の国が、すでにイエス様が船に乗った瞬間に実現したという言い方になっています。

イエス様がこの船である教会に入って下さるなら、そこには既に天国、向こう岸が実現しているのです。船が向こう岸になったということです。私たちがイエス様を、この教会にそして私たち一人一人の心の中に迎え入れようとするなら、すでにそこには天国が実現しているのです。聖書にこうあります。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)とイエス様は言われました。イエス様と共に旅をすること、イエス様と共に歩むこと、これがわたしたちの人生の目的なのです。イエス様と共にいることが天国であり、わたしたちにとって最高の幸せなのです。詩編73:28に「わたしは主の近くにあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。」という御言葉がございます。

イエス様はいつも私たちを見守っていてくださる。たとえ人生の嵐の中にあってにっちもさっちもいかなくなっても、すぐに近づいて来てくださり、わたしだ、恐れることはないと言って声をかけてくださるお方です。信仰が弱く、この世の嵐や波風を見て、怖くなって水に沈みかけたペテロをも、主はすぐに手を差し伸べて水の中から救いあげて下さるお方なのです。このお方を心の中へと迎え入れましょう。いや迎え入れたいと思うだけでも、主はすぐに来てくださいます。迎え入れようとしただけで、そこに約束の天国が与えられるのです。今がその時です。(岡田 久)

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