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イエスを突き刺した者 (ヨハネ19:31~42)

メッセージ

2012年4月1日富里キリスト教会
「イエスを突き刺した者」
(ヨハネ19:31~42)
1.十字架のイエス

イエス・キリストは、金曜日に十字架にかけられました。朝の九時ごろ十字架にかけられまして、十二時には空が暗くなり、それが三時まで続きました。最後に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれ、「わたしは渇く」と言われ、一番最後には、贖いの業がすべて成し遂げられたことを知り、「成し遂げられた」と言って、息を引き取られました。(ヨハネ19:28~30)

このヨハネの19:29節に、最後に人々がぶどう酒を含ませた海面をヒソプの棒につけて差し出しますと、それを飲まれたとあります。十字架につけられた最初の時には、このぶどう酒を飲みませんでしたが、最後の最後に、ご自分が十字架の苦しみを十分に受けた後で、ぶどう酒を飲んで息絶えたのです。ぶどう酒は一種の痛み止めと麻酔の役目を果たしますので、主は、十字架の上で受ける痛みを和らげる麻酔を拒否され、最後の最後まで苦しみを存分に味わい尽くされて息を引き取られました。

今朝は、このキリストの十字架の死の様の細かい出来事の細部に至るまで、旧約の預言者が言ったとおりであるということを見てみたいと思います。
「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。するとすぐ血と水が流れ出た。」
(ヨハネ19:31~34)

A.足を折らなかった

これを書いたヨハネは、あの十字架にかかったナザレのイエスこそ、ユダヤ人が長い間待ち望み、律法が指し示してきた神の子羊だったということを言いたかったのです。エジプトを脱出する時に食べた過越しの食事は、そしてユダヤ人が今でもかたくなに守って来ているあの過越しは、実はこの十字架にかけられたイエスのことを指し示しているのだということです。神の子羊であるイエスの死によって、人々が災いを避けることができたのです。そして、今、イエス・キリストが全人類の罪を贖う子羊として屠られたのでした。

ですから、わざわざイエスの死体を取り降ろして埋葬する時に起こった出来事を詳しく書いているのです。当時は、死刑囚が万が一にも息を吹き返して逃亡しかねないとも考えていましたから、取り降ろす際に足を木槌で折ってから降ろしました。それはまた、最後のダメージを与えて、完全に死に追いやるという意味もありました。

ところがイエスの場合には、すでに死んでいましたので、足を折らなくても逃げはしないし、最後の傷を与える必要もないと判断したのでしょうか、イエスの足だけは折りませんでした。そのことをヨハネは、「その骨は一つも砕かれない」(出エジプト12:46、民数記9:12、詩34:21)という言葉が、このイエスにおいて成就したということを述べております。つまり、この十字架にかかったナザレのイエスこそ、神が預言し、イスラエルの民が待ち望んでいた神の子羊メシヤ、救い主であるということをヨハネは書き残したのであります。すべては、聖書が預言していた通りであったということです。

なぜ足が、折られなかったかと言いますと、それは神の前に完全な捧げものであり、決して傷があったり病気だったりした者でなく、聖なる完全な供え物であったということです。また、そのままの体で復活するが故に、人間が手を加えてはならなかったのではないかと思います。

B.槍でわき腹を刺す

次に、「槍でわき腹を刺した」ということですが、イエスは、すでに息を引き取り死んでいたのですが、一人の兵士が、念のためにイエスのわき腹を槍で突き刺しました。そうしましたら、傷口から血と水が流れ出たとあります。死んでいるのにわざわざ、槍を指す必要はなかったと思いますが、兵士は職務に忠実に念のためにわき腹を刺しました。これは肋骨の間を通して心臓にとどめを刺したということです。

そして、この兵士がイエスにとどめを刺すということも、旧約聖書の中で預言されていたとヨハネは述べています。37節に「また聖書の別の個所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」とあります。これは、ゼカリヤ12:10(P1492)の預言の言葉を指しています。「わたしはダビデの家とエルサレムの家の住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いたものであるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」という預言の成就とみています。

その時には、エルサレム中に「憐れみと祈りの霊が注がれる」と言っています。すなわち、この十字架の日には、エルサレムに天から神の恵みの霊、憐れみの霊が注がれるのです。そして人々は心静かに自分のことを振り返り、祈りの心が与えられ、自分の罪を認める悔い改めが、エルサレムに、いや全世界中に起こるということをゼカリヤは預言しました。

今日はこの後、主の晩餐式がありますが、私たちは、自分の罪がイエス・キリストを突き刺したという思いを心に抱いて、晩餐にあずかります。その時に、恵みの霊(口語訳聖書)と祈りの霊が注がれるというのです。私たちは、自分の罪によって刺し通したお方を、いつも目の前に置いて歩む恵みにあずかっております。その自分の罪を示して下さるのが聖霊様です。

つまり、あのイエスのわき腹を刺したのは、ローマの兵士ではないということです。ユダヤ人をはじめ全イスラエルが、いや、ユダヤ人に限らず全ての国の人々が、まぎれもなく、あのイエスのわき腹に槍を突き刺したのだということです。私たちの罪が、一人も例外なく、あのイエスのわき腹に槍を突き立てたのだということをヨハネは宣言したのではないでしょうか。罪とは、神を神と認めないということです。兵士は知らずに平気で槍を刺しました。でもすべての人はアダムの子孫です。罪を持っているのに、それを知らないだけです。神の恵みの霊がそのことを教えてくださいます。

わたしの罪が、皆さんの罪がイエスを知らないと言って拒み、イエスを死に追いやったのではないでしょうか。あなたの罪がイエスを死に追いやったのです。あなたの罪の穂先が、鋭くとがった罪の刃がイエスの肉を裂き、イエスの肉を貫き通したのです。

C.すぐ血と水が流れ出た

三番目に、聖書には「すると、すぐ血と水が流れ出た」とあります。一人の兵士が、槍の穂先をイエスのわき腹に突き刺し、息の根を止めた時に、「すぐに」その傷口から血と水がほとばしり出ました。医学的には、イエスは心臓破裂で息を引き取り、その時に心臓にたまった血液と水が、槍で刺した時に流れ出たといわれています。

しかし、これは単に医学的に考えるのではなく、預言の成就とみても良いのではないでしょうか。先ほどのゼカリヤ書の12章の後の13章1節(P1493)に、こういう言葉が出ています。「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。」ゼカリヤは、すべての人が神の子を十字架につけ、そのわき腹に罪の槍の穂先を突き刺す時が来ると預言しました。しかし、それと同時に、全世界に神の恵みと祈りの霊が注がれ、突き刺した者の罪が洗い清められる日が来ると預言しました。

しかも、その日は悲しみと嘆きの日ではあるが、同時に神の恵みと憐れみの日でもあるということです。なぜなら、神の恵みと憐れみと祈りの霊が注がれ、イエスを刺し貫いたすべての罪人に、神の恵みによって、同時にそして直ちに、その瞬間に罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれるというのです。それが、あのイエスのわき腹から流れ出た血と水なのです。

しかもここで私が言いたいのは、「すぐに流れ出た」ということばです。つまり、私たちが自分の罪を認め、私こそが、私の罪の穂先があのイエスの体を刺し貫いたのだという人に対して、間髪をいれずに、その罪と汚れを赦し洗い清めるイエスの血と水が注がれるということです。「すぐに」という言葉は、ギリシャ語では「イウセウス」という短い副詞ですが、英語ではat once となっています。

つまり、私たちが十字架の主を見上げ、わたしの罪があなたを十字架につけたということを告白するならば、その場で直ちにイエスの血と水が私たちの罪を洗い流して清めて下さるということなのです。イエスを十字架につけ、そのわき腹に槍を突き刺したような私にも、その瞬間に同時に、主の血と水が逆に注がれるのです。なぜこんな私にも、主の愛が注がれるのでしょうか。それは、自分こそあのお方を十字架に追いやったものであり、わたしの罪はあなたの前に明らかですと告白するからです。

たとえ、人の罪が火のように燃え盛っていても、イエスを拒みイエスを無視しイエスを十字架につけても、十字架から、その突き刺した傷口から、イエスの赦しの血が、愛となって恵みとしてその人に注がれるのです。「十字架からあふれ流れる泉、それは神の愛」なのです。このイエスのわき腹から流れ出る血と水は、私たちのどんな罪よりも大きいのです。私たちの罪の穂先を包み込むほどの、神の愛と赦しの泉です。

2.立ち上がったヨセフとニコデモ

この出来事を通して、次に本当に不思議なことが起こりました。それは、今まで、自分が信じているものであるということをひた隠しにしていたユダヤ人の二人の指導者が、イエスの死体を葬りたいと願い出たのです。

「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。」(19:38)とあります。心ひそかに信じてはいたが、周囲を気にしてはっきりと告白していなかった二人の有力者が、堂々とイエスの遺体を引き取りたいと申し出たのです。
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人々の前に、自分はあの人の弟子です。あの十字架の死こそわたしの救いの源です。あのイエス・キリストの十字架以外にわたしを救う道はありません。私は自分が刺し貫いたお方を、いつも見上げてこれから共に歩んでゆきますと宣言したのです。ここに真理があります。この真理の言葉を正しく宣べ伝えましょう。私たちも新しい年度を迎え、命であり真理であり道であるイエス・キリスト、しかも私の罪にために十字架につかれたお方を常に見上げて歩んでまいりましょう。そして、このお方をヨセフとニコデモのように証するものとなって行きたいと願っています。          (岡田 久)

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