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イエスの系図は預言の成就 (マタイ1:1~17)

メッセージ
2020/12/06
富里キリスト教会礼拝説教
「イエスの系図は預言の成就」
(マタイによる福音書1:1〜17)

①預言の成就
 夏、秋と私たちは出エジプト記、コヘレトの言葉と旧約聖書を通して御言葉の恵みを受けてまいりましたが、季節も冬、12月となりマタイの福音書と新約聖書にもどってきました。12月というとクリスマスも近づき、アドベントにも入りました。そういう意味で言いますと、イエス様の公生涯が生き生きと描かれている福音書、しかもイエス様の誕生が描かれている新約聖書の始まりの書、マタイによる福音書から恵みをいただくことは教会暦の上でも非常にふさわしいといえるでしょう。
とはいっても、今日の箇所からいったいどんな恵みを受けるのだろうとお考えになった方はおられませんか?恥じる必要はありません。胸を張っていうことではありませんが私も昔は、よくこの冒頭を飛ばして読んでいたものです。なぜなら、今日の箇所、マタイ福音書であり、新約聖書の始まりは系図で始まっているからです。つまり名前の羅列です。これは予備知識がないと中々意味がわからないでしょう。記号にしか見えないわけです。
ですから、聖書を読んだことのない人には、最初はこの冒頭のマタイ福音書ではなくルカ福音書やヨハネ福音書などから読むことを勧めることが多いと聞いたことがあります。いきなりこの系図から始めるとチンプンカンプンで心が折れて読むのをやめてしまうかもしれないという配慮がそこにはあるのでしょう。わかる気はします。
しかし、この系図には本当に多くの意味が込められています。マタイは明確な意図を持ってこの系図を冒頭においたのです。まず、系図というものが一つの書の冒頭に書かれるということはユダヤの伝記の伝統に沿ったものでした。彼らは非常に系図を重んじ、大切にしました。旧約聖書にも本当に長い系図が何度も出てきます。彼らにとって名前はただの記号ではなく、その人格そのものを表し、その名前が生きた証であることを証明していると捉えていました。名前にその本質を見いだしていたのです。このマタイ福音書はユダヤ人であるマタイが同胞であるユダヤ人に向けて書かれたものであると言われていますが、この系図での冒頭はまさにそのことを意識した書き出しであることを鮮明に表しています。
そして、この系図はイスラエルの歴史、つまり旧約聖書そのものを表しています。この旧約聖書、イスラエルの長い歴史の中で語られてきた預言の成就こそがイエス・キリストなのだとマタイは主張しているのです。マタイ福音書は旧約聖書を踏まえた上でのイエス・キリストを非常に意識して書かれており、ある意味この書は旧約聖書と新約聖書の橋渡し的な役割を果たしています。そういった点を見ても、新約聖書がこのマタイ福音書から始まることは非常に意味があることと言えるでしょう。

1:1
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」

マタイ福音書の一大特徴は旧約聖書からの引用が圧倒的に多い点が挙げられます。そして、そこに示されているメシアへの関心によってユダヤ的特質を知ることができます。旧約の預言の成就としてのメシアについての旧約引用は他の福音書よりもはるかに多いのです。
そして、そのメシアは「ダビデの子」として表現されます。ユダヤ人が捕囚によって異民族の支配を受けるようになってから、理想の王であるダビデの子孫がメシアとしてあらわれイスラエルに勝利を与えることを強く待望するようになったのです。そして、それは旧約聖書を通して神様が約束されていたことでもありました。

2サム7:12−13
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」

新約時代における「ダビデの子」とはメシアの称号であり、マタイ福音書はイエス様がダビデの子孫であることを明確に記しています。私たちが長い歴史の中で待ち望んでいたメシアこそがイエスなのだとマタイは、同胞にこの喜びの知らせを伝えようとしています。キリストというギリシャ語はメシアというヘブル語と同じ意味で「油注がれた者」という意味です。
しかし、このメッセージは裏を返せば、その待ち望んでいたメシアをお前たちは罪人とし、十字架につけたのだ。民族主義や律法主義に固執し、自己を義と誇り、目に見える王国の救世主をお前たちは望んだのだ。そのような痛烈で皮肉なメッセージでもあるのです。
しかし、まことの王イエス・キリストはまことの神の王国の即位をカルバリの十字架の上でなされた。それはイスラエルためだけの王、メシアではない。王は全ての者の解放のために即位なされたのだ。ユダヤ人も異邦人も罪人も王も関係ない。この罪ある世界にまことの王が来られた。これは全ての世界中の人に向けられた福音なのだ。それを今から私は語る。そして、それは旧約聖書に示された神が私たちイスラエルに約束されたことの本当の意味での成就でもあるのだ。そういった意志がこの系図の中には貫かれているのです。

②系図で異例の四人の女性
前振りがだいぶ長くなりましたが、それでは実際に系図の方を見てみましょう。アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダからダビデ、そして数々の王の名前がそこにはあります。由緒正しき、イスラエルの民が誇るべき血統、系図です。「俺の先祖はあのダビデ王だ!!」普通はそのように自慢するための系図かもしれません。確かにたくさんの王の名前がそこにはあります。
しかしここには意外な名前が載っていることも目を引きます。それはある女性四人の名前です。なくはないですがイスラエルの系図に女性の名前が記載されることは非常に珍しいことでした。しかも、女性といってもサラやハンナのようなイスラエルの信仰者ではなく、彼女たちには失礼ですがちょっといわくつきといってもいいような者の名前です。つまりあえて、マタイは彼女たちの名前を入れたといってよいでしょう。その女性たちを少し一人ずつ追っていきましょう。
一人目はタマルです。タマルはユダの長男であるエルの妻となったが夫は死んでしまいます。当時の風習として子孫を残すために、今度はそのエルの弟に嫁ぎますがそれもまた死んでしまいます。今度はさらに弟シェラが成人になった暁には結婚させると父のユダは約束し、タマルは実家に帰って寡婦のせいかつをしていました。しかし、シエラが成人になっても父ユダが結婚させようとしなかったので遊女を装ってユダと結ばれ、タマルは双子を産んだのでした。つまりタマルはしゅうととの姦淫によって子を産んだ者なのです。ユダが約束を果たさなかったことも悪いかもしれませんが、しかし、やり口がほぼだまし討ちといってもよいでしょう。やはり、いわくつきといっていいかもしれません。こういう家系から由緒正しきダビデの家系は生まれました。
二人目はラハブです。ラハブはエリコの遊女でした。しかし、彼女はイスラエルがエリコを制圧するとき二人の斥候をかくまいました。ラハブは、すでにイスラエルの主を知って信仰告白していました。そして、その時ラハブはイスラエルがエリコに侵入する際、自分の命を助けるという約束を得ます。そしてヨシュアは約束通り助けた。汚れた者であり、罪人である遊女を用い、神はカナン占領のわざをなされたのです。そのラハブがルツの夫であるボアズの母となります。
そして三人目がそのルツです。ルツ記にあるようにナオミとの美しい愛、従順な娘、異邦人でありながら信仰を告白した信仰者です。しかしルツはモアブ人という異邦人でした。モアブの娘はかつて不道徳と偶像礼拝に陥った汚れた者と聖書には記されています。そのルツとボアズが結婚し、オベデが生まれ、エッサイ、ダビデとなります。由緒正しきダビデのひいおばあちゃんは、汚れたとされていた異邦人でした。
最後の四人目がウリヤの妻です。これはバテシェバのことを指しています。あえてダビデの妻と書かないところに痛烈な皮肉を感じます。ここには王室最大のスキャンダルがあります。バテシェバの罪というよりダビデの罪です。ダビデはウリヤの妻であったバテシェバと姦淫を犯し、ウリヤを間接的に殺してしまったのです。ユダヤの誇りであるダビデ。その者が何よりもの罪を犯した者だったのです。
そういった女性四人があえてこの系図の中に入っているのです。イエス様がお生まれになる時代、イスラエルの民は自分たちを神に選ばれた聖なる民とし、それ以外の異邦人や律法を守らない者を汚れた罪人としていました。しかし、そのイスラエルとはいったい何者なのか?異邦人も律法を守らない者も汚れた者とし、排他し、自分はきよく正しいと誇るがその血は私たちにも脈々と入っているのだぞ?この系図からそういったマタイの問いかけが聞こえてきます。

③栄光ではなく罪だらけの歴史
この系図はイエス・キリストがダビデの子、正統なメシアであり預言の成就であることを表しているとともに、イスラエルの歴史そのものであると先ほど言いました。その歴史は栄光に満ちたものだったでしょうか。残念ながら決してそうではありませんでした。そこには罪にまみれた人間の歴史がありました。それが旧約聖書です。
少し旧約聖書のイスラエルを振り返りましょう。アブラハムとの祝福の契約から始まり、イサク、ヤコブと族長時代を経て、一つの家族はエジプトで一つの民族にまでなります。しかし、それゆえにファラオに恐れられ、奴隷となりました。神様はアブラハムとの約束のゆえ、彼らをエジプトから救い出しますが、民は感謝するどころか呟き、神に背を向けることもありました。
しかし、それでもなんとか神の力を受け、カナンを制圧し、士師の時代に入ります。そこでも彼らは偶像礼拝をして堕落し、ピンチになったら神様に助けを求め、その都度士師を通して神様は彼らを助けます。しかし、助かるとイスラエルの民はまた堕落し、偶像礼拝をする。そしてまたピンチになって神様が助ける。この繰り返しが続いていきます。
そして、しまいには本来、神様こそが王様でありながらも私たちも王が欲しいといいだし、イスラエルは王国を築くことになっていきます。サウル、ダビデ、ソロモンと王政は続き、ソロモンの時代はどの国よりも栄えます。しかし、そこにはダビデのバテシェバとの姦淫であったり、ソロモンの雑婚と偶像礼拝などの罪がありました。そして、栄華を誇ったイスラエルは南北に分裂をしてしまします。
この系図に書かれている王は南ユダ王国だけの者です。ヒゼキヤなどは善王と評価されていますが、しかし全てが良かったわけではありません。彼にも失敗がありました。他方、悪王と名高いマナセもいますが、しかし彼は最後には回心をしました。100%善とも、100%悪とも言い切れない、しかし罪に囚われ続けた王家とイスラエルといってよいでしょう。なぜなら彼らは結局、偶像礼拝を断ち切ることが最後までできなかったからです。そのこらしめのさばきとして彼らはバビロン捕囚を受けることとなります。そして、その70年後、神様は憐れみをもって、彼らをエルサレムまで帰し、そしてイスラエルは再び、新たに神殿を建てなおすのでした。おおよそ、大まかにみて旧約聖書におけるイスラエルの歴史の啓示はここまでを表しています。その後、しばらくの空白の時代があり、新約聖書の時代へとなります。
その空白の時代でイスラエルの民は、律法を守らなかったゆえのバビロン捕囚への後悔、反動によって今度は極端な律法主義へと傾いていきます。その中でパリサイ人などが生まれてきます。また、政治の面で言えば周囲の大国の圧迫によりギリシャ化を押し付けられ、律法を捨てない者は迫害を受け、彼らはその圧力に抵抗し、国を建てあげました。その影響によって律法を守らない異邦人は敵だとし、過度な民族主義、排他主義となり、聖書の本質を見失うようになっていきます。そんな時代にイエス・キリストはお生まれになったのです。

④愛と忍耐の神の答えーイエス・キリスト
誇り高きダビデの家系。しかし、栄光とは程遠い罪の歴史がこの系図には表れています。そして、そこには、当時のユダヤ人が軽蔑していた、異邦人、遊女、罪人の名が記されています。民族主義、律法主義にこだわるユダヤ人に対する大きな投げかけがここにはあり、そのメッセージは自分を正しい者と誇る高慢をへし折るものといってよいでしょう。
しかし、この系図はそれと共に、逆に自らの罪を自覚し、悔い改め、神に憐れみを求める者にとってはこれ以上ない慰めのメッセージとなります。この罪の系図の最後の名前がイエス・キリストなのです。神に背を向け、反逆する人の罪に神様が救いの介入をなされる。これが罪人である私たちに対する神様の結論なのです。
旧約聖書で神様は、背を向けつづけたイスラエルの民に帰ってこいと預言者を通して叫び続けます。ここに私たちを決して諦めない愛と忍耐の神様の姿があります。バビロン捕囚という裁きを神様はなされましたが、同時にそれは平和の計画であると主は回復の約束もなされました。決してご自分の民をお見捨てにはならないのです。そして、その捕囚というどん底にある民に対して、神様がお示しになったものが新しい契約なのです。

エレミヤ31:31−34
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにも関わらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
しかし、来るべき日に、わたしたちがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。その時人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

悪を赦し、再び罪に心を留めないと主は約束されました。この契約はユダヤ人だけのものではありません。全ての人間に向けられた約束です。なぜなら、ユダヤ人も異邦人も、遊女も、王も、つまり私たちを含めた全ての人間が神のみ前においては例外なく罪人だからです。しかし、その全ての罪人を例外なく救い出すと主は言われます。愛と忍耐の神様の答えがイエス・キリストの十字架だったのです。
このいつまでも神に背を向け続けるイスラエル、つまり私たち罪人である人間に対する答えが預言の成就なのです。王の王、主の主メシアであるイエス・キリストの即位です。罪に囚われている私たちの解放です。
アダムの原罪から始まり、イスラエルという民を通しても人間は神を裏切り続けました。しかし、そんな人間に対する神様の答えは完全な愛でした。この愛に漏れる例外は誰一人いません。ユダヤ人も異邦人も遊女やとんでもない罪を犯したような人も、全ての人間のために神は人となってこの地に降りてきてくださったのです。それが私たちの待ち望んでいたメシアなのです。
普通、系図は自分の先祖の由来を誇り、過去によって自己をえらくみせるものです。しかし聖書は、系図は過去ではなく、将来を指し示しています。神が長い旧約の歴史ののちに、人類の救い主を備えられる、その希望を語っているのです。この系図そのものが福音を物語っているのです。
聖書で系図が出てくるのは、イエスさまで終わりです。これ以降は出てきません。イエスさまこそが歴史の頂点であり、私たち罪人に対する神様の結論なのです。この救い主、主イエスの到来によって救いは完成されるのです。その救い主の到来の喜びを心から待ち望むアドベントといたしましょう。

武井誠司

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