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イエスの死 (ヨハネ19:28~37)

メッセージ

2014年4月13日富里キリスト教会

「イエスの死」
(ヨハネによる福音書19:28~37)

1.すべてが成し遂げられた

主イエスが十字架に架けられたのは、朝の9時と言われています。そして12時になりますと空が行ってにわかに暗くなり、午後の三時までそれが続きました。そして、午後3時に息を引き取ったと聖書には記されております。その最後の場面が、19:28~30までに記されていますので、もう一度読んでみましょう。

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々はこのぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(19:28~30)

28節に「イエスはこの後、すべてのことが成し遂げられたことを知った。」とあります。つまり、主イエスはご自分がこの地上に遣わされ、マリヤの子として生まれ、神の子として今の今に至るまで、御言葉と数々の奇跡の業をもって神の国の到来を告げ知らせて来ました。そして、ご自分のすべての働きの目的は、この最後の十字架の贖いという使命のために遣わされたということを知っていました。その最大の使命である、全人類のための贖いの業が今やここに成就し、完了したという意味で「すべてのことが成し遂げられた」のを知ったのです。

主イエスがこの世に来られたのは、確かに十字架に架かるためでしたが、十字架に架かって「死ぬこと」が目的ではありませんでした。確かに死を迎えるのは最後ですが、その前に、すべてのことが成し遂げられたのを知ったのです。つまり、死を経験する前にご自分の使命が、完了したことを知ったのです。その使命とは何か、それは、すべての人の罪の代価を払い終えることでした。そして、その代価は、イエスの死そのものよりも、十字架の上で苦しむこと、罪に対する神の罰と裁きをご自分の肉の上に受けることでした。

イザヤ53:3(P.1149)を見て下さい。(読んでみる)まず人々の軽蔑の対象にされます。人々から見捨てられます。大きな釘を手足に打ち込んで、耐えきれないほどの痛みを与えます。死に際してのいろんな合併症を起こさせます。人々に軽蔑され、無視されます。病気も痛みも担わされます。しかもご自分の病気ではなく、私たちの病気と痛みを身代わりに受けて下さったと書いています。(4節)神の手によって打たれ、苦しめられます。キリストは、神によって槍で刺され、打ち砕かれ、懲らしめられたのです。

そして最後に、キリストが苦しみを受けているのは、キリスト自身の罪と過ちによって苦しめられていると、人々は思っていました。しかし、そうではなく、彼(キリスト)の苦しみは、わたしの罪のためであり、わたしの背きのためであり、私たちの身代わりになって、苦しみを受けて下さったのだということです。その彼(キリスト)の受けた傷によって、私たちの罪が赦され、傷が癒され、病が癒され、神との平和があたえられたのです。

あのイザヤ書53章の苦難の僕であるイエス・キリストの十字架の苦しみによって、私たちの罪が赦され、神との平和が与えられ、痛みも渇きも主が身代わりに受けて下さったのです。キリスト・イエスの受けられた苦しみによって、その傷によって、私たちに神との平和が与えられ、神との和解がなされ、私たちに平安と癒しが与えられたのです。(イザヤ書53:5)このイザヤの預言の言葉が、イエス・キリストの十字架によって成就し、成し遂げられたのです。

2.すぐ血と水とが流れ出た

当時は、死体を木に架けたまま、安息日を迎えることは禁じられていましたので、死体を十字架からひき降ろして埋葬しなければなりませんでした。そのために兵士が来て、死刑囚たちが完全に死んでいるかどうかを確かめました。もし生きていたら、逃げないように足を折る必要がありました。他の二人の囚人は、まだ息があったのでしょう。兵士に足を折られました。

でもイエス様は、すでに死んでおりましたので、足を折られなかった代わりに、死んだかどうかを確かめるために、わき腹を槍で刺されました。すると、「すぐに血と水が流れ出た。」(19:34)とあります。この「すぐに」という言葉の中に、主の十字架の死によって、直ちに新しい救いの時代が到来してことが告げられています。そしてこのことは、「その骨は一つも砕かれない」という出エジプト記13:46の御言葉と、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」というゼカリヤ書12:10の御言葉の成就であると記しております。

兵士が槍で、イエスのわき腹を刺しましたら、すぐに血と水が流れ出ました。これは何を意味しているのかと言いますと、すでに十字架の贖いの業は成就しました。映画「ベンハー」では、最後の場面で、十字架から流れたイエス・キリストの血が、降ってきた雨と共に十字架の上から地面に降り注ぎ、そして全世界に流れ下って行くという場面で終わっていたような気がします。このイエス・キリストの血と水が、全世界の人々の罪を聖め、人々を十字架のもとへと引き寄せることができるのです。

また、ゼカリヤ書の134:1(P.1493)では「その日、ダビデの家をエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉は開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。」という預言の言葉があります。この預言の言葉が成就しました。今日、主イエスの十字架の苦しみによって、すべての人々の罪の贖いの業が成し遂げられ、人々の心の中に主の血と水が流れ込み、人々の罪を清める泉が開かれました。またこれは、ゼカリヤの預言によりますと、「主の憐れみと祈りの霊が注がれる」(ゼカリヤ12:10)ことにもよるのではないでしょうか。イエスの十字架の贖いによる「血」、イエスの御言葉のバプテスマによる「水」、そして恵みと祈りの「神の霊」の働きによって、今こそ新しい救いの時代が到来したことを告げ知らせるものとなりました。(血と水と霊=第一ヨハネ5:8)

3.主を突き刺した者

この主の十字架の直後に、いろんなことがすぐに起こりました。他の福音書には、神殿の幕が真ん中から真っ二つに裂けたとか、死んだ人が生き返ったとか、不思議な現象が起こりました。また刑を執行したローマの兵士も、このありさまを見て「この人はまことに、神の子であった。」と告白しました。

このヨハネ福音書の方でも、奇跡的な出来事が記されております。それは、今までひそかに信じていた二人の議員が、堂々と勇気を持ってイエスの死体を引き取って埋葬したいと申し出たのです。38節以降にこうあります。「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持って来た。」(19:38~39)

信仰を隠してひそかに信じていた、いわば隠れキリシタンのような人物が、大胆に思い切って公衆の面前で、イエスの遺体の埋葬を願い出たのです。彼らは、はっきりと自分たちはキリストを信じる者だということ、キリストの弟子だということを、人々の前に告白しました。二人とも立派な議員です。今までは立場上、心では信じてはいても、人々の前で言えずに黙っていた人たちです。

でも彼らをして、一歩、自分はキリストの弟子だと決心させ告白させたのは何だったでしょうか。それはやはり、イエス・キリストの十字架の血潮と御言葉の水です。そして、ゼカリヤが預言した通り、この十字架の贖いの救いは、神の霊によらなければ誰も知ることができなかったのです。でも、今や、すべてが成し遂げられたことによって、神の霊が、人々に自由に働いて救いを成し遂げる時代が到来したのです。

キリストの十字架は、わたしの罪のためです。あなたはわたしの罪の身代わりとして十字架に架かって下さいました。罪深い私の罪をお赦しください。わたしこそ、あなたを突き刺した張本人です。わたしの罪があなたを十字架につけ、苦しませ、傷つけました。でも、あなたはその私の罪を十字架の上で血を流して苦しみ、執り成して下さいました。今も、愛を持って私の罪のために執り成していて下さいます。あなたの十字架の贖いを感謝します。」と祈りましょう。わたしたちとイエス様をつなぐ接点は、この十字架以外にありません。今週は共にこの十字架の主を見上げつつ、罪を告白し、聖霊様の導きのうちに歩んでまいりましょう。                     (岡田 久)

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