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イエスの名によって立つ (使徒言行録3:1~10)

メッセージ

2015年5月31日富里キリスト教会

「イエスの名によって立つ」
(使徒言行録3:1~10)

1.午後三時の祈り

「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると生まれながらの足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」                 (使徒言行録3:1~2)

ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行きました。ユダヤ人は、一日に三回お祈りの時を持ちます。朝9時と12時と午後の3時です。今でもエルサレムに行きますと、経験深いユダヤ教徒が、旧約聖書を持ってユダヤ人の会堂シナゴーグや、昔神殿があった嘆きの壁に祈りに行く姿を見ることができます。今日のこの足の不自由な人をいやすという奇跡の出来事も、彼らの祈りの生活の中で起こった出来事でした。祈りなしには、伝道も癒しも起こりません。

皆さん方もおそらく、朝起きた時、そして眠る前にはお祈りしてから眠っておられることと思いますが、出来れば昼の間にもう一度祈るときをもって見てはいかがでしょうか。四国にいた時に、一人のおばあちゃんが、「先生、私ら四国にいる他の教会の信仰の友と一緒に、午後3時の祈りの時間を決めて祈っていますけん。先生の一緒に仲間に入って祈りませんか?」と誘われたことがありました。その頃は、まだ駆け出しでしたので、「僕は遠慮します。」と言って断ったのを覚えています。

でも今また、富里に来ましてから、このおばあちゃんの言葉を思い出しまして、「そうだ、聖書にも午後3時の祈りというのが何回も出て来るのだから、自分も祈ってみよう。」と思いまして、午後の3時に祈るようになりました。ですから、朝と夜寝る前、そして午後3時の祈りと一日三回、ようやく私も牧師らしい祈りの生活ができるようになってきたのかなと持っております。

今朝の一人の足の不自由な人が、この神殿の「麗しの門」のそばで、救われたのは、もちろんペトロとヨハネが神殿に、午後3時の祈りをしに行ったからだという理由もあります。しかし、それ以上に当時のクリスチャンの方々が、人々の救いのために、午後3時という時間に合わせてみんなが心を一つにして祈っていたからではなかったでしょうか。ペトロとヨハネだけではなく、当時のユダヤ人クリスチャンが祈りの良い習慣を継承して、午後三時の祈りを覚えていたからではなかったかと思います。

2.イエスの御名によって立ちなさい

「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい。』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、足やくるぶしがしっかりして、踊り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(3:4~8)

この足のなえた男の人は、40歳とあります。しかも生まれつき足が悪かったと記されています。この人の側に立って見るならば、どんなにか辛い人生を送って来たのだろうと思います。しかも自分のせいでこうなったのではありません。生まれつきですから、親から受け継いだものなのか、あるいは、何か出産の時に手違いがあって、足に障害を持ったのか分かりませんが、本人にとっては本当に辛い人生を送っていたと思います。

自分の生まれを恨み、親を恨み、社会を恨んで生きていたかもしれません。そして将来に対しても全く希望がありませんでした。一生、こんな物乞いの生活をしなければならないのだろうかと思うと人生も嫌になったのではないかと思います。その彼が、たまたま神殿に祈りに来たペトロとヨハネを見つけて、さっそくいつもの通りに「お二人の旦那さん、わたしを恵んでください。」声をかけました。

ところがペトロとヨハネは、この憐れな男に、お金を恵んでやるのではなく、この男をじっと見てこう言いました。「私たちを見なさい。」と。日本語では、「見る」という同じ言葉ですが、英語ではみな違う言葉になっています。男がペトロを見るときには、普通の見る(See)ですが、二人が男を見るときには、「じっと見る」(Look Straight)、つまりこの男を凝視したのです。そして「わたしたちを見なさい(Look at)」と言いました。

そしてさらに、こう言いました。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい。」(3:6)と。「お金はない。でもわたしが持っているものをあげよう、それは『ナザレ人イエス・キリストの御名だ。』」と言ったのです。人間にとって、もっと大事なものがある。それは金銀と言ったお金や生活、経済ではない、あの十字架に架かり三日目に甦ったナザレ人イエス・キリストを信じて、この人と共に歩くことであるということです。このお方こそ、人生の最高の宝物であり、なくてはならないお方だということを教えたのでした。

わたしは、ペトロとヨハネがこの男をじっと見つめたのは、この男がイエス・キリストを信じる信仰を持つことができるかどうかを見たのではないかと思います。人生にとって一番大切なものは何でしょうか。金銀、宝石でしょうか。お金でしょうか、株券でしょうか、土地でしょうか、家財産でしょうか。自分の人生と生活を支え、生かしてくれる最高の宝物、自分がより頼むことのできるものは何でしょうか。あるいは家族でしょうか。あるいは老後の安心した生活でしょうか。安心できる社会保障でしょうか。何の不自由もない介護の整った場所でしょうか。人の行き着く先は、どんなにお金があっても家族がいても、誰でもその行き着く先は、真っ暗なお墓です。そしてその前には、介護施設や老人ホームです。人の世話になる介護生活があります。

この「美しの門」にいた足が不自由な人も、体が不自由で介護施設に入っておられるお年寄りの方々も、大事なことはイエス・キリストの名によって立つということです。そして生きることです。ペトロが「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」と言いましたら、この足の不自由な人がすっくと立ち上がったのです。ペトロは16節でこう言っています。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(3:16)と。

一生寝ていた生活からその人が立ち上がらせたのは、イエス・キリストを信じる信仰なのです。ペトロとヨハネが、最初にこの男をじっと見つめたのは、この男に主イエスを信じる信仰があるかどうかを見たのです。彼の心を、その信仰があるかどうかの心をじっと見定めたのです。本人がイエス様を信じる信仰を求め、また求めなければだめです。いくらペトロが宣言しても、立ち上がることができません。そしてペトロが「わたしたちを見なさい」と言ったのは、「わたしたちの生きざま、わたしたちの信仰を見なさい。」と言ったのではないでしょうか。

ナザレ人イエス・キリストはあなたの罪のために十字架に架かり、三日目に復活され、罪と死と悪魔に勝利されました。このイエスの名を信じる者は皆、罪赦されてすでに復活の命にあずかっているのです。人生にとって一番大事なものは、金銀や宝物や経済や思想やそういうものではなく、今も生きておられるナザレ人イエス・キリスト様なのです。この主の御名によって、わたしたちは生きているのです。体の障害も、老後の生活も、介護も、死の墓も心配することはありません。イエスの御名によって立ち上がり、生きるのです。

信仰を持って、イエスの名によって立ち上がるとき、わたしたちは最後まで主を賛美し祈りながら、喜び勇んで天国に帰って行くことができます。この男も、「踊り上がって立ち、歩きだした。そして歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、ペトロとヨハネの二人と一緒に境内に入って行った。」(3:8)とあります。わたし達も信仰を持って喜んで、神を賛美しながら天国の門をくぐって行きたいと願っています。 

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