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イエスの名によって立ち上がる (使徒言行録3:1~10)

メッセージ

2012年3月4日富里キリスト教会
「イエスの名によって立ち上がる」
(使徒言行録3:1~10)

1.美しい門のそばで

「ペテロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。」
                      (使徒言行録3:1~3

この人は、4:22では、「40歳を過ぎていた」とありますから、生まれてこのかた、40年以上にわたって立って歩くことができず、親の世話になり、また40歳くらいになってからは、周りの人の世話になって、毎日この「美しの門」に連れられて来ては、参拝者に施しを乞うていました。

しかし、彼のそばには「美しの門」という立派な門がありました。これは、神殿の異邦人の庭とイスラエルの婦人の庭とを隔てている門でした。いろんな装飾が施された豪華絢爛な門は、本当に天国への入り口のような門でした。この門を通って神の民は神に礼拝を捧げるために入って行くための門でした。彼は、神に目を向けるよりも、自分の生活のために、今日食べて行く食べ物を手に入れるために、そこに座って人々の投げ入れるわずかばかりのお金に目を注いでいたのです。

ここに現代人の姿を垣間見る思いです。神様への入り口が大きく開いているにもかかわらず、そこを入ろうとせず、日ごとの生活の糧のために地面に置いた皿を伏し目がちに見て、行き交う人々の助けにすがらなければ生きて行けませんでした。そして天国への入り口に気づこうともしないし、目もくれようともせずに、自分の不幸を嘆きながら、日々の食糧に追われている姿です。しかし、そのような人にも、いよいよ神様の救いの時がやって来ました。

2.わたしたちを見なさい

「彼はペテロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペテロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペテロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。」(3:4~7a)

ここに「見る」という動詞が四つ出て来ていますが、言語のギリシャ語では、四つとも異なる動詞を使っています。日本語ではその辺のニュアンスがはっきり出ていませんが、英語も四つの別な言葉を使っています。最初の足の不自由な人がペテロとヨハネを見る時の「見る」はseeで、普通に何気なく見るという言葉です。次のペテロとヨハネが、その人を「じっと見る」と「わたしたちを見なさい」は、英語ではgazeとlook atになっています。つまり、ペテロとヨハネは、この人を観察するように注視して見たということです。そして、自分たちを見なさいと言う時には、look atですからしっかり見る、あるいは目を自分たちに向けなさいと命じたのです。

つまり、ペテロは、いつも顔を伏せ下を見て地面を見て、参拝者の落としてくれる小銭を数えているのではなく、目を上に向けなさいと言っていたのではないでしょうか。ギリシャ語の「ブレポー」という動詞は、「神を見上げよ」という時に使う言葉です。神を見よという時にこのブレポーという言葉を使います。英語でもlookという言葉は、対象物に向かってきちんと向き直るという意味を持っています。方向転換するという意味です。

この「美しの門」にいた人も、世間的に見たら、40年間最悪の人生を送ってきたと思います。自分では何もできない、人の手と人の同情を借りてしか生きて行けないわけですから。でも、彼のそばには、神に通じる大きな美しい門が大きく開かれていたのです。しかし、彼はそれに気づきませんでした。その入り口を気付かせるために、ペテロとヨハネは彼の目を上に向けさせました。

クリスチャンの人生もそうです。最悪でない時はありません。必ずそういう道を通らせられます。しかし、そこで上を見る時に、そこに救いがあり希望があり命があり道があるのです。くらい厳しい人生であるからこそ、私達は、暗闇に輝く神様の預言の言葉をいつも見上げて歩みたいものです。(Ⅱペテロ1:19、コロサイ3:1~2)

3.イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい

この足のなえた男がじっと二人を見つめていると、ペテロはこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)と。足が不自由なこの人は、お金が欲しかったのです。

でも、ペテロは言いました。「金銀はない。私にあるものは、ナザレ人イエス・キリストの名前だけだ。そのイエスの名が私の宝物だ、金銀にまさるものであり、このお方の名によって立ち上がり、歩きなさい」と。ナザレ人イエスの名によって歩くということは、イエス・キリストを信じるということです。そして名前というのは、単なる名前ではなく、その人の存在、その人の人格、その人の権威と力を表しています。ですから「ナザレ人、イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい。」ということは、イエス・キリストを信じなさいという命令です。

イエス・キリストはあなたの罪にために十字架にかかり、そして三日目に復活し今も生きておられる。このお方を信じ従って行きますということ、これがイエスの名によって立ち上がるということです。お金に頼る人生ではなく、人に頼る人生ではなく、この目には見えませんが、今も現実に生きて働いておられるお方、このイエス・キリストという名のお方こそが、私たちの救いの源なのです。そしてこの方以外に、天下のどこにも私たちを救う方はありません。

4.立ち上がって神を賛美して、門から入った

私たちの人生の中で、苦しい時、つらい時、問題を抱えて先が見えない時、失敗して落ち込んでいる時、光が見えない時でも、私たちのかたわらには、あの天国へ通じる「美しの門」が必ず開かれています。それは、イエス・キリストの御名という門です。

イエス様は、すべての人の希望の門、救いの門となるために自ら門の外に出て来て下さって、十字架にかかられました。キリストの前に閉ざされている門はありません。イエス様ご自身が開かれた門です。「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草にありつくであろう」(ヨハネ10:9)「門を叩け、そうすれば開けてもらえる」(マタイ7:7)とおっしゃいました。

この男は、ペテロが右手を取ってやると、立ち上がりました。40年間なえていた足が治ったのです。そして、彼の足やくるぶしがしっかりしてきて、今度は躍り上がって喜びながら立ち上がりました。そして、門のそばで歩き回ったり、神を賛美しました。そして、ペテロ、ヨハネと一緒に境内の中に入って行ったのです。後でペテロは説教の中でこう言っています。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(3:16)

私達が真に生きるということはこういうことです。お金、お金、金、金の人生ではなく、私たちの罪のために死んで甦って今も共にいておられるお方、この救い主イエス・キリストを信じることです。彼は、ただ単に病気がいやされたことではなく、自分の罪が赦されたことを喜び、神を賛美しました。彼はペテロとヨハネと一緒に神殿に入って行きました。ペテロたちは最初、午後三時の祈りのためにこの神殿に上って来ました。ですから、この男も二人と一緒に祈るために中に入って行ったのです。この人は、神を賛美し、祈る人になりました。上を向いて、上におられるお方を見上げて生きる者となりました。まさに、彼は、足だけではなく身も心も魂も完全にいやされたのです。「私たちを救い得る名は、イエス・キリスト以外他のどこにもありません。」私たちも、このイエスの名によって立ち上がりましょう。(岡田 久)

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