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イエスのもとに行く (マタイ11:2~13、25~30)

メッセージ
2017年2月5日富里キリスト教会

「イエスのもとに行く」
(マタイ11:2~13,25~30)

1.天国は激しく襲われている

ヨハネはそういう中で、キリストが来ているならば、もう既に新しい時代の兆候が始まってもいいのではないかと願っていました。大きな革命が起こって、人々がローマの圧政から解放され、全世界の人々はエルサレムの神殿で、神を礼拝する日が来るにちがいないと。しかし、現実は何も変わりません。おまけに自分は逮捕されています。そこで、人をやってナザレのイエスに尋ねたのでした。「来たるべき方はあなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか?」(11:3)と。

それに対して、イエス様はこう言いました。「目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11:5~6)天国は何か、革命が起こって世の体制が変わって起こるとかというものではなく、キリストの福音を聞いた人々が、救いに入り喜びと感謝に満たされて、新しい人生を歩きはじめていることです。これが天国のしるしなのです。

そしてその天国は、バプテスマのヨハネが伝道活動をした時からすでに始まっていると言うのです。しかも大勢の人々が我先にと、この天国を目指して突進して来ていると言うのです。これを聖書は「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(11:12)と言っています。ここは昨年もお話しましたが、この11:12を現代訳ではこう訳しています。「バプテスマのヨハネが宣教を開始してから、ここ一二年の間は、天国が力強くこの地上に入って来ています。ですから、熱心に求める人は皆天国に入ります。」と。

天国は、自分の罪に悩み苦しんでいる人々のところに来て下さったのです。自分の罪に悩み、自分の罪の故に苦しんでいる人々のところに救い主は来て下さったのです。御利益を求めて集まってきた人々のために、来て下さったのではなりません。そういう人々は、逆にヨハネもイエスも受け入れませんでした。そんな罪、罪と言う宗教なんかいやです。御利益のある方をみな選びました。

17節に「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」とイエス様は、嘆いています。逆に人々は、ヨハネが断食していると悪霊にとりつかれていると言い、イエスが来て食事を一緒にしていると大食漢で大酒のみだと非難する始末です。(11:18~19)何をやっても、福音に背負向けてイエスのもとに来ようとはしませんでした。いろんな奇跡をおこなって天国の到来を告げたにもかかわらず、決して悔い改めることをしませんでした。(11:20)肝心のイスラエルの人々は、この福音を受け入れず、社会からはじき出された人々だけが、福音を聞いて喜んで信じていたのです。

このようにして天国は、目に見えないところで、社会の底辺で、本当に自分の罪に悩み苦しんで悲しんでいる人々のところに届き前進していたのです。そして今もそうです。天国は、福音を聞いて、喜んで受け入れる人々のところにやってきているのです。そのような人々は喜んで、我先にと天国を熱心に求めて、天国に突入しているのです。すなわちイエス様の御支配のもとに入り、イエス様と共に歩む人生を喜んでいるのです。

2.わたしのもとに来なさい

自分の罪の重荷に苦しみ、悩みつつ、主を求めている人々のところに来て下さいました。ですからイエス様は、こう言いました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11:28~30)

わたし達の疲れの原因は何でしょうか。仕事でしょうか、家事でしょうか、育児や子育てでしょうか、看病や介護でしょうか。そうではありません。わたし達の疲れの原因は、それは自分の背負っている罪の重荷から来ているのです。自分の罪の姿を隠して逃げている限り、そこには平安も喜びもありません。毎日が徒労であり、やってもやっても真の満足を得ることができない空しさがあります。その原因は、わたし達の罪です。

でもイエス様はそういう人に向かって、「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげようと。」と言いました。これはまだイエス様を信じていない人もそうですが、信じている人に向かってもこう言っているのです。あなたの罪の重荷をわたしに預けなさいと言っているのです。もしクリスチャンの人で、わたしには罪がないと言う人は偽クリスチャンです。みんな罪を持っています。信じているからこそ余計に自分の罪を見せられるのです。信仰があるからこそ、余計に自分の罪に悩み苦しむのです。

ですから、イエス様はわたしたちのために、何度も何度もその罪を赦し聖めて平安を与えて下さる主の晩餐式を残して下さいました。毎月、毎月、罪の告白と悔い改めをするためです。いや、毎日毎日かも知れません。そのことによってわたしとイエス様がつながっているのです。十字架から離れてはいけないと言うことで、毎月毎月イエス様の血潮をいただくのです。

そしてイエス様は二つのことを進めています。それは「誰でも私のもとに来なさい。」ということと、「わたしに学びなさい」ということです。今日の主日の礼拝に出る。これも主のもとに行くことです。毎日、自分の祈りの祭壇を築くこと、これもイエス様のもとに行くことです。「イエス様!」と言って祈ることです。これが主のもとに行くことです。そして学ぶと言うことは、聖書を読むことです。今日もこうして主のもとに来て、聖書の御言葉を聞いて、宣教を聞いています。これがイエス様に学ぶことです。家で決まった時間に聖書日課を、毎日読むことです。いつも主のもとに行って、主の御声を聞くことです。

悩みが無くなってからではなく、迷いを断ち切ってからではなく、それらを持ったままでいいのです。何か成功してからとか、実績を残してからとか、清くなってからとかではなく、悩み迷いを持ったままでいいのです。大事なことは主のもとに一歩足を踏み出して祈ることです。ただ主のもとに行くことです。主はいつも待っておられます。

「わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(11:29)と言われました。イエス様に学ぶと言うことは、イエス様の柔和さと謙遜さを学ぶと言うことです。自分を一番苦しめている罪の実態と言うのは、意外と自分自身であったりします。自分と言う罪です。わたしが、わたしがと言う自己中心の罪です。この自分と言う罪の重荷のゆえに、自分の人生を生きにくくさせてしまっていることがあるのではないでしょうか。人間関係につまずきを覚えているのではないでしょうか。

「柔和」とは心が砕かれて柔らかな心になると言うことです。イライラしたり、人と競争したり争ったりしなくなります。「謙遜」とはへりくだることです。相手を自分よりも優れた者として思い、謙虚になることです。常に相手を建てる、すぐにカチンと来ない、腰が低く、上目線でものを言わない人です。この「柔和」と「謙遜」の二つの軛を生涯かけて学びなさいと言うことです。これがイエスの軛を負うと言うことではないでしょうか。

罪を持ったままでは人生、疲れ果ててしまいます。その罪の重荷を持ったままで、イエス様のところに行くことです。そしてイエス様と一緒の軛を背負うのです。軛と言いますのは、牛の肩に着けて負わせ、それに横棒を通して荷台につないで馬車をひいたりする道具です。その軛を背負って荷馬車を引いているイエス様のそばに行って、一緒に並んで同じような軛を背負って荷馬車を弾くという形になります。ちょうどその軛を真上から見ますと、十字架の形に見えるそうです。

このようにしてイエス様と一緒に同じような軛を背負う時に、わたし達にイエス様の与えて下さる安らぎが与えられます。真の平安、安らぎと言いますのは、何も荷物を背負わないので軽くて平安だと言うのではなく、重荷があってもイエス様共に歩む時に、与えられるものではないでしょうか。主と共に並んで荷を担う時にこそ、真の平安というものが与えられるのではないかとおもいます。
今は天国が激しく奪われ、襲われている時代です。誰でも主のもとに行くならば、この永遠の平安が与えられます。自分の罪の重荷を持ったままでけっこうです。悩みを抱えたままで主イエス様のもとに行こうではありませんか。主はいつも待っておられます。   

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