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イエスのまなざし (ルカ22:54~62)

メッセージ

2011年12月4日富里キリスト教会
「イエスのまなざし」
(ルカ22:54~62)
1.ペテロの思い

今日はメッセージの後に主の晩餐式がございますが、これはイエス様の十字架と御業を記念して行うものです。この弟子たちとの最後の晩餐は、十字架にかかられる金曜日の夜に行われました。私は主の晩餐式の時、いつも第一コリント11章の方を読んでいますが、福音書にもその記事が出ておりまして、ルカでは22章14節からとなっています。この時19節で主は食事を終えてから、「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言ってパンと杯を弟子たちに渡されました。これ以来教会では、このパンを食べ杯を飲むことをキリストの十字架の出来事の記念の儀式として守って来ました。

そして、この後にイエス様が、ペテロにこう言いました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と。するとペテロは「主よ、御一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております。」といいました。そうしましたら、主が「今日、あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないというだろう。」と言いました。(ルカ22:31~34)

ペテロは弟子のリーダーとして、イエス様がこれから行く所へはどこまでもついてまいりますと断言したのでした。絶対に裏切りません。絶対にあなたの弟子ではないなどとは申しませんと断言したのです。ペテロの気持ちは分かります。何かこれからのっぴきならないことが起こりそうな予感がしておりました。先生の上に何か良くないことが起こるのではないかと、でもその時には、自分は弟子のリーダーとして、命がけで死をもいとわないでついて行きますと、決意したのではないでしょうか。

2.ペテロの本音

しかし、そのようなペテロの決意とは裏腹に、彼はその日のうちに主イエス・キリストを否定してしまいます。しかも主が予告した通り、三回もイエスを知らないと言ってしまうのです。その事件は、イエス様は捕えられて、大祭司の家に連行されて行った時に起こりました。ペテロは主が逮捕された時に、あのゲッセマネの園から逃げ出していました。しかし、やはり弟子として、リーダーとしてのプライドもあります。自分の行動を正当化するかのように、こっそりと後を追って見つからないようにして、大祭司の庭まで来て様子を見ていました。

「人々はイエスを捕え、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火を焚いて、一緒に座っていたので、ペテロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペテロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペテロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。少したってから、ほかの人がペテロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペテロは『いや、そうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから。』と言い張った。だが、ペテロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらに内に、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出て激しく泣いた。」
                     (ルカ22:54~62)

一人の女中にイエスと一緒にいたと指摘され、思わず口をついて出た言葉が「知らない」と言う言葉でした。しかも三度も指摘されましたが、その都度、彼は「知らない」と言ってしまったのです。そして三度目に言ったところで、突然鶏が二度鳴きました。ペテロが三度イエスの弟子であることを否定したことは、完全に彼がイエスを否認したということです。「わたしはクリスチャンではない。あの人の弟子ではない、逮捕されたあのナザレのイエスと全く関係がない。」ときっぱりと断言したということです。

ペテロが思ってもみなかった言葉が、自分の身を守るために、自己保身のために思わず口をついて出てしまったのです。自分の心、自分の思いと自分の言葉が全く正反対のことを言ってしまいました。そしてさっき主が「あなたは鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と言う言葉を思い出したのです。
キリストの弟子として、しかもそのリーダーとして、イエスにどこまでもついて行くと言いながら、現実にはイエスを否定し離れてしまった自分の現実の姿がそこにありました。ある意味では、私たちもほっとするようなペテロの態度です。

3.鶏が鳴いた

ペテロは完全に三度主を否定しました。イエスと自分は関係がないと断言しました。そういい終わらないうちに、鶏が二度鳴いたのです(マルコ14:72)。
聖書では、「三」とか「七」とか「十二」は聖なる数、完全数ですから、鶏が三度鳴いた時には、完全に夜が明けたということを示しています。新しい時代の到来を意味しています。ですから、二度鳴いたということは、もうすぐ夜が明けるということを指しています。完全に夜が明け、新しい時代、新天新地が成就する最後の時、救いの完成、キリスト再臨の最後の時がすぐそこまで来ているということです。

そして今は、夜明け前の、一番寒く暗い時だということです。闇の力が一番強い時です。悪魔が最後の力を振り絞って聖徒に襲い掛かってくる時です。そしてそれは、主が十字架にかかろうとしている時であり、闇の力、悪の力が最も脅威をふるっている時だということです。まさに、ペテロが、サタンによってふるいにかけられていた時なのです。

私たちクリスチャンも信仰が試され、キリスト告白を止め、この世の人々の群衆の中へと隠れてしまう時かもしれません。ペテロがそうでした。主を告白するとこは、自分の存在も立場も命さえ、危険にさらしてしまうことです。そして、ペテロはまさに、自分を隠して闇の中に潜り込んでしまおうとしていました。

4.主は振り向いた

この61節の「主は振り向いてペテロを見つめられた。」と言う言葉は、ルカ特有のもので、ほかの福音書には出ておりません。おそらく、ルカだけが、イエス様が振り向かれて、戸惑っているペテロをじっと見つめられたその時のまなざしを印象深く受け止められたのではないでしょうか。これはペテロ以外に解りませんから、後で、ルカがペテロから聞かされたのかもしれません。

イエスの後について行ったからこそ、イエス様が、後ろを振り返って下さったと思います。しかし、ついて行っても所詮人間です。何か事が起これば、すぐに地が出て、「知らないと」言ってしまいます。でも、それでもペテロは自分なりに、一生懸命ついて行ったと思います。だからこそ、イエス様は後ろを振り向かれたのではないでしょうか。

たとえついて行っても、途中で、「知らない」と言って、信仰を捨て、挫折し、つまづいて主から離れてしまっても、ついて行くことは大事なことではないでしょうか。信じていても、従ってはいても、いざとなると「知らない」と言ってしまう私たちです。信じて主に従いますとは、大きい声で言えないような私たちです。いつでも逃げる用意をしているかもしれません。それでも、主について行ったのがペテロでした。

5.イエスのまなざし

暗闇の中で、そして多くの人ごみの中で、後ろを振り向かれたイエスの目と、完全に師を否定したペテロの目が合いました。おそらく、そのまなざしは、ペテロを責めるのでも、恨めしそうに見つめるのでもなく、悲しみと憂いを含んだまなざしだったのではないでしょうか。私はあなたを責めない、あなたを愛している、あなたをどこまでも見捨てない。これから、あなたの罪のために十字架に向かうのだ、あなたの罪を贖い、赦すために進んでゆく。あなたの信仰が無くならないように祈ったではないか。私はあなたの足を今も洗っている。わたしを否定し裏切ることはあっても、わたしはあなたを愛し、あなたの汚れた罪の足を洗い続ける。わたしがあなたの足を洗わなければ、私とあなたは何の関係もないと言ったではないか。今まで、主が語ってきた言葉の一つ一つが、ペテロの頭の中を走馬灯のように浮かんできたのではないでしょうか。

そのような主のじっと見つめるまなざしを感じたペテロは、もはやそこにいたたまれなくなり、中庭から飛び出して、外に出て激しく泣き崩れました。そして、これがイエスとペテロの地上での最後の別れとなってしまったのです。しかし彼は、この最後の主のまなざしから逃れることはできませんでした。ペテロは初めて自分の罪、自分の弱さをこの時ほど示されたことはありませんでした。そしてそれをも赦し、愛し通して下さる主の愛のまなざしに耐えられなくなって、外に飛び出して男泣きに泣いたのです。

この地上での主の最後のまなざしを、そして、激しく泣いたあの夜のことを彼は生涯忘れることはできなかったのです。彼の使徒としての新しい働きの出発点は、この主の愛のまなざしにありました。この自分の中の罪と言う暗闇を通されたからこそ、ペテロは教会の礎となるすばらしい働き人にかえられて行ったのです。主のまなざしは、同じように主を裏切った弟子のユダにも注がれていました。しかし、彼はこの主の愛のまなざしを振り払って、闇の中に消えて行き、自分の本来帰るべき場所を見失ってしまいました。

今もこのまなざしは私たちに向けられています。主は後ろを振り返って、私たちを御覧になられました。死んでもあなたに従いますと告白しつつも、クリスチャンでも罪を犯し、間違いと失敗をする時もあります。それでも、どこまでもそういう私たちを愛してやまない主のまなざしは、私たちに向けられ注がれています。今、鶏が二度鳴きました。三度鳴く前に、主が来られる前に、まだ主を受け入れておらない方にも、主は一歩足を踏み出すことを願って、長い間待ちつつ見つめておられます。主のこの愛のまなざしは、私たちを捕えていつまでも放すことはありません。          (岡田 久)

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