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アブラハムの信仰 (ローマ4:13~25)

メッセージ

2013年3月31日イースター礼拝
「アブラハムの信仰」
              (ローマ書4:13~25)

1.たとえ不信心で、働きがない者でも

アブラハムは75歳にして(75歳からの人生の再出発、人生のラストスパートの時)、自分の生まれ故郷を離れ、神様の命じる地へと長い旅に出ました。長い信仰の旅路の間にはいろんなことがありました。山あり谷ありです。彼は、飢饉の時にエジプトへ逃れて食糧を得ようとしました。そしてそこで、妻サラを自分の妹だと偽って王様に献上しております。もし自分の妻だと言えば、サラの美しさが仇となって、王様は自分を殺して妻を奪うかもしれないという不安があったからです。信仰を持っている夫とは言えないような、恥ずかしい対応をしました。しかも二回もそんなことをして、自己保身を図ったのです。それでも、神様は守ってくださって、サラを何事もなく無事にアブラハムのもとに帰しました。

また、正室の子イサクが、側室の子イシュマエルにいじめられているのを見て、妻のサラは怒ります。そして、サラは夫アブラハムに、二人を一族から追放するように嘆願します。この二人の妻の板挟みになって、悩みながらもアブラハムはイシュマエル親子を砂漠に追放することにしました。もともとは自分たち夫婦の身から出た錆なのに、むごいことをするものです。妻サラの不信仰と、アブラハムの優柔不断な態度によって、一家の中に不和と争いをもたらしています。こうしてみますと、確かにアブラハムは、信仰の父としてすばらしい生涯を送ってはいますが、必ずしも、すべてがそうだったわけではありませんでした。夫として、信仰者として恥ずかしい不信仰な時もありました。

しかし、それでも神様は、アブラハムの信仰を義と認めて下さったのです。そのことをパウロはローマ書4:3でこう述べています。「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働くものに対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものとみなされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:3~5)

不信心なこともしたアブラハムですが、彼はただ神を信じました。それが彼の義と認められたのです。義と言うのは何度も申しますが、「我」を「羊」が覆うと言う漢字からできています。神の子羊なるイエス様が「我が、我が」と言う人間の自己中心的な罪を、覆い隠して下さるということです。その結果、神様の目には私たちの罪がイエス様の十字架の贖いの血によって覆い隠されているということ、これが罪赦されたということであり、信仰による義なのです。

ですから、たとい不信心な者でもキリストの贖いによって義とされるということです。また、それはたとえ、働きがなくても、その人は無償で義とされるということなのです。アブラハムは、その生涯の中で何度も失敗をし、間違ったこともしました。それでも神様は、彼の信仰の故にアブラハムを義とし、信仰の父ともしたのです。これこそ私たちの人生の最高の喜び、最高の幸せでなくてなんでしょうか。不信心な者であっても、不十分な者でも、失敗した者でも、働きのない者であっても、信じる者に神の義は豊かに与えられます。

2.死者に命を与え、無から有を呼び出される神

4:17から読んでみましょう。「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力をも、お持ちの方だと、確信していたのです。」(4:7~21)

アブラハムは、死者に命を与え、無から有を呼び出すことのできる神を信じて歩み続けました。彼の体が、百歳になり、妻もすでに子供を産むことのできる年齢ではないことを知りつつも、アブラハムの信仰は弱まりませんでした。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた」(17節)とあります。また、「信仰が弱まりませんでした。また神の約束を疑うようなことはありませんでした」(19~20節)。逆に、年をとればとるほど、彼の信仰は強まり、神を賛美し、必ず神の約束は実現すると確信していました。まさに人生のラストスパートです。

17節に素晴らしい言葉があります。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」と言っています。口語訳聖書では「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」となっています。アブラハムは、神は死人をも生かすお方であるということを信じていました。また、無から有を呼び出されるお方でもあるのです。

アブラハムが信じた神と言うのは、死人をも生かすお方だということです。彼は、晩年には、自分の一人息子イサクを神に捧げなさいと言う神の御命令を聞きます。自分の最も大切な者、しかも神が約束してせっかく与えて下さった約束の子供です。イサクを神に献げてしまったら、一体誰が自分の家督をつぐというのでしょうか。自分の子孫はどうなるのでしょうか。いろいろ悩みましたが、最終的に彼は決断しました。それは神様の言いつけどおりに、イサクを献げるということでした。

アブラハムは、この死人を生かし、無から有を造り出してくださる神を信じていました。そしてこれが、アブラハムに対する神の最後のテストでもあったのです。神は、私たちが息を引き取るまで、棺に足が入るまで私たちの信仰をご覧になります。ヘブライ11:17にこうパウロは述べています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

このように信仰とは、望んでいることを確信し、見えない事実を確認することです。別な言葉で言いますと、この世界は神の言葉で造られており、この世界は目に見える物質からできているのではなく、目に見えない神の御言葉によって創造され、保たれ、存在しているということです。そしてこの神の御言葉を信じる者には、必ず主が報いて下さるということです。

同じヘブライ11:6に「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いて下さる方であることを、信じなければならないからです。」とあります。つまり神は私たちの罪を赦して下さったばかりではなく、御言葉の通りにしてくださる方であるということも信じることです。まだ、見てはいないけれども、必ず御言葉の通りになるという確信を持つことです。そして常に神に感謝し、神の御名を賛美しほめたたえて歩むことが私達の人生ではなないでしょうか。

最後に、エフェソ2:4~6にこういう言葉があります。「神は罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座につかせて下さいました。」とあります。私たちは、やがて復活するであろうと言う未来のことではないのです。すでにイエス様と共に復活させられていて、天の王座についているのですとパウロは言っています。

なぜならば、キリストと共に死んだ者は、キリストと共に甦りの命にあずかっているからです。なぜなら、キリスト・イエスにつく浸礼のバプテスマを受けた私たちは、キリストと共に葬られたからです。あの墓のようなバプテストリーに、キリストと共にすでに埋葬されました。死にました。既に死んでいる人間です。ですから、死はもはや私たちを支配しません。そしてその後、キリストと共に復活の命に甦えりました。それが、あのバプテスマを受けた後に水からあがったからです。今は、復活の新しい命に生かされているものです。

私たちはこの信仰の共同体、キリスト・イエスを信じる者の群れです。みんな信仰を持って集まり、信仰を持って賛美し祈り、信仰を持って語り合い、信仰を持って奉仕をしたり、証しをしたり、伝道をしたりしています。それは甦って、今も共に働いていて下さる主がおられるからです。主が甦って、共にいて下さるから私たちも生きるのです。主がすでに罪と死に勝利しましたから、私たちも勝利するのです。この甦りの主を心からほめたたえましょう。(岡田 久)

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