ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

わたしを愛しているか (ヨハネ21:15~19)

メッセージ

2014年5月25日富里キリスト教会

「わたしを愛しているか」
(ヨハネ21:15~19)

1.わたしの子羊を飼いなさい

今回、感謝したことは、先週はスモールグループが3か所でありました。火曜日は納棺と打ち合わせ、金曜日は告別式がありましたので、以前のように、牧師が出かけて行く家庭集会のような集まりですと、おそらく「今日は葬儀が入ったので、スモールグループは休みます。」となったかもしれません。でも、スモールグループという形で集会を持っておりますので、牧師が行かなくても、牧師夫人が出席できなくても、リーダーを中心にいつもの通り集会ができたことです。特に、先週の金曜日の午後には、牧師は大和ニュータウンの自治会館で葬儀をしていますが、八街と富里では信徒のリーダーの方によって、並行して同じ時間に集会がもたれていたのです。そして、葬儀もSGも恵みのうちに終えることができました。

わたしは、教会がこのような働きをすることを、イエス様が一番望んでいたのではないかと思います。今日の聖書の個所にありますが、復活された主が、弟子のペテロと最後に、遺言のような会話をしています。21:15から読んでみましょう。
「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペテロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが御存じです』と言うと、イエスは、『わたしの子羊を買いなさい』といわれた。」(ヨハネ21:15)とあります。このような同じ会話が、この後二回続きます。

三回も同じことを尋ねるということは、この「わたしの子羊を飼いなさい。」「わたしの羊の世話をしなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」ということが、とても大事なことだということをペテロに、そして教会に伝えたかったからではないでしょうか。そしてまた、大事なことだけれども、実際的にはなかなか実行できないということも現実としてあったのではないでしょうか。ですから、主は三回も念を押して、ペテロに言い残したのではないかと思います。

もし、牧師の私が、この働きを全部担っていたのでしたら、おそらく、「今日は葬儀が入ったからスモールグループは休んでください」ということになると思います。そうすれば、この主の御命令は、牧師だけに命じたので、信徒の皆さんに関係のない個所であり、ペテロの役目を果たす牧師のためだけの御言葉となるわけです。果たしてそうでしょうか。皆さんはどうお思いでしょうか。

わたしは、この聖書の御言葉は、牧師だけに語っているのではないと思います。全クリスチャンに、全信徒に、そしてキリストの弟子になろうとしている人すべてに語っている言葉です。「わたしの子羊を飼いなさい。」イエス様の小羊であるまだ霊的に幼い信徒を、あなたがたが御言葉と祈りをもって養いなさいということです。

2.わたしの羊の世話をし、
わたしの羊を飼いなさい
  
さて、このイエス様のおっしゃった三つの御命令の最後の「わたしの羊を飼いなさい」と言う言葉ですが、最初の「わたしの小羊を飼いなさい」と言う言葉と、どこが違うでしょうか。最初は「わたしの小羊」となっていますが、三番目は「わたしの羊」となっています。つまり、霊的に幼い子羊と成長した大人の羊の違いです。大人の羊というのは、ミルクも羊毛も産出できる成長したクリスチャンということではないでしょうか。この大人の羊も養わなければなりません。

わたしはそれが、この礼拝の説教であり、また午後から持たれる教会学校のリーダー会での学びになるのではないかと思います。そして、二番目の御命令である「羊の世話」もあります。これは信徒に対する牧会と言う働きではないかと思います。リーダーの方々も、完全ではありません。自分自身の悩みやクラスやグループのメンバーの問題や課題を抱えながら、悪戦苦闘しています。そういうリーダーの働き人のお世話をしなさい、彼らの悩みを聞いてあげサポートして励ましてあげなさいということが、「わたしの羊の世話をしなさい」ということではないかと思います。

イエス様は、教会がこのようにして、御言葉の牧者を立て、信徒の働き人を立て、お互いに御言葉によって養い合い、お互いに成長して行くことができるようになることを一番願っておられたのではないでしょうか。最後の最後に、最愛の弟子ペテロに、この働きを託しました。これこそ、教会に与えられた主の御命令と言っても過言ではありません。これは、「行ってすべての国民を弟子としなさい」(マタイ28:19)と言うあの宣教命令と相通ずるものです。

3.再臨の主は何を見るか

再臨の主は、天から降って来た時に、生きている私たちの何を見るのでしょうか。どんなところを見るとお思いでしょうか。礼拝に出席しているところを見るのでしょうか。祈っているところでしょうか。賛美しているところを見るでしょうか。ボランテイア活動をしている姿でしょうか。先日、聖書を読んでおりましたら、こう書いてありました。「主人がその家の使用人の上に立てて、時間通りに彼らに食事を与えさせることにした忠実でかしこい僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき時、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(マタイ24:45~46)と。

イエス様の忠実な僕と言うのは、時間通りに使用人たちに命じて子羊たちに食事を与えている食事係のことだといっています。イエス様は、私たちが時間通りに、決まった時間に、食事係を立てて、子羊や羊に日々の必要な糧をきちんきちんと与えている者が、忠実でかしこい僕だといっています。このような姿を見られる人は、幸いだといっています。再臨の主は、天から降って来られるときに、私たちが霊の糧を子羊や羊に、時間通りに与えているかどうかを見られるのです。

4.この人たち以上にわたしを愛しているか

この御言葉の養いという働きは、他の弟子たちと比較競争するものではなく、まずその原動力は、イエス様から来るということです。イエス様をどれだけ愛するか、イエス様を愛している者だけが、イエス様から「子羊を飼う」働きを与えていただけるのです。しかも、15節でイエス様はこう言っています。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねています。「この人たち以上に」と言っています。他の弟子が愛する以上に、あなたは私を愛しているのですかと尋ねられました。

でも信仰の世界では「みんなと同じに信じます。」ということはありません。むしろイエス様は、「この人たち以上に」と言っています。他のヨハネやヤコブといった他の弟子以上に、あなたは私を愛しますかと問うているのです。御言葉による養いと牧会は、イエス様を愛する愛の強さ、大きさから生じて来ます。イエス様と自分とのタテの線をしっかりと取りなさい。しかも、太いパイプを持ってイエス様と繋がりなさいということです。他の人に合わせる必要はないのです。

主を愛するということは、具体的に言いますと、日々の祈りと御言葉の学びを通して、ますますイエス様に近づき、イエス様につながることです。祈りと御言葉なしに、イエス様を愛することは出来ません。主を愛するということは、イエス様としっかりと太いパイプを築くこと、すなわち祈りと御言葉から来ます。絶対に目をわきにやってはいけません。昔から何度も言われている言葉ですが、「横を見るな、上を見なさい、いつもイエス様を見ていなさい」と言う言葉に尽きると思います。

他の兄弟姉妹以上に、この主とのパイプを太くすることです。そこには他人との比較は必要ありません。そうすると、自分が主を愛しているという以上に、イエス様の方が自分を愛していることに気がつきます。「多く愛したものは、多くの罪が赦されているが、少ししか赦されていない者は、少ししか愛さない。」(ルカ7:47)とイエス様がおっしゃったとおりです。自分が主を愛しているよりも、主イエスの方がこんな自分を、どこまでも愛していて下さるという愛の本質に行き着くのです。そこまで、主をとことん愛し抜きなさいということです。主にどこまでも愛されている自分を発見するまで、愛し続けなさいと言うことです。それが、「わたしを愛しているか」と言う主の問いかけの意味ではないでしょうか。

5.横を見るな

でもペテロは弱い人間です。イエス様にそこまで言われても、別なもう一人の弟子の存在が気になっていました。20節から見てみます。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、裏切るのは誰ですか』と言った人である。ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『わたしが来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。』」(21:20~21)

この時ペトロは、イエス様から目が離れて、後ろを振り向いてしまいました。あれほどに、主を愛し、どこまでも主に従って行くことを公言したのに、一瞬ではありましたが、彼の目はイエス様から離れ、自分の後ろについて来た弟子のヨハネに向きました。後ろを振り向いてしまったのです。仲間の方が気になったのです。後ろを振り向いてはいけません。どんな道が待っていようとそれは、主から与えられた使命です。どこまでも主を見つめ、主から目を放さずについて行くことです。それが主を愛することです。

これが、「わたしを愛するか」と言う主の問いかけの目的ではないでしょうか。人にはそれぞれ、イエス様から与えられた人生のコース、定めというものがあります。そのコースを外れることなく、また後ろを振り向くこともなく、隣を見ることもなく、ただゴールであるイエス様をめざして一目散に走り抜けることです。隣や後ろを見ないで、ゴールであり目標であるイエス様をめざして、自分のコースを全力で走ることです。主の御命令に忠実に従って行くことです。

とことん、わたしの罪のために十字架で苦しんでくださったイエス・キリストだけを見上げて行くことです。これが「この人たち以上にわたしを愛するか。」と言った主の御心ではないでしょうか。このお方を人一倍愛し、このお方を目指して行くかぎりにおいて、教会が人間の教会ではなく、真の意味でキリストの教会になって行くのではないでしょうか。キリストの愛の満ち溢れる共同体、キリストの愛の体として、一つとなって行くのではないかと思います。
(岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional