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わたしを思い出してください (ルカ23:26~43)

メッセージ
2019年4月14日富里キリスト教会
「わたしを思い出してください」
(ルカによる福音書23:26~43)
1.罪の真っ只中に

「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。(そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』)人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。』」
(ルカ23:32~39)

キレネ人シモンは無理やり十字架を担がせられて、イエス様の後に従いました。いろんな人がいます。無理やり十字架を担がせられた人、十字架から逃げ出した人、十字架を嘲る人、十字架こそわたしたちの生死を分ける標識のようなものです。イエス様は、多くの群衆から嘲られ、刑場まで引いて行ったローマの兵士たちからも馬鹿にされました。痛みを和らげる酸いぶどう酒を突きつけながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言われました。また議員たちも「お前は他人を救ったのだ、もしメシアならば自分を救うがよい。」と言われました。更に一緒に十字架につけられた犯罪人の一人からも、「自分と我々を救ってみろ。」と罵声を投げつけられました。この「本当にキリストなら、自分を救ってみろ。」という言葉が、ここに3回も出ております。

まわりからみたら、自分を救えない救い主メシアなんてものは存在しない、お前が本当に神ならば何でもできるはずではないか、それならばまず自分をその十字架刑から自分を救い、そのうえで我々も救って見せてくれと言っているのです。確かにもっともなことです。メシアならば、自分をまず救うことができるはずです。それを見たら信じてやろうというのは、当然の論理でもあるわけです。お前が神ならば、そういう権威も力もあるはずではないかと責め立てました。

まさに神を神と認めない、罪の現実の世界の只中に主は肉を取って来てくださったのです。多くの人々のあざけりと罵声、軽蔑の眼差し、人の死を見物するという恐ろしいほどの罪の世界の真っ只中に主は来てくださいました。この十字架刑こそ、神の御子が肉体を取ってこの世に来てくださり、人間のどん底まで下って来られた証拠です。まさにしく罪人のために、神の身分を捨て、空しくなり、人間世界の最低のところまでご自身を低くしてくださいました。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)

周りからさんざん、「自分を救え。自分を救ってみろ!」と言われました。イエス様は自分を救うことができなかったのでしょうか。そうではありません。イエス様は神様ですから、自分を救おうと思えばいつでもできたはずです。天の軍勢を読んで、ローマ兵なんか一網打尽にできました。でも主はあえてそうなさいませんでした。何故でしょうか。

それはどこまでも自分を低くして罪人の只中まで下って行き、罪人の中の一人でもその中から救おうとされたからです。自分を救えないのではなく、あえて自分を救わなかったのです。ご自分の体をこの世の罪の贖いの供え物としてささげるために、主はただ黙々と十字架への道を歩まれたのでした。逃げて行った弟子たちのために、自分を嘲るイスラエルの人々のために、そして自分を手にかけて殺そうとしている異邦人のローマの兵士たちのためにも、主はあえてご自分を救わなかったのです。そして死の最後まで、罪を悔い改める一人の魂を求めて、その死の傍らにまで下ってくださいました。これが十字架のキリストなのです。

When Jesus has been crucified many people mocked and made him foolish. They cried “If you are the king of Jews, save yourself and save us!” But Jesus did not save himself, he kept walking silently to the way of the cross. He could not save himself, but not dared to save himself. The reason is that Jesus want to save the one sinner from the sinful world by descending himself to the bottom of this sinful world. He redeemed for those who ran away from him and mocked him and killed him. He has been searching one repented and broken soul at last stage of his life.

2.死は当然の報いだ

主と同じ十字架に架かった二人の犯罪人がいました。片方は自分の立場も忘れて、最後の最後までイエスをののしり続けましたが、もう一人の犯罪人は、そういう恥知らずの罪人をたしなめてこう言いました。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ23:40~43)

「このされこうべという処刑場にひかれてきた我々は、同じ神の罰を受けているのだ。すなわち、自分の犯した罪の罰としての死刑を受けているのだ。神は必ず罪を裁かれるお方だということを知らないのか。」といさめています。だから「自分の犯した犯罪のゆえに、神の罰として死刑になるのは、当然の報いだと覚悟している」と言っています。イエス・キリストは、わたしたちが受けるべき罪の代価である死と苦しみという同じ刑罰を受けて下さったのです。罪がないにもかかわらずです。ですからこの「同じ刑罰」という言葉は大事です。わたしたちと同じ苦しみ、同じ痛み、同じ病、同じ傷を受けて下さったからこそ、わたしたちの身代わりになりうるのです。

わたしたちとは違う罰、もっと重い罰、特別な罰ではなく、わたしたちが本当は受けるべき同じ罪と罰を受けられたのです。ですから身代わりになるのです。しかし、もう一人の犯罪人は、自分が神の罰を受けているのに、神をも恐れず、自分の罪をも認めずに、俺様を救ってみろと言っています。彼はこの死刑は不当だと訴えているようです。自分の罪をまだ認めていない、どこまでも自分が助かることを訴えているのです。自分の罪を認めるかどうか、ここがこの二人の犯罪人を分けた決定的な点ではなかったでしょうか。死の間際でありまして、天国と地獄、生と死、救いと裁きの分かれ目が待っていました。手遅れということはありません。どんな人間でも悔い改めるなら救いの門は開かれています。

そしてこの神を恐れて、自分の罪に対する神の罰を覚悟した犯罪人は、もしかしたらこの方は本当にメシアかもしれないと思ったのでしょうか。「この方は何も悪いことをしていない。」と言っています。何故悪を行わない人が、死刑になるのか、それはこの世の罪のために、誰かの罪の身代わりとなって血を流し苦しんで死んでくださるためではなかったのではないだろうかと考えました。ですから、彼は、少し控えめに「イエス様、あなたの御国の権威を持っておいでになるときには、わたしを思い出してください。」と言いました。

「今は救われないけれども、メシアが再臨して神の国が完成する時には、どうかこのわたしのことをちょっとでいいから思い出していただけませんでしょうか。」とごくごく控えめにお願いしたのです。「自分の罪を赦してください、天国に入れてくださいとは、おこがましくて言えないけれども、最後の時に、こんなわたしでも覚えていて下さったら幸いです。」と、一人の犯罪人として訴えたのです。この犯罪人は、自分の罪を認め、イエスが正しいお方であることを認め、再臨されるキリストであることを認めて、ごくごく控えめにお願いしたのでした。ここに彼の悔い改めの信仰があります。自分は死に値する罪人です。死刑囚です。死刑になって当然の男ですと告白しました。この自分の罪を素直に認めるところに、そこに悔い改めが起こるのです。

皆さんは自分が死刑囚だとう自覚はありますか。死んでも当然の男だと自覚しているでしょうか。すべての人はこの死刑台に乗っているのです。この二人の犯罪人とは、実は全人類を表しています。なぜならすべての人はやがて死を迎えるからです。死というのは、罪に対する神の裁きです。あのアダム以来、アダムの罪によって、死が全人類に入り込みました。ですからすべての人は罪人、神に対して犯罪人なのです。すべての人は、今あの十字架の上にかけられているのです。その証拠に、人は例外なく皆、死を迎えます。

全人類が、犯罪人として十字架に架けられているのです。そしてすべての人が、その裁きである死を待っているのです。十字架の上であるいは病院のベッドの上で、いずれ死はやってきます。死は罪の結果です。死の原因はあのアダムの犯した罪です。わたしたちは皆アダムの子孫です。死に定められているのです。死は罪の当然の報いです。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入りこんだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)皆さんもあの犯罪人の一人のように、罪の報いを受けて死ぬのは当然だと考えていますか。

The two criminals represent our human being. All people face to death without exception like these two criminals. The one accused Jesus saying save yourself and save us, the other recognized his own crime and sins fearing God and said “Jesus remember me when you come into in your kingdom”. Which position do you take? And do you have the same consciousness that just face to our own death? We are all sinners and we are destined to death without exception sooner or later. We have to decide to choose. It may never be too late.

この犯罪人の二人は、わたしたちのことを言っているのです。そしてこの二人のケースのように、どこまでも自分の無実を主張して、イエスを非難するのか、あるいは自分の罪を認めて、主の前に悔い改めるかです。その人間の決断をあの二人の犯罪人が示しているのです。皆さんはどちらですか。どちらを選びますか。皆さん、自分で判断して選択し決めてください。そして主に、こんなわたしでもどうか思い出してくださいと願うかです。

この罪人の世界の只中へとイエス様が来てくださったのです。あらゆる人間の悪と罪と悪口雑言の飛び交う地獄のような場所で、その真っ只中に一筋の救いの道が示されたのです。主は今、愛をもってあなたのそばまで来てくださっているのです。恐がることはありません。自分の罪を認め、自分の非を認め、自分失敗や過ちを認めるならば、自然と「リメンバーミー、主よ、私を思い出してください。」と言う言葉が出るのではないでしょうか。そこまで主は自らを低くして空しくなって来てくださったのです。パラダイスに連れてゆくためにです。たった一人の悔い改める罪人のためです。あなたのためにです。

3.今日わたしと一緒に楽園にいる

「わたしを思い出してください。」英語ではJesus remember meです。本当に短い単純な一言です。本当に控えめなへりくだった言葉です。でもその言葉は、自分の罪を認め心から悔い改めた者の言葉です。その彼に対して、イエス様はこう言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と。「あなたを覚えておくよ」とか「忘れないよ」という言葉ではなく、何とその場で、しかも十字架の上ではっきりと宣言されたのです。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と。バプテスマクラスに出てからとか、バプテスマが終わってからというのではありません。その場で即座に、「あなたは罪赦され救われた、今日わたしと一緒にパラダイスに入る。」と宣言されたのです。

彼の言葉に対して、主は「今日」と言いました。キリスト様が再臨して新しい神の国が実現する時、再臨の時ではないのです。今、この十字架の上で、楽園に入ると言ったのです。楽園と言いますのは、天国の待合室のようなところです。人は息を引き取ると、その人の霊は肉体を離れてキリストのそばに行きます。そこが楽園です。パラダイスです。しかし、それはまだ霊の状態ですから、少し不安定ですが、やがて主が再臨される時に一瞬にして栄光の体に変えられます。天使のような霊の体を持つのです。

The one criminal said to Jesus “Jesus, remember me when you come into your kingdom.” And Jesus answered “I tell you the truth, today you will be with me in paradise.” It is not for him to be saved when Jesus come in second time, but he was saved today just when he asked “remember me”. After his death the repented criminal ascended to the paradise with Jesus. It is not too late to be saved, even if we just face to death. We will be with Jesus alive or dead by choosing to repent.We are all face to death like these two criminals. Now It’s time to decide. Life or death, salvation or punishment, light or darkness, paradise or hades. Which part do you take?

ですから、いまさら散々悪いことをして、死刑の直前に悔い改めても人生、手遅れのような気がするということはありません。死の間際でも、自分の罪を悔い改めて主を信じるなら救われ、死んだ後パラダイス楽園に入るのです。生きている時も、死んだ後も主が共にいてくださるのです。生きていて信じる人には、この楽園が約束されています。楽園はイエス様と共にいる場所ですから、たとえ目に見えなくても主が共におられるならそこが楽園です。いつでもどんな時でも、主が共にいてくださること、これが天国ではないでしょうか。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25~26)

まさしく罪を悔い改めたこの一人の犯罪人は、間もなく十字架の上で息を引き取ります。でも彼の霊は、肉体を離れて主と共に楽園へと旅立ったのでした。十字架の死の向こうには、楽園の光が輝いています。たとえ死を目の前にしても、死の間際でありましても、心から悔い改めるならば、その人は死の向こうに輝くパラダイスの光を目指して昇っていくのです。イエス様と共に。(岡田 久)

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