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わたしは道であり、真理であり、命である (ヨハネ14:1~14)

メッセージ
2020年3月8日富里キリスト教会
「わたしは道であり、真理であり、命である」
(ヨハネ14:1~14)
1.弟子たちの不信仰

しかし、弟子たちは三年間、寝食を共にして行動していたとしても、まだイエス様のことが分からないことがありました。ペテロもトマスもフィリポもそうでした。イエス様はこれから行こうとしているところには、弟子たちでさえついて来ることができないと予告されました。(13:33)皆一様に、主はいったいどこにおいでになろうとしているのだろうかと不安を感じた時の会話です。

4人の弟子たちが質問しています。ペテロはこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのですか?」「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(13:36,37)またトマスも次のように尋ねています。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14:5)フィリポはこう尋ねています。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」(14:8)そして最後に、イスカリオテのユダではない別のユダがこう尋ねています。「主よ、わたしたちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」(14:22)と。

この4人の弟子たちの質問内容を見てみますと、彼らはまだ目の前のお方が誰であるのかということを、はっきりと解らなかったような気がします。律法の教師、先生であり、リーダーには違いありませんが、あまりにも身近にいるために、この方がメシアであり、全人類の罪のための贖いの供え物になろうとしていることなど、全く見当もつかなかったようです。フィリポなんかは、イエス様に天の父なる神様を見せてくださいとさえ言っています。本当の神を見たい、そうすれば安心しますというのです。イエス様が神様だとは信じていませんでした。

かつて神の人と言われたモーセも、栄光の神の姿を見たいと言いました。すると主はこう言いました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)
と。人間は神の顔を見ることはできず、見たらその人は死ななければなりません。それほど恐れ多いことだということです。ヨハネもこう記しています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる一人子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)と。

人間は神を見ることはできないし、見た人は死ななければなりません。ですから、まさかイエスが父のもとに帰って行くことや、イエス自信が神そのものであるということは全く予想ができなかったのです。ですから、このようにどこへ行くのですかとか、父なる神を見せてくださいととんでもない問いかけをしたのでした。イエス様は神ではない、教師、預言者くらいにしか見ていなかった弟子たちの不信仰が分かります。

そういう彼らに対して主は丁寧に、ご自分のことやこれからどこへ行かれようとしているのかを説明してくださいました。それが14:1からの御言葉です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14:1~4)

どうしてこれほどまでに弟子たちの目が塞がれていたのでしょうか。いったい彼らはこの3年間何を学んだのでしょうか。彼らの質問を聞いて、どんなにかイエス様はがっかりしたことでしょう。まだ何にも分かっていないのです。最初に質問したペテロは、この後イエス様が逮捕された夜に、イエスを知らないと三度も激しく否定してしまいました(ヨハネ18:27)。トマスもそうです。彼がいない時に復活のイエス様が現れましたら、自分は復活の体を見なければ絶対信じない。手の釘の跡、胴体の槍の跡に手を入れてみなければ信じないと断言しました(ヨハネ20:25)。

フィリポもそうです。イエス様がこの五千人にどうして食事を出したらいいだろうかと、フィリポを試して尋ねました。フィリポは200万円のパンを買っても足りないでしょうと答えています(ヨハネ6:6)。ペテロもフィリポもトマスも本当に何にも解っていなかったのです。それでもただ無我夢中で主についてきました。ある意味では、そういうチンプンカンプンの弟子達でも、イエス様はあえてご自分の弟子として召されていたのです。彼らをこの世から選び、弟子として福音宣教のために遣わされようとしておりました。

2.キリストは道であり、真理であり、命である

そういう弟子たちに対して、主はハッキリと次のように明言されました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)御自身が、天のお父様へと通じる道であり、唯一の真理であり、人を生かす命そのものであると言われました。前回もラザロの復活の時にも、マルタに言いました。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と。

イエス様は、イエス様自身が神であり、神へと行く道であり、復活の命そのものであり、唯一の絶対的な真理そのものだと言ったのです。弟子たちはだれも、イエスが神だとは信じていませんでした。やはり教師であり、預言者のような人間としか見ていませんでした。ですから、自分たちも三年間も訓練を受けて、弟子としての研修を受けて、やがては免許を受けて神の国が来た時には高い地位に就くことができるに違いないと考えていました。

よくある松下塾のようなものです。松下幸之助の人生哲学、経営哲学を学んで、その弟子たちが立派な実業家になったり、政治家になって日本の国を動かしてゆくような、そういう団体だと思っていたようです。クリスチャンの中にもそういう人はいます。教会に行って、聖書を学んで、西洋哲学や海外の情勢に詳しくなり、やがては日本を世界に負けない国にしてゆこうとして入信する人です。明治期にはそういう意志をもって入信する方もいました。ですから、イエス様がこれから天上の父のもとに帰って行って、天上の住まいをわたしたちのために準備して、用意ができたらまた帰ってくると霊的な事を言っても、何を言っているのか理解できませんでした。立身出世と人生哲学の団体です。

ですから、キリストの弟子になるということやクリスチャンになるということがどういうことなのかが、まだ分からなかったのです。ヘブライ1:2にこうあります。「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を相続されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブライ1:2~3)

そこに「御子は神の本質の完全な現れである」とあります。つまりキリストは神の中の神、神の最も大事な本質の中心が、形をとってこの世にあらわれたお方なのです。ですから、キリストを見たものは神を見たものなのです。イエス・キリストは神から来られた神そのもののお方であり、御子イエス・キリストと神とはひとつなのです。(ヨハネ10:30)天上の父なる神様の心、本心そのものと言っても差し支えありません。少し難しい言葉で言いますと、啓示した神(父)と啓示された神(子)とはひとつであり、キリストは父とわたしたちを結ぶ唯一の道でもあるわけです。

そしてこの子なるキリストを通らなくては、だれも父の御許に行くことはできません。そういう意味でイエスは、弟子たちにわたしは道であると言ったのです。それは父なる神のもとに行く唯一の道であり、これ以外に神へ至る道はないということです。そういう意味で、「わたしは真理である」と言ったのです。世に一つしかない正しい唯一の道、それが真理の道なのです。更に言うならば、真理とは十字架に架けられたキリストということです。ここに真理があります。このキリストの十字架以外に真理の道はありません。イエスを処刑したローマの総督ピラトの有名な言葉です。「真理とは何か?!」(ヨハネ18:38)と茨の冠をしたキリストに向かって問うています。ピラトも本当の真理については分かりませんでした。

ですから、このキリストを見たものは既に神そのものをも見ているのです。14:7で「あなたがたはわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言っています。
イエス・キリストは神の中の神、主の中の主、王の王、ご自分の肉体をもって罪の贖いの業を成し遂げて下さる贖い主なる神様です。その方を見たのは父なる神を見たことになり、キリストを通して、しかもキリストの十字架を通してのみ、天の父なる神様の御元に行くことができるのです。そういう意味で、神へと至る唯一の道なのです。

そしてこう言いました。10節「わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである。」(14:10)つまりイエス様とお父様は、一つであり父なる神様が子なるキリスト様の内におられて話しているのだということです。

3.キリストを信じるとは

そしてキリストの弟子となるということは、何か学びを終えて修了書をいただくとか、塾に通って免許皆伝を受けるとか、試験に合格するとかというのではなく、父がイエス様の内におられるように、イエス様があなたがたのうちにおられるようになること、これがキリストを信じるということであり、キリストの弟子であることの証拠なのです。

なぜ弟子たちが、3年間も主と寝食を共にして伝道してきたのに、まだイエス様のことが分からないのでしょうか。「フィリポや、こんなに長い間一緒にいるのに、まだわたしが分かっていないのかい?」と尋ねているイエス様の心境はどんなだったでしょうか。これから弟子たちを地上に残して、ご自分だけで十字架に架かり天に帰って行かなければなりません。こんな彼らの信仰では、今までの苦労が水の泡のような空しさを覚えたのではないでしょうか。

でも朗報があります。主が天に帰られた後にお与えくださるのは、真理の御霊です。この御霊が降ると、彼らは一瞬にして目が開かれ、大胆に神の国の福音を宣べ伝えるようになります。16節でこう約束しています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたのうちにいるからである。」(14:2~17)

忍耐強く、愛と寛容のお方は、何だ、いつまでお前たちのために我慢して教えなければならないのかとさじを投げてしまわれるお方ではありませんでした。必ず真理の御霊があなたがたに降る時が来ると約束されました。そして天に帰って、お父様にお願いすると言ってくれました。それがあのペンテコステの日です。神の霊が激しく弟子たちの上に降りました。あんなにも主を知らないと言って裏切ったペテロでさえ、大勢の群衆を目の前にして大説教をしました。そうしましたら、何と三千人が信仰決心をしてバプテスマを受けたのです。イエス様以上の目覚ましい伝道の成果を挙げたのです。

天から降った聖霊を通して、ペテロを通して主の霊が語りました。聖霊様を通してペテロの内におられるイエス様が、働いて大きな業を行いました。12節の「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父の御許に行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(14:12~14)と言った言葉が成就したのです。

この時、弟子たちはペテロにしてもトマスにしてもフィリポにしても、まだよくイエス様のことが分からないままついて来ていました。そして主を何度もガッカリさせました。それでも、やがて真理の御霊が降る時に、彼らの目が開かれて、イエス・キリストこそ真の神であることが分かり、キリストの御自身が彼らの内に働いて奇跡的な業を行う、いや私よりももっと大きな業を行うと言われました。

イエス・キリストを信じるということは、御言葉による知識も必要ですが、最終的にはこの真理の御霊が働かなければ分かりません。この聖霊様が、皆様の内に宿っているならば、皆様はキリストのまごうかたなき弟子です。でもこの真理の御霊を拒んでいる人は、残念ながらキリストの弟子ではありません。この世の人は聖霊を求めません。肉的なクリスチャンも、聖霊様を信ぜず、拒みます。

わたしは、今まで何度も何度も口が酸っぱくなるほど話してきました。聖霊様を受け入れてください。聖霊様を求めてください。聖霊を信じてください。そうすれば聖霊を通してキリストが心の内に宿って下さり、大きな力と働きを起こしてくださいます。聖霊様なしには、何十年教会に来ていようと、どんなに熱心に奉仕していようと、その人はまだ只の人です。ペテロがしたのではなく、ペテロの内に宿っているキリストが、聖霊様を通してその業を行われるのです。聖霊様がわたしたちに真理を教えてくださいます。「そしてイエス・キリストこそまことの道であり、真理であり命である」ということを啓示してくださいます。

そして、聖霊様を通してキリストが内に宿り、父なる神様ともにわたしたちの内側にいて下さいます。聖霊様はわたしたちを慰め、励まし、そして真理を知らしめてくださいます。何が大事であるが、何が主にとってベストなのか、正しいことなのか、喜ばれることなのかを理解させ知恵を与えて下さいます。この真理の御霊がすべてのことを教えてくださいます。信仰とは、まずこの真理の御霊を受け入れるとこです。それはキリスト御自身を、まず最初に、心に受け入れることです。そして、父なる神様も受け入れることです。これが信じるということです。神を愛することです。

聖霊様を通して、わたしたちの内にキリストが宿って下さり、どうすればいいのか、何が大切な事かをすべて教えてくださいます。イエス・キリストを第一として歩む人生です。御霊はイエス・キリストを通して、私たちを御父のもとへと導いて下さいます。これが真理に至る道である命そのものです。このお方を通らなくては、わたしたちは神の御許に行くことはできません。最後に14:21を読んで終わりたいと思います。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(14:21)(岡田 久)

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