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わたしは良い羊飼い (ヨハネ10:1~18)

メッセージ
2020年2月16日富里キリスト教会
「わたしは良い羊飼い」
(ヨハネ10:1~18)

1.偽物の羊飼い

「『はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないで他のところを乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れだす。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立ってゆく。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついて行かず、逃げ去る。他の者たちの声を知らないからである。』イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」(ヨハネ10:1~6)

この10章の1~6節までは、10章全体についてまとめて述べています。そして羊飼いと羊の関係について述べています。更に羊の門とは何か、本当の羊飼いとは誰か、そしてその働きと目的とは何かということについて述べています。
「囲い」と言いますのは、神の民イスラエルのことです。この囲いには門がついておりまして、門番もいました。当時は、羊の群れは夜になりますと、放牧地から羊飼いが連れ戻り、この囲いの中に入れて狼などの外敵から守ります。そして朝になると羊を一頭ずつ名前を呼んで囲いから連れ出して、緑の牧場や水際に連れてゆきます。羊飼いは羊の顔を一頭一頭ちゃんと知っています。そして羊も羊飼いの声を知っていて、その声の主の後をついて行きます。そういう羊飼いの日常の生活を通して、神様の国について教えました。

「囲い」はイスラエルの民、「羊飼い」はイエス様、そして「門番」は父なる神様、「羊」は救いに招かれている人々を意味しているようです。そしてこの門を入らないで、垣根を乗り越えて勝手に入ってくる人が、ファリサイ派の人々です。そしてこの門を通らないで、こっそりと侵入してくる人々は、自分の私腹を肥やしたり、人々を支配したりするために、指導者、教育者のふりをして入ってくるわけです。ところが信仰深いクリスチャンは、その羊飼いの声を聞き分けて、本物か偽物かを見分けます。そして偽物であれば、後について行かないで逃げ去ります。

強盗の羊飼いは、羊のことを気にかけ、心配して牧会するのではなく、羊の持っているものを狙って、自分の私腹を肥やすために入ってくる人々です。教会の土地建物を狙って入ってくる人、教会の財産を狙う、牧師館に住み込む、そのように表面的には信仰深いふりをしながら入って来て、ついには本性をむき出しにしてむさぼるわけです。もっと牧師の給料を上げて欲しい、伝道用の車を買って欲しい、牧師館を立派に立て替えてくれ、自分の娘や息子を後任にして欲しい、自分と自分の家族のことしか考えません。按手を早く授けてくれ、いや按手礼なんかしなくてもいいと、神様の権威や霊的な神の祝福をないがしろにします。

富里教会もそのような試練に何度か出会ったと聞いております。そういう人は正式な教会の門を通らないで、どさくさに紛れて入って来ます。イエス様は、そういう人を盗人、強盗のたぐいだと言っています。皆さんはそういう人について行ってはいけないし、本当の羊飼いか偽物の強盗かを見分けなければなりません。

2.羊の門

そういう偽物の羊飼いは、正式な囲いの門を通って入って来ません。イエス様は7節からこう言っています。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来たものは皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに行けるためである。」(10:7~10)

羊たちの門であるイエス様、このお方の門をくぐらないで入って来る者は偽物であり、盗人強盗であると言っています。イエス様の門、羊たちのための門です。そしてこの門番である父なる神様は、この真の羊飼いのためにだけ天国の門を開いて下さるのです。ですからこの神様が備えてくださり、番をして下さっている門と言いますのは、イエス・キリストの門です。神様はイエス様しか通さないのです。本当の羊飼いにだけ門を開いて下さいます。

さて、それではこのキリストの門とはいったいどんな門でしょうか。ここに一枚の絵があります。これは認知症の方のために描いた簡単な救いの絵です。わたしたちは神から離れ、自分の罪をもって苦しみ呻きつつ、自分の人生を歩んでいます。どうしたらこの罪の重荷から解放されるのだろうかと絵は教えています。
イエス様はこう言いました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)自分の罪の重荷に苦しんでいる人がこのイエスの門に来て、その重荷をおろして安らぎが与えられて天国へ入れますというメッセージの絵です。これがイエスの門です。十字架のイエス様の門をくぐらない限り、わたしたちは神の国の囲いに入ることはできません。それ以外の方法で入る人は偽物です。偽物の羊飼い、偽物のクリスチャンです。

この羊の門であるイエス様は、ご自分のことをこう言っています。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ父はわたしを愛して下さる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(10:17~18)イエス様はわたしたちのために、御自身の命を十字架の上で捨ててくださいました。それゆえにまた新しい命、復活の命を受けることができ、イエスを信じるものをすべて永遠の命へと導くことができるのです。これが羊の門であり、十字架の門です。

ある意味では、この門は狭き門です。そして探さなければ見つかりませんし、求めなければ与えられません。そして必死にこの門をたたかなければ開いてもらえません。自分という自我に死んで、神に打ち砕かれて、神の前に降参して自分を明け渡すことによってしか得られません。この絵では、入る人は膝をついてへりくだってしかこの門をくぐれません。小さくならなければなりません。自分を誇る人は入ることができないのです。でも一生懸命求め続け、捜し続ける人、門をたたき続けるならば、必ず神様はその人にこの羊の門を開いて下さいます。40年以上も求め続けてやっと開いてもらった人がいます。

今まで学んできたヨハネの福音書の中の登場人物の人々です。新しく生まれ変わるということに確信が持てないでいたイスラエルの指導者ニコデモ、5人の男を代えてもなお心の渇きがいやされないままのサマリヤの女、38年間も足がマヒして歩くことができなかった男、姦淫の現場を逮捕されて公衆の前で死刑寸前になった女性、生まれつきに目が見えないで道端に座って物乞いをしていた男、そういう人々だけがイエスの手によって癒され救いに入りました。そういう人々だけが、イエスの門をくぐることができたのです。

3.イエスは良き羊飼い

もう一度、10:3節からを見てみますと、こう書いてあります。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立ってゆく。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(10:3~4)

この門番である神様が門を開けて下さるのは、この羊飼いのために開けて下さるのです。イエス様という本当の羊飼いだからこそ、神様は天国の門を開けて下さるのです。そして羊飼いは「自分の羊の名を呼んで連れ出します。」とあります。真の羊飼いであるイエス様は、ご自分の所有物である羊の名前を全部知っています。わたしたちは神様の所有物です、神の子供です。ですからイエス様は、名前をちゃんと知っていて、一人一人の顔も知っています。そのイエス様のものである羊を全部、囲いの中から呼び出した後で、御自身が先頭に立って羊の群れを導いて行くのです。名前を呼ぶとはそういうことです。

ここにイエス様とわたしたちの関係がはっきりと述べられています。わたしたちは皆イエス様に名前を呼ばれているものです。(イザヤ書43:1を声に出して読んでみましょう。)そして羊であるわたしたちは、その名前を読んで下さるイエス様の声を知っています。羊は皆その声を知っているので、羊飼いの後をついて行きます。名前を呼ぶとはどういうことでしょうか。それはお互いに知っているということではないでしょうか。そしてその羊のことをいつも心にかけていて下さるということではないでしょうか。

ある牧師先生が、牧師会でこう言うことを聞いたことがあります。わたしは教会の牧師として、毎朝、暗いうちに起きて、牧師館から教会まで歩いて行って、一つの部屋に入って、信徒一人一人の名前を上げて神様に祈っています。なぜなら、イエス様が、羊の名前を呼んで囲いから呼び出してから、全員を引き連れて牧場に行くからです。自分はイエス様ではないですが、神の羊である信徒一人一人を養い育てるために神様から預かっているものとして、朝には名前を上げて今日一日の守りと導きを祈っていますという方がおられました。

そしてまた寝る時には、一日の働きを感謝して、信徒一人一人の名前を上げて神様の御守りと導きを感謝してから休みますとのことでした。その方の牧会している教会は本当に祝福され、信徒が途中で一人も落ちることなく教会が成長して行っています。イエス様が羊の名前を一頭一頭読んで、囲いから出してそして先頭に立って進んで行かれるのです。これが羊飼いの働きではないでしょうか。

どうして教会の指導者を牧師というかと言いますと、それはやはり信徒一人一人の名前を呼んで祈る者として立てられた者だからではないでしょうか。そして主の御言葉を語る。信徒はその声を聴き分ける。この祈りとみ言葉の働きに専念する者として、教会はその群れの牧者として一人の牧師を選び聖別して立てたのではないでしょうか。そして羊はこの羊飼いの声をちゃんと知っています。

「羊はその声を聞き分ける」とありますように、神の羊は、飼い主であるお方の声を知っています。その声に応えその声の方について行きます。羊飼いの声を聴き分けるのは羊の方です。聞き分けることのできる羊は、真の牧者の後について行きます。聞き分けることのできない羊は、強盗の牧者について行ってしまいます。皆さんはちゃんと聴き分ける耳を持っていますか?本物と偽物をしっかりと区別して、真の牧者について行くのが神の羊の信仰です。どう聞き分けるか、聞き分ける耳をくださるように祈り求めましょう。

イエス様はさらに11節と14節でこう言っています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と。このように良い羊飼いであるお方は、わたしたちが永遠の命を得るための門であると同時に、その門をくぐった後も、ずっとわたしたち知っていて下さり、あらゆる敵からわたしたちを命がけで守っていて下さるお方です。

先ほどの絵で言いますと、羊の門をくぐった後も、イエス様が先頭に立って、天国に行くまでわたしたちを導いて下さるのです。ですからイエス様は、門であると同時に道でもあるのです。信仰生活の途中で時には道を外れたりすることもあるでしょう。あるいは休んでしまうこともあるでしょう。でもたとえ途中で落ち込んだり、沈みかけたり、迷ったりするようなことがありまして、主は必ず一人一人の名前を呼んで、探し出し見つけ出してくださいます。しかも、命がけで探し出してくださるのです。そして囲いの中に連れ戻してくださいます。

そして最終的には、イスラエルという囲いの中にいる羊と、その囲いの中にいないユダヤ人以外の異邦人の中からもご自分の羊を呼び出してくださり、二つの国の羊が一緒になって一つの群れとなると言っています。ユダヤ人の中の選ばれた羊と異邦人の中の選ばれた羊が、やがて一つの群れとなること、これが羊飼いに託された使命でもあったわけです。わたしたちが一つとなるために、主はご自分の肉を裂かれ、血を流してくださいました。それは最終的にはわたしたちが主によって一つとなるためなのです。一つの群れになることです。

そのために主は教会に牧者を与えて下さいました。牧師は一人一人の名前を上げて祈っています。朝に祈り、夕べに祈ります。そして羊はしっかりと牧者の声を聞き分け、その声の主について行きます。祈りとみ言葉、これこそが教会の生命線です。その働きのリーダーとして主は教会に牧師を立ててくださいました。祈りとみ言葉の教会、これこそイエスキリストの教会の中心と言っても過言ではありません。この羊の大牧者であるお方を見上げて、その御声に耳を傾けつつ導きの内に歩んでまいりましょう。(岡田 久)

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