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わたしは罪を犯しました (詩編51:3~21)

メッセージ
2018年10月28日富里キリスト教会
「わたしは罪を犯しました」
(詩編51:3~21)

1.ダビデの罪

ダビデは生涯、神様に対して二つの大きな罪を犯しています。一つは今日の個所の、自分の忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと関係したことです。そしてもう一つは、イスラエルの国の勢力を図ろうとして、人口調査を命じたことです。この二つの罪のゆえに、彼は本当に悩み苦しみました。でも、彼は主の前に自分の罪を認めて、悔い改めることによって、新たな人生を築いて行っています。あの偉大な信仰深い王でさえ、主の前に罪を犯すことがあるのです。クリスチャン誰でも、長い信仰生活の中で罪を犯す時はあります。問題は、罪を犯したときに、その人がどうするかが問われているのではないでしょうか。ダビデの犯した罪の誘惑の場面を見てみましょう。

「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女はたいそう美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアㇺの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、『子を宿しました。』と知らせた。」(サムエル記下11:2~5)

あのダビデにしてもやはり、人間であり、情欲に打ち勝つことができなかったようです。部下が戦いに出ている間、彼は昼寝をして少し心に隙ができていたのでしょうか。魔が差したのでしょうか。当時は、王は絶対的な権限を持っていましたから、正妻の他に多くの側室を持っていました。ですから、こういうことはよくあったのではないでしょうか。しかし、バト・シェバは独身者ではありません。彼の部下の妻です。これはいかに王様と言っても赦されることではありません。誰の目から見ても大きな罪です。

人間は罪を犯しますと、誰もその罪を罪として認めません。正当化します。あるいは誰かに責任転嫁します。神様がアダムに、なぜ園の中央の木の実を食べたのかと問い詰めると、アダムは「あなたが与えてくれたあの女が、わたしを誘惑して食べさせました。」と答えています。ダビデの中にも、もしかしたら女が自分を誘惑して、わざと見えるところで水浴びをしていたのではないか、悪いのはウリヤの妻の方だと考えがあったかもしれません。彼はどこまでも、自分の非を隠しました。

そして、女が妊娠したという明らかな証拠をなくそうとしました。ダビデはその後、ウリヤを戦場から呼び戻して、自宅に帰ってゆっくりと休むようにと命じます。夫が家に帰って、休んだ時にできた子供にしようと画策しました。これは、自分の子供だという証拠をなくしようとしたからです。不倫の証拠隠滅です。でもウリヤは忠実でしたから、自分だけが家に帰って妻と共に過ごすのは、前線の兵士にすまないと言って、家に入らないで家の外で休みました。

証拠隠滅に失敗したダビデが次に取った手段はないかと言いますと、ウリヤを先頭の激しい場所へ送って、味方を退却させ、彼が取り残されて戦死するように仕向けたのです。そしてダビデの指示通り、ウリヤは戦場の露と消え去りました。
そして、ダビデは、不幸な未亡人を引き取るという寛大な王のふりをして、合法的にバト・シェバを自分の妻として召し抱えることになったのです。こうして、王の罪は一切明らかにされることなく、真実は闇から闇に葬り去られました。ダビデは、内心しめたと思ったことでしょう。自分の不倫が美談にすり替えられて、バト・シェバを手に入れたのですから。むさぼり、姦淫、嘘、そしてついには殺人まで発展した恐ろしい罪の連鎖反応です。(ヤコブ4:2~3、P425)

でも神様はそのような王の不正を見逃しませんでした。人間の目には成功したように見えても、美談としてほめたたえられても、その根っこにある恐ろしいまでの人間の罪の根を見逃すはずはありません。主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わして、彼の隠れた罪を白日の下に明らかにされたのでした。ナタンは、王を傷つけないようにたとえ話をしながら、諭しました。

このナタンの警告によって、はじめて彼は自分の罪を認め、主の前にひれ伏したのです。その時に歌ったのが、この詩編51篇だと言われています。このダビデに限らず、わたしたち人間がいかに、自分の非、自分の罪というものを認めることに躊躇を感じているかということです。預言者ナタンに指摘されなければ、彼はその罪を隠したまま何食わぬ顔で不倫と不正を続けていたのです。罪に目がくらんで、自分がしていることも気が付きませんでした。

いや、あるいは罪だと知っていながら、神に背を向け、自分の罪をひた隠しにして生きていたのです。いかに人間が罪を認めることが難しいかということです。下手に警告しますと、王様ですからその逆鱗に触れて死刑にならないとも限りません。預言者ナタンの知恵によって、ようやくダビデが自分の罪を認めたのです。

King David committed adultery with the woman who is a wife of Uriah.
Uriah is a loyal subordinate of David. King David committed adultery with her and killed her husband to hide his sin of adultery. David committed greedy and adultery and liar and murder. He will never admit his sin. He plans well to hide his sins. It is very difficult to admit his sins and confess his sins. We are not our fault we have passed on the responsibility of our sins to the others, and escape into the crowd of urban. But where do we escape far from God’s eye? Is there the place where God is not? King David went to the God and looked up God’s face giving up himself. This is the Psalm when David gave up himself and surrendered himself to the God.

わたしたちもそうです。自分のせいではない、相手が悪いのだと自分の罪の責任転嫁をしてしまいがちです。相手のせいだ、世の中のせいだ、親のせいでこうなった、災害のせいだといくらでも責任逃れの理由はあります。そして、神と向き合うことを避け、闇の中へと、あるいは人ごみの中へと実を隠してしまうことはないでしょうか。でも皆さん、神様の目から逃れることはできるでしょうか。どこへ身を隠しますか。都会の人込みの中ですか。地下の暗闇の中ですか?地の果てでしょうか。どこへ逃げたらいいでしょうか。神様のいない場所はありますか?ダビデはついにこの神の前から逃げることができずに、観念して神の前に立ちました。そして祈ったのがこの51篇です。

2.わたしは神にのみ罪を犯した

「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にあなたの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」(51:3~6)

ダビデはナタンによってやっと自分の罪に気が付きました。いややっと正気に帰ったのです。今までは隠そう、隠れよう、ないことにしようと神の顔を避けていましたが、今ようやく、静まって神の前に立ちました。神に目を向けたのです。そして「神よ!」と祈りの声をあげたのです。わたしたちも罪の最中にいる時はなかなか、神様と相対することができません。神の顔を避けて逃げ回っています。でもその御顔の光からは逃げることはできません。観念して主の前に立つ、心を静めて一人祈ることです。「神よ。」と。

わたしはこの3節の祈りの最初の言葉、「神よ。」という言葉によって、もうすべては解決したと言っていいのではないでしょうか。神の前に出たのです。神に相対したということは、すでに自分の心が開かれていることはないでしょうか。
そして何よりも大事なことは、6節です。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」という告白です。この自分の罪の告白なしには、わたしたちの祈りは主の前に届いていないと思ってください。いくらいい祈りをして、熱心に断食しても、自分の内に罪を抱えたままではその祈りはむなしいのです。届きません。50:14を見てください。「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げものをせよ。それから、わたしを呼ぶがよい、苦難の日、わたしはお前を救おう。」(詩編50:14~15)とあります。

神への罪の告白、このことなしには私たちの祈りはどこかでストップしているのです。ですから、まずこの罪の告白を捧げることが大事なのです。ダビデは、自分の犯した罪を、神様に対する罪だと言っています。わたしは神様よりも、ウリヤに対してまず謝らなければならないのではないだろうかと思いました。自分の最愛の妻を奪われ、そして自分は無理やり激戦地へ遣わされて、あえなく殺されたわけですから。一番悔しいのはウリヤです。しかも彼は最後の最後まで、ダビデに忠義を示したではないですか。ウリヤの恨み、つらみ、怨念が聞こえてきそうです。神に対する罪よりも、部下に対する罪の方が大きいのではないでしょうか。ダビデがまず最初に謝るのは、夫のウリヤではないでしょうか。

でもダビデは、あなたにのみ罪を犯しましたと言っています。神様にだけ罪を犯したと言っています。「ウリヤには罪を犯さなかったのか、バト・シェバには罪を犯さなかったのか。」と言いたくなります。でも、わたしたちの犯す罪は、すべて神に対する反逆です。神を裏切ることです。神を欺いたことです。ですから逃げられないのです。その人に対する罪ならば、賠償金を払えば、ある程度赦してもらえるでしょう。でも神に対する罪は、決して償うことができないのです。神に対する罪は、神様以外に償うことはできません。

David prayed that “I know my transgressions, and my sin is always before me. Against you, you only, have I sinned and done what is evil in your sight, so that you are proved right when you speak and justified when you judge.” (51:3-4NIV) He said I have sinned you, only you. I wander why did he said that he has sinned against the God only. Is not the one who David should apologize at first Uriah? But he said I have sinned only against the God. Every sin we commit is a sin against God.
So we cannot hide our sins from God’s sight. God is watching our every steps and behaviors and words. We cannot hide ourselves from God’s sight. So we will be asked at the last judgment about what we have done. Every sins we have committed is against the God. We should explain on what we have done before the God.

そしてダビデは、神様は慈しみ深い方であると信じていました。また憐れみ深い方であると知っていました。そして何よりも罪を拭い去ってくださるお方だと知っていたのです。ですから、神の前に出て、「神よ」と呼びかけたのではないでしょうか。わたしを憐れんでくださいと叫んでいます。そしてわたしの罪を、ぬぐい取って下さるように、洗い流してくださるように、清めてくださるようにと訴えているのです。

主の前に座って、心を主に向けて、「神よ、わたしの背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」と祈ります。手に付いた罪の匂い、罪の汚れは、ちょっとやそっとでは取れません。拭い落とさなければなりません。汚れた個所を、軽石を使って皮がむけるくらいの気持ちでこすることによって、やっと匂いは取れます。主は必ず、わたしたちの罪を拭い去り清めてくださいます。なぜでしょうか。それは、神様は御独り子を給うほどに、この世を、そしてこの私を愛して下さったからです。この神様の愛が聖霊様を通して私たちの心に注がれるのです。神様の愛、その愛のゆえにあなたの罪は赦されたという宣言の声を聞くことができるのです。しかもさらに「わたしはあなたを愛している。あなたはわたしにとっては宝物のように尊い存在だ。」(イザヤ43:4)という声を聞くとき、わたしたちはどうするでしょうか。どう反応するでしょうか。

自分の非を認め、どんな責めも罰もお受けしようと思うのではありませんか。6節後半に「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」とへりくだるのではないでしょうか。自分のこの犯した罪は、アダム以来の原罪から来るものであることが理解できます。(51:7)この人間のもともと親から受け継いだ原罪を清めるには、あの十字架のイエス・キリストの血潮しかないのです。ですから9節で「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」と祈っています。ヒソプと言いますのは、エジプトを出る時に、柱に子羊の地を塗った時に使ったほうき状の植物です。神の子羊イエス・キリストの血潮をもって、わたしの罪を払ってくださいと祈っています。

神様は愛の神です。わたしたちの罪を赦す神です。罪に定め断罪する神ではありません。赦しの神です。そして何よりも愛の神です。罪人の罪を赦される愛の神様です。ですから、わたしたちは誰でもまず、このお方の前に出て、「神よ!」と呼びかけるならば、神様の愛が注がれて、自分の罪も非も認めて神の前にへりくだり、素直にその裁きに服してゆこうという気持ちになるのではないでしょうか。もはや罪を隠そうという気持ちは、主の十字架の前には、ないはずです。
「わたしはあなたを愛している。たとえあなたが罪を犯しても、わたしは自分の命を十字架に架けるほどに、あなたを愛している。」という声が聞こえてきませんか。

Once I have committed the sin on the traffic accident. Then I escaped from the place where I sinned and ran away to the crowd of the people.
But my heat beat violently. As I went to the place far from the accident place and let me be calm and prayed to the Lord. Then the love of God powered into my heart, I felt God’s love and heard God’s voice that I love you as much as I gave my only son Jesus to you, I forgave your sins. During my prayer my heart was filled with the love of God, I decided not to hide myself and not to escape from the God. I returned to the place where I made an accident and clear myself and apologized the one whom I have sinned. It is very important to pray to God as we have committed sins. David prayed at first “Have mercy on me , Oh God, according to your unfailing love.”(51:1) He called the God with the most humble heart and broken spirit. God never oversee the one who has a broken heart and humble heart. God surly save the broken hearted one and restore him to perfection. Call upon the Lord saying have mercy on me oh God, according to your unfailing love as we have committed sins. God will surely come and save us and blot out our transgressions and wash away all our iniquity and cleanse us from our sin.

その声を耳にしてもなお、わたしたちは自分の罪を隠して、神の前から逃げようとしますか。イエス様は、わたしが神に背いていたという背きの罪を赦してくださった。ご自分の肉体をもって、また流された血潮をもって、わたしの罪をぬぐい取って下さった。ですから私の個々の罪をも、きっと贖い赦してくださるに違いないという確信がわいてくるのではないでしょうか。何よりも、こんな罪人をも愛してやまないお方がいるということを思い出しただけで、涙が出て、もはや逃げるのはよそうと思うのではないでしょうか。すべての罪の背きの理由は、神に対する罪です。この姦淫も、盗むことも、むさぼることも、嘘をつくことも、人を殺すことも、神に対する罪だということをわたしたちは忘れてはいけません。ということは、たとえ人に見つからなくても、逃げおおせたとしても、最後にそのことで尋問されるお方がいるということです。この方からは、誰も逃げられません。そして、何よりもその方は愛のお方だということです。

わたしたちの逃げ道は只一つ、神の憐れみの前に出ることです。神の慈しみの前に出ることです。そして天を仰いで、「神よ!」と呼びかけることではないでしょうか。そこにわたしたちの救いがあり、希望があり、命があります。顔を天に向けて、「神よ、わたしは罪を犯しました。ただあなたにだけ罪を犯しました。どうか主の十字架の血潮をもってわが罪を洗い流してください、ぬぐい取って下さい。」と祈ろうではありませんか。その時わたしたちの心の中に聖霊様を通して神様の愛が豊かに流れ込んできます。祈りのたびに、「神よ、わたしを憐れんでください。」と祈りましょう。そして自分の犯した罪、知らずにいた罪を教えていただいて、この告白の祈りを持ってから、助けを求め、願い事を祈ってまいりましょう。(岡田 久)

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