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わたしは甦りであり、命である (ヨハネ11:17~44)

メッセージ
2020年2月23日富里キリスト教会
「わたしは甦りである命である」
(ヨハネ11:17~27、28~44)
1.すでに四日もたっていた

イエス様の愛しておられたマルタ、マリア、ラザロの三人兄弟が、エルサレムに近いベタニヤ村に住んでいました。主イエスがまだ30キロ位離れたヨルダン川の東の方におられた時に、弟のラザロの危篤が告げられました。ところがイエス様が、すぐにラザロたちの住んでいるベタニヤ村には出かけませんでした。そして、知らせに来た人にこう言いました。

「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。』と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された。」(11:3~6)

そして二日経ってから、ベタニヤにやっと行こうとされたのです。17節では「さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていた。」とあります。病気が知らされてから二日、ラザロが死んでから四日です。ということは、知らせを聞いてからすでに四日以上、もしかしたら一週間は経っていたのかもしれません。

これを見ますと、イエス様はなんて薄情な人なんだろう、何故、もっと早く知らせを受けたら飛んできてくれないのだろうか。そうすれば、ラザロを死から救ってあげることができたのに。知らせが言ったということは、おそらく危篤だということです。一秒を争う緊急事態ではなかったでしょうか。そして息を引き取る前に、イエス様に祈っていただいて病魔を退治していただきたい、願わくは前のように元気になって欲しい、イエス様ならきっとそれができるはずだと、みんなそう考えていたに違いありません。

今、全世界で新型コロナウイルスの感染者が次々と報告されています。全世界の人々が恐れ心配しています。なぜなら、この病の薬がないからです。感染イコール死を意味します。実際、多くの方々が感染し、死亡しています。しかし、イエス様はこのラザロの病気と死は、神の栄光のためであると言いました。そのことによって神の子が、栄光を受けると言いました。

イエス様が村に着きますと、マルタはすぐにイエス様を迎えに行きました。妹のマリアは、家の中に座っていました。そして来てくださったイエス様に対しては発したマルタの言葉は、「主よ、もしここにいいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(11:21)でした。そしてマリアも同じような言葉をもってイエス様に訴えています。「主よ、もしここにいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

つまり二人とも、もう手遅れだ、弟は死んでしまった。しかももう四日もたっていて臭いがし始めているのに、すべては終わった、一巻の終わりだと思っていました。ラザロが生きているうちでしたら、まだ何とかなったでしょうに。死んでしまっては万事休す、イエス様でも人間の死の力には打ち勝つことができなかったのか、という絶望感が漂っています。普段から復活とか、命とか、新しく生まれ変わるとか、永遠の命だとおっしゃっているお方も、現実の人の死を前にしては無力以外の何物でもないのでしょうか。

2.マルタの信仰

イエス様でさえ、死には打ち勝てない、信仰は生きている時だけの話なんだろうか。所詮、道徳や倫理的なものでしかないのか、死んでしまえば皆終わりだから生きている時だけの信仰ではないのかと思っていました。

もう少し、21節から読んでみましょう。
「マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。』イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております。』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」(11:21~27)

ここに、マルタに代表される当時のユダヤ人の復活信仰が述べられています。終わりの復活の時には復活するという信仰を持っていました。マルタは、当時のユダヤ人の誰もが信じていた終末時の復活を信じていました。今でも世界中のユダヤ人は、キリストはシオンの丘に到来する、その時神の民がすべて復活され、新しいイスラエルの世界統治が実現すると信じています。オリーブ山のふもとにたくさんの石の棺が置いてあり、その中に世界中のユダヤ人の遺体が納められていて、キリストの到来を待っているわけです。

そしてその時が来るまで死を経験するわけです。すべての人は、その時一旦、死んでしまいます。死んだ後で、神の民であるイスラエル人だけが、終わりの時に復活させられると信じていました。シオンの丘にキリストが到来し、新しいイスラエルによる世界制覇が実現するわけです。その時に神のイスラエルが成就するのです。

それに対してイエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」とマルタに言われました。イエスご自身が復活であり、命ですから、イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの命によって既に生かされている、復活の命にあずかっているというのです。つまり、未来の復活だけではなく、むしろ今現在、復活の命の中にあるというのです。なぜならイエスご自身が復活だからです。

ですからイエスを信じる者は、その瞬間に永遠の命をいただき、永遠に生き続けるのです。もちろん、この肉体は朽ちて火葬にされ灰になるかもしれません。でもキリストを信じ、キリストにある者は、決して死ぬことはなく、死を経験しないのです。それは肉体の命ではなく、霊的な命をわたしたちはいただいているからです。

3.死の原因は罪

皆さん、死の原因は何ですか。何度もお話してきましたし、「愛の便り」の学びでもやりました。なぜ人間は死ぬのでしょうか。死とは何でしょうか。一般的には生物学的、医学的に肉体の活動が停止してしまうことです。それを死と言います。そしてこの死の原因は何でしょうか。どうして健康な人でも年をとれば死ぬのでしょうか。寿命だからでしょうか。

聖書でははっきりと、死の原因は罪であると述べています。エデンの園で、神様が食べてはいけないと言った木の実を食べてしまった人間の祖先アダムとエバは、その魅力に負けてしまって、木の実を食べてしまいました。その結果、食べたら必ず死ぬと神様が言われたとおり、最終的には、土に帰ってしまいました。この時から死が全人類に入り込んでしまいました。それ以来、全ての人はアダムの子孫として、生まれながらにして罪を持っています。そして死んで土に帰ります。罪のない人間はどこにもいません。マリア様でさえ一人の罪のある女性でした。

全ての人は例外なく罪人なのです。パウロはそのことをこう記しています。「このようなわけで、一人に人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)このようにしましてすべての人は、罪の中に生まれ育ち、その結果として最後には死を経験して塵に帰って行くのです。これが人間の運命です。

しかし、イエス・キリストはこの世の罪のために、御自身の十字架の贖いの業を通して全人類の罪を贖い取って下さいました。キリストは罪のために十字架に架かられましたが、三日目に死人の中から甦られて、罪と死に勝利して下さいました。死も罪もキリストを支配することはできないのです。キリストは罪と死に勝利されました。そしてキリストご自身が復活であり、命なのです。ですからこのお方を信じ受け入れる者は例外なく、罪赦され、死にも勝利していることになるのです。ですから「死んでも生きる。決して死なない。」と言ったのです。それはやがて将来起こる未来のことではなく、今この場で、この時、主を信じ受け入れるならばその人は新しく造られた者となるのです。新しく生まれ変わることができるのです。

あの年をとったイスラエルの指導者ニコデモ、何度も男性を代えて罪を犯し続けてきたサマリヤの女でも、このお方を信じるならば、罪ゆるされ新しい命を受けて新しく生まれ変わることができるのです。罪の汚れも過ちも失敗もすべてが、キリストの十字架によってリセットされるのです。罪が赦されるのです。罪が解決された者は、自動的に死も解決されます。新しい命を着たものは、年寄りでも若者のようにみずみずしい活気に満ち溢れるのです。サマリヤの汚れた女でさえ、初々しいおとめのようになるのです。それは罪の赦しを受けて、永遠の命をいただいたからなのです。

ですからイエス様は、「私自身が復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言ったのです。わたしたちは死んでしまえば、それで一巻の終わりではないのです。死はわたしたちにとっては最期ではないのです。新しい命へのスタートです。自分に死んでみなければ、新しく生きるということが分かりません。自分中心という罪、自我に死ぬのです。肉の死ですべてが終わりではないのです。ユダヤ教の復活もそうです。ユダヤ人は死を経験しますが、やがてまた復活することは信じていました。でもそれまでは、キリストが到来するまでに亡くなった信仰者は死んでいるのです。

でもイエス・キリストが教える永遠の命というのは、終わりの時にいただくものではないのです。信じた時にいただくものです。ですからたとえ、クリスチャンは、病気で死んでも、事故で死んでも、イエス・キリストと共に生きているのです。たとえ死んだとしても主がそばにいて下さるのです。死は終わりではないのです。死は新しい命の入り口です。古い自分、過去の自分、自我という自分の罪に死に切らなければ、新しいキリストの霊の命にあずかることはできません。

イエスの目的は、ラザロを死の直前で、死なせないで生かしてあげることではありませんでした。イエスの目的は、ラザロに永遠の命は誰なのかを知らせるためでした。永遠の命はキリストご自身なのです。そしてマルタにもマリアにも、親戚の人々にもです。たとえ死んで四日経って、臭いがしていましても、あるいは死んで何十年もたって土に帰っていましても、キリストを信じる者には、死は支配しないのであり、死を経験することはありません。死んでも生きているのです。だから絶対に死なないのです。なぜなら復活であり、甦りであり、永遠の命であるお方が共にいて下さるからです。

4.ラザロ、出て来なさい。

わたしたちは今、復活の体と朽ちてしまう肉の体の両方を持っています。復活の体は目に見えませんがキリスト由来の永遠の霊的な命です。肉の体はアダム由来の有限な命です。肉の体と命は、やがて朽ちてしまいます。その朽ちる程度が、4日であろうが4年であろうが、40年であろうが、復活には関係ありません。死んでから何年もたっているから、もう駄目だではないのです。大事なことはこの肉体の状態ではなく、肉体が癌を患っているからとか、コロナウイルスにかかって陽性だとかではなく、復活であり、命であるお方を信じているかどうかなのです。このお方と一緒にいるかどうかなおです。なぜならば、このお方が復活であり命だからです。だから大事なことは、このお方の言葉に、この方の復活の命の言葉の呼びかけに答えるかどうかです。これが生きるか死ぬかの分かれ目です。

残念ながら私たち人間は、遅かれ早かれみな死にます。遅いか早いか、事故かガンかウイルスかです。あるいは天寿を全うするかですが、いずれは皆死にます。いや、皆さん方はもう死んでいるのです。いや死にかけています。もう手足が腐り始めているかもしれません。なぜなら、罪の支払う報酬は死であり、人間は皆この罪の傘のもとに生まれてきました。問題はこのイエスの招きに答えるかどうかです。この命であり甦りであり復活であるお方の招きに答えて、一歩出て行くとき、あなたは生きます。永遠の命を手にすることができます。その瞬間にあなたは復活するのです。なぜなら命であるお方を受け入れたからです。生きながら天国の住人です。

「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい。』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。』
と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いて下さることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らの信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい。』と大声で叫ばれた。すると死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい。』と言われた。」(11:38~44)

皆さんがラザロです。布に包まれて墓穴に入れられて、光を閉ざされた人生を歩んできました。もう体が罪によって腐りかけ、死臭を放っています。真っ暗闇の世界に生きてきました。体は罪の包帯でがんじがらめに縛られています。体は腐りかけています。でも今、墓穴をふさいでいた石が取りのけられました。その人を光から遮断していた重い石のような心です。重い心の石が動かされたのです。石は転がされ、墓の中に一筋の光が射しこみました。

そしてあの権威を持った声が、響き渡りました。「ラザロ!出て来なさい。」これは墓の中から出て来なさいということですが、自分という殻の中から一歩進み出て来なさいと言っているのです。イエスの声が墓の中にも響き渡りました。イエスは、ラザロに呼びかけています。ラザロが自分で主体的に、墓の穴から出てくるようにと招いています。人々が引っ張り出したのでもなく、イエス様が担いで出て来たのでもなく、お姉さんたちが中に入って連れ出したのでもなく、イエスの呼びかける声が響き渡りました。答えるのは本人です。決断するのはラザロです。皆さんです。腐りかけている自分の現実の体を見て、これではいけないと思い、声の主の方へと一歩進み出ることです。主の招きの声に応じて、進み出ることです。これはラザロ自身の判断と決断です。たとえ体は腐りかけていてもいいのです。人は誰でも、その罪の故に腐っているのですから。

英語ではLazarus come out!という短い言葉です。このイエスの声に応えて、一歩進み出るならば、その人は新しく造られたものです。今新しく生まれ変わったものです。ここが天国と地獄の分かれ目です。生と死の分かれ目です。今朝も主はわたしたちに向かって呼びかけておられます。世の終わりに復活するのではなく、今復活するのです。そしてもちろん、世の終わりまで生き続けます。永遠に生きるのです。それは主が生きておられるからです。主が生きておられるから、信じる私たちも共に生きるのです。(岡田 久)

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