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わたしは主に罪を犯した (サムエル記下12:13~20)

メッセージ

2012年7月22日富里キリスト教会
「わたしは主に罪を犯した」
(サムエル記下12:13~20)

1.ダビデの隠された罪

今朝はまた、サムエル記に戻りまして、ともに聖書から聞いて行きたいと思います。いろんな苦難を経ながらも、ダビデはついにイスラエルの王になりました。そして、かつての親友であったヨナタンの子どもに対しても、恩義を持って報いました。この頃、イスラエルも周辺の敵との戦いはありましたが、国が徐々に固まりつつありました。ところが、王国が安定してきますと、人間の心の中に出てくるのが油断と傲慢の思いです。

ダビデは、ある時、昼寝から覚めて王宮の下を見下ろしますと、絶世の美女が水浴びをしているのが目に入りました。そこで、王ですから自分の権威を傘にして、その女性を宮廷に呼び寄せてアッという間に関係を持って、自分の欲望を遂げてしまいました。日本の戦国時代もそうですが、当時の王は、領内の美しい女性を召し上げて側室にしてしまったり、たとえ自分の部下の妻であっても自分のものにしてしまっても咎められないほどの権力を持っていました。しかし、いくら王とは言え、神の国の王です。神の教えに背くようなことは許されるはずがありません。その後、このウリヤの妻であるバテシバから妊娠したという知らせが届きます。

さすがのダビデも、自分の忠実な部下の妻と関係を持ったということは、はばかられたのでしょう。ダビデはこのスキャンダルを何とか隠そうとしました。そして、ウリヤをわざわざ戦場から呼び寄せて、自分の家に帰らせ妻と夜を共にするようにしました。しかし、ウリヤは今は戦いの最中ですからと言って家に帰りません。酒を飲ませて酔っ払わせて何とか家にやろうとしましたが、それも失敗します。ダビデは、自分の不倫によってできた子供を何とか隠そうとしますが、ことごとくその策略は失敗してしまいます。

良くあの信仰厚きダビデが、そこまでやるものかと思うほどにあの手この手を使って自分の罪がばれるのを隠蔽しようとしました。そしてとうとう、最後の手段を用いて夫のウリヤを亡き者にしようとします。それは、戦闘の一番激しいところにウリヤを送って、彼だけを残して全軍退却せよと言う命令をくだしました。ダビデの一の家来、将軍ヨアブも一緒になってこの策略に加担します。こうしてダビデは、バテシバの夫を密かに亡き者にして、正々堂々とその妻バテシバを自分の妻として迎えたのでした。

誰の目にも、イスラエルの王は慈悲深く、夫を失った憐れな未亡人とそのお腹の子の世話もして下さる方だと映りました。人々の目からは、賞賛に値する王でしたが、神様の目をごまかすことはできませんでした。11:27に「夫の喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」とあります。主は彼の悪行の一部始終をしっかりと見ていました。神を侮る大きな隠された罪でした。様の御心に適わないどころか、どんな人の目にも悪としか映らないと思います。しかし実際は、ダビデの名声と権力によってこの罪は隠され、むしろ彼を称賛する雰囲気さえ国中にみなぎっていました。その時、神から遣わされてダビデのところに行ったのが預言者ナタンでした。

2.罪の告白の大切さ

預言者ナタンは、面と向かって王に忠告することをはばかりました。もし王が感情を害して、憤ってナタンを殺してしまいかねません。そこで、あるたとえ話を持ち出しました。それは一人の貧しい男と金持ちの男がいて、ある日、金持ちの男のところに来客がありました。金持ちは、自分はたくさんの家畜を持っているにもかかわらず、それを料理するのを惜しみました。そして、貧しい男からたった一匹の大切な雌の子羊を取り上げて、それを来客に振舞ったと言うのです。そこで王の判断を仰ぎました。

その時、ダビデは怒って、「そんな男は死刑だ!」(12:5)と言いました。その時、ナタンはすかさず、「その男はあなたです。」(12:7)と言いました。そして、神の言葉を取り次ぎました。「何故主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。」(12:9)と。

この時、今までひたかくしにしてきたダビデの罪がすべて白日の下に暴かれました。王の地位を利用して自分の欲望のままに、女性と関係を持ったこと。しかも忠実な自分の部下を裏切り、更には殺害まで追いやったこと。しかも、このことをひた隠しに隠し通した隠蔽の罪もあります。姦淫、虚偽、策略、殺人、部下への背信、隠蔽とたった一つの罪から、次々と罪の連鎖が引き起こりました。罪を隠せば隠すほど、罪は膨らんで行きます。そして自分をどんどんと追い込んで行きます。

サタンの策略は、この罪の事実を隠そうとすることです。「もしばれたら、お前は王の地位を奪われるかも知れない、国民の信用を失ってしまう、家族もガッカリするだろう。黙っていれば誰も解らない。」と。いま、学校でいじめの問題が取り上げられていますが、学校にいるサタンは、いじめられている生徒に絶対に口外しないように口封じをして、いじめをどんどんエスカレートさせて行きます。もしダビデが自分の罪を誰かに打明けたり、告白していたら、こんなに被害は大きくならなかったと思います。

この罪の連鎖と罪の持つ奥深い闇の力に打ち勝つには、どうすればいいでしょうか。それは、唯一つ、この罪を認めることです。罪から逃げずに、面と向き合うことです。そして、一切の罪を神の前に明らかにし、それを告白することです。13節で、ダビデは預言者ナタンの叱責に対して、「わたしは主に罪を犯した。」と口で告白し、言明しました。この自分の罪を認め、これを神の前に告白することです。これが恐ろしい罪の力に勝利する第一歩です。

恐らくこの12節と13節の間には、長い時間がかかったかも知れません。人は簡単に自分の罪を、打明けることが出来ないからです。「自分は何も悪いことをしていない、王様だったらそれくらいのことはしても良いのではないか、自分が悪くはない、悪いのはあの裸で水浴びをしていた女の方だ。」といろんな言い訳や弁解があるでしょう。でも、自分の罪を弁解し言い訳を主張している限りは、この自分の罪に力に勝利することができません。苦しい暗闇の人生を歩みます。

詩篇32:3~6にダビデはこう言っています。「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りに会って衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」

罪の告白が、罪に勝利する唯一の道であることを示しています。この告白が成されない限り、人の心はいつも鉛のように重く、その人こ心を悩ませ、落ち込ませ苦しめ続けます。それは、まるでテニスコートの重い鉄のローラーで、自分が押しつぶされそうになるほどの苦しみではないでしょうか。

しかし、わたしたちが自分の罪に向き合い、それをはっきりと主の前に告白する時、罪はたちどころに消え去り、私たちは解放されます。ですから、この「わたしは主に対して罪を犯しました。」という告白の大切さをしっかりと覚えたいと思います。ダビデは、ここで何よりも、「神に対して私は罪を犯しました」と言っていることです。この点が、サウルとダビデの謝罪の仕方の違いではないかと思いました。ダビデは、あくまでも主の前に自分はどうなのかということを問題にしています。サウルは、自分が殺そうとしたダビデに対して悪かったと言っています。

もちろん、ダビデもバテシバやウリヤに対しても謝罪しなければならないでしょう。でも、その前に一番大切なことは、神の前に自分はどうなのかという告白です。神との関係です。神に対する背信を認めなければなりません。それができて、初めて被害者に対する謝罪が成立するのです。神に対してどうであったのか、ということがまず第一に問われなければ、真の悔い改めも真の和解も果たせないのではないかと思います。

4.罪の身代わりに

12:13節から読んでみましょう。「ダビデはナタンに言った。『私は主に罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主をはなはだしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。』」(12:13~14)

ダビデは自分の過ちの結果生まれた、一人の子供の死を宣告されます。この子は、ダビデの不義密通の子だから、この世に生を受けるべきではなったのでしょうか。確かにそれもあるでしょうが、わたしはやはり、この子はダビデの罪の身代わりに神の罰をその身に背負われたのではないかと思います。生まれてくるこの子には、なんの責任もありません。なんの咎められることも、罰を受けるようなことをしていないにもかかわらず、この幼子は、父ダビデの罪を背負って身代わりになって、死の罰を受けたのではないでしょうか。

父親が受けるべき呪いを、罪なき幼な子が背負うことによって、ダビデの罪が赦され死を免れることが出来たのではないかと思います。「あなたの子は必ず死ぬ」という言葉の中に、この子がダビデの罪の身代わりになるという神様の強い意志が隠されているような気がしてなりません。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)

わたしは、この子がダビデとバテシバの罪の故に、身代わりになって死んだのではないかと思います。それは、やがて成就する神の一人子イエス・キリストの十字架の身代わりの死と言うことを指し示していると思います。神様は、人間の罪がどんなに重くとも、たった一人の罪のない神の独り子が、その死によって罪の身代わりになってくださること、そのことによってすべての人の罪が完全に赦されるということを教えられたのではないかと思います。

5.新生の喜び

バテシバとの間にできた最愛の子が、自分の罪の身代わりとなって死ぬという預言者の言葉を聞いて、ダビデは、我が子のために部屋に引きこもって断食して祈りました。しかし、祈りのかいなく、我が子は一週間後に息を引き取りました。家臣たちは、その知らせをダビデに告げるのを恐れました。あまりにもダビデの様子が尋常ではなったので、もしかしてこの悪い知らせを聞いて、ダビデがもっと落ち込むのではないかと心配したからです。

ところが、ダビデはその訃報を聞くと、突然、起き上がって体を洗い、香油を塗って、着替えをした後主に礼拝をして、何ごともなかったように食事をとったのです。(12:20)この態度の変化に家臣たちも驚きました。普通でしたら、「あの子を死に追いやったのは、このわたしだ。私の罪があの子を死なせてしまった。」と言って、一生我が子の死の十字架を背負って生きてゆかなければならないでしょう。前に進もうとしても、自分の犯した過去の傷口が痛んで悲しみの中に引き戻されてしまいます。いつまでも、我が子の遺影を抱いて悲しみと後悔の人生を送らなければならないかもしれません。

でも、ダビデは、我がこの死は私の罪の故であると言うことを認めました。でも、これは神が私の罰と呪いを我が子の上に下されて、その結果我が子が死んだのであって、この子が私の罪の身代わりになって死んでくれたので、私は罪を赦してもらい、死の罰を赦免してもらったと言うことがわかったからです。ですから、いつまでもその十字架の重荷を自分が引き受ける必要はない、あの子が引き受けて下さったが故に、わたしは今日生きることが許されているのだと言うことが解ったのです。わたしたちの過去のどんな罪も、拭い去ることができない痛みも、わたしたちが背負う必要はないのです。

イエス・キリストがわたしたちの身代わりになってあの十字架にかかり、呪いの人生、のろいの十字架を引き受けて下さったのです。そのことが解ったので、ダビデは一切を主に委ね、新しい人生の再出発をすることができたのです。人生をリセットさせて下さるのは、このイエス・キリストの十字架です。ですから、わたしたちも新しい人生、喜びと感謝に満ちた祝福の人生を常に再出発することができるのです。

その後、ダビデは妻のバテシバを慰め、第二子が与えられました。そしてその子の名をソロモンと名付けました。また、預言者ナタンの預言の通りになったので、その子の名を「主に愛された者」(=エディドヤ)とも名付けました。さらに、ダビデは、水の町ラバをも攻撃して陥落させ勝利しました。

あんな大罪を犯した男が、預言者の言葉によって叱責され、そこで「私は主に対して罪を犯しました」と自分の罪を告白した時に、神は、彼の罪を瞬時に赦されました。呪いが祝福に代わりました。悲しみが喜びに代わりました。絶望が希望に変わったのです。神の御子イエス・キリストの罪のない尊い血潮は、どんなに汚れた者の罪をも、赦されることの出来ない者の罪さえ、ことごとく赦し清めて下さるのです。そして新しい人生のスタートをさせて下さいます。誰も罪を犯したことがないと言える人はいません。誰も自分には罪がないといえる人もいません。私たちはみな罪人です。一皮向けば、誰でも自分の罪に心を痛めない者はいません。

この罪の呪いと鎖に打ち勝つ道は、唯一つ。それは、主の前に「私は主に対して罪を犯しました。生まれながらの罪人です。」と告白することです。この告白には大いなる報酬が待っています。解放と自由と喜びの人生が待っています。最期にもう一度、詩篇32:5の言葉を引用させていただきます。「わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。その時、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」神様の求めている供え物は、このようにして主の前に素直に自分の罪を告白する打ち砕かれた霊、悔いた心です。(詩篇
51:19)               (岡田 久)

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