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わたしはナザレのイエスである (ヨハネ18:1~11)

メッセージ
2020年3月22日富里キリスト教会
「わたしはナザレのイエスである」
(ヨハネ18:1~11)

1.イエスの逮捕に際して

さて、聖書の方も、いよいよイエス様の逮捕の場面に移ってまいりました。18:1に「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」とあります。最後の告別説教と祈りが終わってから、主は弟子たちと一緒にエルサレムの東の門を出て、キドロンの谷を越えて、ちょうどオリーブ山のふもとにあるゲッセマネの園という場所に行かれました。そこには古い岩のようなオリーブの木が植えてあり、そこでいつも弟子たちと一緒に祈ったり語り合ったりしていました。

このヨハネの福音書には出ておりませんが、その晩ゲッセマネの園でイエス様は、もだえ苦しみながら必死に祈られました。その時汗が地面に血のように滴り落ちたと記されております。(ルカ22:44)しかし、主が祈っている間、同行した弟子たちは、悲しみと疲労困憊の末、眠り込んでしまいました。どんなにイエス様が孤独を覚え落胆したことでしょう。でも主はこのゲッセマネの祈りを通して、ご自分の果たすべき使命を明確に自覚し「時が来た。さあ、立て行こう。わたしを裏切るものが来た。」(マルコ14:41~42)と言って立ち上がりました。その後のことが今日のヨハネ18:3節以下に書かれております。

「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役を引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして地に倒れた。そこで、イエスが『だれを捜しているのか』と重ねてお尋ねになると、彼らは『ナザレのイエスだ』と言った。すると、イエスは言われた。『「わたしである」と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』それは、『あなたがお与えくださった人を、わたしは一人も失いませんでした。』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」(ヨハネ18:3~9)

たった一人の人を逮捕するために、兵士の一隊と神殿警護の役人たちがやって来て、イエスを逮捕しようとしました。そしてその場には弟子の一人であった、イスカリオテのユダもいました。彼は暗闇の中で、イエスを探し出しつかまえるために、偽りの接吻をもってイエスに近づき、そのことによって首謀者を見つけ出してつかまえやすいようにしました。銀貨30枚で、このような裏切り行為をユダは実行したのです。

こういう場合、わたしたちだったらどうするでしょうか。イエス様を守るために武器を取って戦うでしょうか。あるいは暗闇に紛れて逃げてしまうでしょうか。そういうこともできたはずです。大勢の人々が隊を組んでやってきたわけですから、事前に察知して逃げようとすればそれも可能でした。

しかし、ここでのイエス様の態度は、もうすでにゲッセマネの祈りの中で、神様から示されて決心をしていたようです。神様との激しい祈りの中で主はこう祈っています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)と。その父との血のにじむような激しい祈りの中で、父からの答えを受けていました。それは御父の御心を行うために、十字架の苦しみの杯を飲み干すという答えでした。

信仰が弱くて眠ってしまった弟子たち、裏切ってしまった弟子、そして自分を逮捕しに来る多くの人々、そのような中で自分はどうしたらいいのだろうかと思い悩んだに違いありません。自分達が今、どんなことをしているのかもわからずに罪を犯し続ける人々のために、ご自分を罪の贖いのいけにえとして献げる決心をされました。祈りの中でイエスは、答えを見出し、父の御心に従う決心をしたのです。ですから18:4にありますように、「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と尋ねられた」のでした。

ここで主イエスは、ご自分の方から「だれを捜しているのか」と二回も尋ねておられます。逮捕される人が逮捕する者に対して「誰を逮捕しようとしているのか」と尋ねることは、普通はないと思います。そして兵士たちが、「ナザレのイエスだ」と答えると、主は「わたしである」と答えています。自分から逮捕されることを望んでいるかのように、自分で尋ねて自分で名乗っているのです。

2.逃避と否定

マタイとマルコ福音書では、この時、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ出したとあります。形勢が不利になったのを見て、そして自分たちも捕まってしまうのではないかという恐れのあまり、足がすくみ逃げ出したのでした。誰でもそうです、自分が捕まってしまう、逮捕されるという危険が近づく時に、誰でも逃げ出したくなります。足と体が反射的にそう動くのです。

ペテロはこの後、イエス様の後を追って大祭司の家までついて行きますが、そこで「あなたもあの男の弟子ではないか」と言われると、「違う」(18:25)と言って否定しました。「あなたのためなら命さえ捨てます。」(13:37)と言っていたあのペテロでさえ、一番弟子でありながら、捕まると逃げて行ってしまいました。そして「仲間だ」と周囲から言われると、「違う」と否定したのです。正直言ってこれがわたしたちの姿であり、本音ではないでしょうか。警察官と自衛隊と市役所の職員が来て、逮捕しますと言ったら、誰でも足がすくむのではないでしょうか。

その点、イエス様は堂々と「わたしがナザレのイエスである。」と自分から名乗り出ました。このイエス様の堂々とした態度の背景には、やはりあのゲッセマネでの血の汗を流すような激しい祈りの闘いがあったからではないでしょうか。この苦難と恥を避けるべきか受けるべきか、迷いに迷ってやっと得た結論です。それは自分は、十字架の苦しみを通して世の罪を贖うことが父の御心だと考え、意を決して歩み出されたのではないでしょうか。

さらにイエス様は、「わたしを捜しているなら、この人々は去らせなさい。」と言っています。ご自分が自ら進んで縄を受けることによって、弟子たちは無傷で去らせてほしいと言っているのです。つまり弟子たちの身代わりになって、自分が代りに逮捕されるという決意でした。そのことによって父なる神様の愛を示されました。「友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はない。」(15:13)という主の御命令です。わたしなんかは本当に、イエス様の爪の垢ほどの信仰も愛もない牧師だと思いました。信徒のことよりも自分のことが大事で、嘘をついたのですから。

イエス様は自分が捕まっても、弟子たちは逃がして欲しいと言っています。自分の身に危険が迫ってきますと、心は熱していても肉体が弱いのです。気持ちはあっても体がゆうことを聞きません。恐怖と不安と焦りで、体が勝手にふるえだし逃げの体制に入ってしまうのです。この時、弟子たちは皆イエス様を見捨てて逃げ出して行ってしまいました。弟子たちが逃げたのではなく、イエス様が身代わりになって逃がしてあげたのでした。

それは「父なる神様が選んで、イエスの弟子として与えて下さった人々を、イエス様が最後まで失うことがない」(18:9)という御言葉が実現するためだったのです。17:11でイエスはこう祈っています。「聖なる父よ、わたしに与えて下さった聖なる御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えて下さった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。」(17:11~12)と。

わたしたちは父なる神様が選んでくださって、イエス様に与えられ、イエス様の御名が常に守っていてくださるのです。そしてイエス様が、その体を張って、父が与えて下さった弟子たちを最後まで守り通されたというのです。そして同じように、イエス様のお名前がわたしたちを守っていてくださるのです。この主の御名を感謝しましょう。イエスの名前を賛美しましょう。

3.キリストの証人として

もし自分が「ナザレのイエスの弟子だ」といったらどうなるでしょうか。おそらく一緒に逮捕されてしまいます。もしわたしたちがクリスチャンだと言ったら、この世に住みにくくなるのではないでしょうか。今まで友達だった人も、もしかしたら離れて行くかもしれません。わたしたちはこの世の力とこの世の習慣を恐れて、自分がキリストの弟子であるということを隠してしまうことはないでしょうか。

でもイエス・キリストは自分から進んで、「わたしがナザレのイエスである。」と告白しました。全人類のすべての罪を贖う神の子羊として、主はこの世に来られました。わたしたちの不信仰や弱さや恐れを知りつつ、そういう弱いわたしたちの身代わりになって十字架への道を選び取って下さったのです。わたしこそナザレのイエスであり、すべての人の罪を償い神の子羊であるということを世に表わされたのです。そしてわたしたちはこのキリストの十字架の贖いによって、つまりキリストが身代わりになって逮捕され苦しんで下さったことによって、弱いままで、不信仰のままで罪赦されて弟子とさせていただいているのです。

クリスチャンとなったということは、どんな時でもどんな状況でも、わたしはクリスチャンです。イエス・キリストを信じているものですとはっきりと世に向かってあかしをするものとして召されたということです。主はこう言いました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:13)と。

わたしたちは地の塩、世の光となるために選ばれ救いに入れられました。そのわたしたちが、その塩味を失い、ともし火を消してしまうならば、いったいどうして塩の役目を果たすことができるでしょうか。また世の中を照らすことができるでしょうか。キリストの光を世にあって、人々の前に輝かしなさいと命じておられます。イエスのように逮捕される時でも、普通の生活の中でも、キリストの光を人々の前に輝かすことです。

この世の力は、わたし達クリスチャンが福音を宣べ伝えないように、襲いかかり沈黙させようとします。しかし、主は最後の最後まで堂々と世に向かって救いの光を輝かし続けました。たとえ手を縛られていようとも、逮捕され、裁判にかけられ、尋問され、裸で十字架に架けられたとしましても、最後まで救いの光を輝かせることを止めませんでした。それがわたしたちの証の生活の模範だったのです。たとえ逮捕されても、堂々と自分は富里教会の信徒です。わたしは富里教会の牧師ですと言えるようになりたいと願っています。逃げるのではなく、隠れるのではなく、また武器や力によって対抗するのではなく、主の御心を求め主の御旨に従い、どんな場合でもキリストに従う生き方をしたいと願っております。        (岡田 久)

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