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わたしの隣人とは誰か・良きサマリア人のたとえ (ルカ10:25~37)

メッセージ

2012年1月15日富里キリスト教会
「わたしの隣人とは誰か」(良きサマリヤ人のたとえ)
(ルカ10:25~37)

1.あなたはどう読んでいるか

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。』と言われると、彼は答えた。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』と言った。」                (ルカ10:25~29)

律法の専門家ですから、聖書のどこに何が書いてあるか、どういう意味かなどを全部知っている人です。神学校の先生みたいな人です。その人がイエス様に対して、ちゃんと聖書を知っているかどうか試したわけです。「永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいでしょうか」と。自分では専門家ですから答えは解っています。でも、イエス様はその魂胆を見抜いて、逆に「あなたはどう読みますか」と、尋ねました。

すると、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えました。これは、申命記の6:5とレビ記の19:18からとったものです。律法の専門家は、聖書について正しい知識を持ち自信を持って答えました。イエス様も「正しい答えだ。後はそれを実行するだけですね。そうすれば永遠の命が得られますよ。」と答えました。

しかし、イエス様がそれを実行しなさいと言った時に、彼は、ハッと気が付きました。聖書の言葉が自分について、自分に向かって語られているということです。しかし、彼の心に、自分はみ言葉に反して、ある人を愛していないということに気が付きました。そして、自分を正当化するために、「私の隣人とは誰ですか。」と聞き返しました。リビングバイブルには「自分がある種の人々を愛していないことを正当化しようとして」とありました。この専門家にとっては、隣人の区別があったのです。愛すべき隣人と、愛さなくてもよい隣人です。

イエス様は、この専門家に最初こう尋ねています。「聖書には何と書いてありますか。そしてあなたはそれをどう読みますか?」と。つまり、私たちが聖書を読む時に何と書いてあるか、またそれをどう読むかを尋ねたのです。聖書の言葉を、他人ではなく自分に向けさせたのです。そしてそれに自分がどう答え、その聖書の戒めに従っているかどうかです。これが正しい聖書の読み方です。聖書は誰かを試したり、非難するために読むのではなく、まず自分自身に向けられた言葉として読むこと、これが聖書の正しい読み方です。

どうしてその時に、「私は隣人を自分のように愛せません。」と言わなかったのでしょうか。家族の者、親せきの人、会社の人、友人、自治会の人、団地の人、マンションの人、誰でも自分の心を振り返ってみれば、愛することのできない人は一人や二人は持っています。ですから、私は自分を正当化する必要はないと思います。素直に、あるがままに、どうしてもあの人が赦せません。いや、憎しみさえ持っています。顔も見たくありません。隣人を自分のように愛するなんてできませんと、言ってもいいのではないでしょうか。

聖書は、私たちの立場を正当化するために読むのではなりません。聖書は自分のありのままの姿を映し出す鏡のようなものですから、自分を偽って正当化して、本当の自分、罪人の自分、愛せない自分を聖書の前に告白すべきではないでしょうか。律法の専門家は、イエス様の前に正直に告白しなければならなかったのです。でも、この律法の専門家はどこまでも自分を正当化して「では、わたしの隣人とは誰ですか」とイエスに尋ねたのです。そして、その答えとして主が教えたのが、一人のサマリヤ人のたとえ話でした。

2.私の隣人とは誰か

30節から37節まで一人のサマリヤ人のたとえ話が語られています。ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中に追いはぎに襲われました。そして半殺しにされて、道端に放置されてしまったのです。そこに三人の人が通りかかりました。最初に通りかかった人は祭司でした。彼は、その被害者を見ましたが、道の反対側を通って行きました。次に来たレビ人も、同じように道の反対側を通って行きました。そして三番目に通りかかったサマリヤ人だけが、このけがをして動けないでいる旅人を助け、介抱してあげたのです。

そして最後に、イエス様は、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と尋ねました。すると、律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と言いました。そこでイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい。」といいました。ここで、このお話は終わっています。この専門家が、帰ってその通りにしたかどうかは書かれておりません。

私はこのお話の中での大事な言葉は何かと申しますと、この律法の専門家が尋ねた「では、わたしの隣人とは誰ですか。」という問いかけの言葉ではないかと思いました。と言いますのは、彼が自分の立場、すなわち、律法の専門家で律法に精通して人々から尊敬を受けていたにもかかわらず、この律法を実行していなかったということを主に指摘されました。自分で気づいたならば、なぜ、そこで「先生、私は、専門家ですが、おっしゃる通り教えは解っていても、この教えを実行していませんでした。どうしても愛せない人がいるのです。」と正直に自分の気持ちを告白しなかったのでしょうか。

「これが現実の私の姿です。私は隣人を愛せないのです。私は夫を愛せません、私は妻を愛せません。子供を愛せません。友人を赦すことができません。」と言ったらどうでしょうか。そういう気持ちで、この良きサマリヤ人のたとえ話を読むと少し意味が解るような気がします。つまり、このたとえ話に登場してくる六人の人物の中で、自分はどれにあたるのだろうかということです。傷ついた旅人、追いはぎ、祭司、レビ人、サマリヤ人、宿屋の主人の六人の中で、自分はどの人物だろうかと考えました。

以前、私はこのサマリヤ人のお話から強い信仰的な影響を受けていました。そしてあまり聖書も読んでいませんでしたので、このお話だけが自分のクリスチャンとしての唯一の模範のように考えていました。クリスチャンはあのサマリヤ人のようにあるべきだ。困っている人を助けてやる、弱っている人のために何かをしてあげる、これこそクリスチャンとしての自分の人生の基本姿勢だと考えていました。私にとっての隣人は、この追いはぎに襲われ、傷ついて助けを求めて横たわっている人です。そうでない人、そのように人を傷つける人はいつの間にか、隣人ではなく私の敵になってしまっていたのです。旅人を傷つけた追いはぎは明らかに敵であり、愛してはいけない人です。そして、何もしない祭司やレビ人も軽蔑すべき人間以外の何物でもなかったのです。

4.真の隣人

でもそういう完全に正しい自分が、ある時、そうでないという事実を突き付けられた出来事がありました。それは、自分が正しい、自分は良きサマリヤ人であり、クリスチャンとして弱者を助けるためにやってきたことが、知らない間に、その弱者を自分が追い込み傷つけている現実を突き付けられました。そして、なんと自分自身があの追いはぎのように、助けを求めている人をさらに窮地に追いやってしまったのです。それが、自分の罪の現実を初めて目の前に突き付けられた事件でした。

(労働組合での自分の罪を示された出来事)

私は、ああ自分は一体何をやってきたのだろう、良きサマリヤ人のつもりで立場の弱い人、弱者のために先頭切って、自分を犠牲にして戦ってきたのに、その正義が、弱者を追い込み苦しめてしまった。道端に倒れて息も喘ぎながら苦しんで助けを求めている人に対して、さらに傷口に塩を塗るようなことをしているんじゃないかと責められたのです。こんな恥ずかしい自分、どこかに姿をくらましてしまいたいとさえ思いました。

そういう自分の姿を知ってから、自分はあの良きサマリヤ人ではなく、本当はあの道端に倒れて助けを求めている旅人が自分ではないかと思えて来たのです。そして、本当の良きサマリヤ人はあのイエス様ではないのかと思えてきました。

道に倒れている自分を、イエス様が見て下さって憐れに思って下さった。そして道を横切って私のところまで、近づいて来て下さったのです(受肉)。そして傷口にオリーブ油とぶどう酒を注いでくださいました。これはイエス・キリストの霊と贖いの十字架の血潮を意味しています。わたしの傷の痛みに触れ、その痛みを十字架の上でご自分の上に引き受けてくださいました(十字架)。そしてその傷口の上に包帯をしてくださいました(復活)。これは、私たちの弱さや欠点を聖霊でカバーして下さるということです。

そして自分のろばに乗せてくださいました。これは倒れて動くことのできない私を、担ぎ、引き揚げ、助け出してくださり、帰るべきところ教会へと連れ戻して下さったということです(教会)。宿屋とは教会です。主にある交わりのあるグループです。介抱して下さったというのは、その暖かい家族の交わりの中で、心のケアと体の介護をしてくださったということです。しかも罪のしみや傷が完全に治るまで、最後まで面倒を見てくださるということです(聖化)。治療費も支払って下さるのです。そしてもっと費用が掛かったら、帰りがけに来て寄ってまた支払うということです。これは主の(再臨)を示しています。

ほんとうの隣人とは、実はあのイエス・キリスト様のことではないだろうかということです。イエス様が、私たちを愛してくれたから、私たちも愛し合うのです。イエス様が私たちのところに近づいて来て下さったから、私たちも友のところに行くのです。イエス様が、手当をしてくださったのです。イエス様がろばに担ぎ上げてくださったのです。イエス様が介抱して下さったのです。イエス様が私たちを教会に連れて行って下さって、いやして下さったのです。イエス様が必要なお金を全部立て替えて下さったのです。私たちが完全に回復し立ち直るまでです。

ほんとうの私たちの隣人はイエス様です。私たちは、道端に倒れていた旅人です。イエス様だけが私たちに近づいて来て下さいました。イエス様だけが私たちをいやして下さいました。イエス様だけが私たちを罪の中方引き上げてくださいました。そして神の家族へと連れ戻してきてくださいました。完全に治るまで介抱して下さり、治療費も払って下さったのです。このイエス様の大きな愛の故に、この愛に触れた時に、私たちも助けを求めている人の隣人になって行きたいと願っています。                 (岡田 久)

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