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わたしの報酬 (Ⅰコリント9:13~18)

メッセージ

2013年8月25日富里キリスト教会

「わたしの報酬」
(Ⅰコリント9:13~18)

1.福音伝道者の権利

9:13に「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」(9:13~14)何も福音で身を立てること、牧師の仕事をして、生活の糧を得ることは後ろめたいことではない、当然のことであるとパウロは言っています。

更にこうも言っています。「わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」と言っています。確かに戦争に行く時には、自分の貯金を下ろして軍隊に加わる人はいません。

また、申命記25:4を引用して「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という御言葉をも引用しています(9:9)。脱穀というのは、牛が一生懸命働いているように、宣教、牧会、教育をして信徒を一生懸命、養い育てて働いている伝道者という意味です。そういう人の口に籠(くつこ)を当てて食べることができないようにしてはいけない、宣教するものにはそれに見合うだけの生活の糧を十分に与えなさいというモーセの教えです。

ですから、当時は、十二使徒やイエス様の兄弟たちやケファ=ペテロは、自分たちで生活の糧を得なくてもよいように、教会からの報酬を受けていたようです。その報酬で食べたり、飲んだり、結婚していたペテロは、信者である妻をしばしば連れて巡回していたようです。もちろん彼らは、イエスの直弟子として、使徒として生活の糧を得るための仕事を持たずに、教会からの謝礼で生活していたようです。

パウロは自分も同じようにコリント教会からの謝礼をいただいて、テント造りの仕事をしなくてもいいほどの報酬はいただけるし、ペテロや他の使徒たちのように、その権利もあると考えてもいました。しかし、彼はその権利を行使することを差し控えていました。いや、むしろはっきりと断っていたのです。

2.パウロの誇りと報酬

一般的に言いまして、福音伝道者が開拓伝道をして、その働いた結果として群れができ、教会が形成されて来ます。そして、教会はその伝道者に対して報酬を献げるようになるのが当然の成り行きでした。今でもそのやり方は変わりません。伝道者はそのような謝礼を受けてそれで生活の糧を得て、もっぱら宣教に専念することができるというわけですが、パウロはその報酬を受ける権利を拒んでいました。

パウロはコリント教会からの報酬を受け取らなかったのは、教会にあまり負担をかけたくなかったからだと言っています。また、第一の手紙の方では、「福音の妨げになってはならないからだ」と言っています。(Ⅰコリント9:12b)
一人の伝道者の生活を支えるということは、異邦人の教会にとっては大きな負担でした。それは二千年前のコリントの教会に限らず、日本の教会でも状況は同じです。

教会全体で、何とかパウロ先生とバルナバ先生だけはアルバイトをしなくても生活ができるように我々で支えようといっても、皆が皆、賛成するとは限りません。なかには、自分はとても支えきれないと思って、教会から離れて行ったり、信仰を諦めてしまう人もいたに違いありません。高校生時代のわたしのように、牧師は日曜日に30分のお話をするだけで、高い給料をもらっていると思い込んでしまう人もいたかも知れません。そういう人々のことを思うと、パウロは自分の権利を行使することなど、とてもできませんでした。献金でつまずいたり、伝道者の家族を支えることで信仰を失ってしまうような人が出るくらいなら、わたしは権利を放棄することを彼は誓ったのでした。

9:15から読んでみます。「しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら死んだ方がましです・・・。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それは誇りになりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。・・・では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないことです。」(9:15~18)と言っています。

使徒としての当然の権利を使わないことは、パウロの誇りでした。しかし、福音伝道は誇りでも何でもなく、パウロとしてはそうせずにはいられない務めだったのです。いや、伝道しないならば、自分は不幸だとさえ言っています。パウロにとっては伝道の成果を得ることが目的ではありませんでした。

パウロはこう思っていました。「絶対それだけはしたくない。自分はそのために使徒となったのでもないし、召されたのでもない。自分が召されて伝道者になったのは、ただ神の一方的な恵みと憐れみによってこの尊い任務に就かせていただいたのだ。だから、成果を求めているのではないのだ。そうではなく、今はただこうして主の福音を宣べ伝える者とされている、そしてそのことができる、報酬なんかどうでもいい、大事なのはこの福音を無報酬で、誰にでもどこででも宣べ伝えることなのである。これがわたしの最上の喜びであり、誇りであり、幸福なのです。だから誰もわたしのこの幸福を奪ってはならない。」と考えていたのではないでしょうか。もし、わたしが報酬をもらったら不幸な人間ですと言っています。(9:15~16)

3.わたしたちの報酬

いかがでしょうか、私も含めて皆さん方も、パウロと同じような使命感を持っているでしょうか。福音を伝える喜び、福音を分かち合うことの喜び、それを無報酬でするという誇り、これが私たちの報酬ではないかと思います。わたしよりも皆さんの方が、その福音に仕え、一生懸命伝道したり証しをしたりして下さいっています。時間も体もそして献金まで献げて、無報酬で福音に仕えておられるのではないでしょうか。何とか信徒を増やして、岡田先生に十分な謝礼を献げることができればと願っておられる方もおられるかもしれません。感謝なことです。皆さんが、そのようにして牧師を支えようとして一生懸命伝道し、また献金をして下さることによって、私もよし頑張ろう、もっとみんなのためにとりなしの祈りをささげよう、恵まれる説教を作ろう、伝道しようと思うかもしれません。

しかし、私にとっては、牧師であろうがなかろうが、福音を宣べ伝えずにはおれないのです。報酬があろうがなかろうが、福音を宣べ伝えることこそ私の生きがいだといってもいいかも知れません。福音に生きるならば、主は必ず、生活のことも心配して備えてくださいます。主の山に備えありです。あまり生活のことは心配していません。まだわたしには、神様が与えて下さったなすべき使命があるのではないかと思っております。

富里に来る前は、わたしは休職中で、牧師ではありませんでしたが、TBCのスモールグループを我が家で開いたり、婦人向けのバイブルクラスをしたり、いつも来て下さる鎗田さん達と一緒になって、「未信者の御主人方をキリストのもとに」というハズバンドミニストリーを立ち上げたりしました。何の報酬も謝礼もなくとも、浦和から渋谷までよく通ったなあと思います。収入がないのですから、友人の牧師の紹介でブライダルのアルバイトなどをしながらでしたから、今よりも忙しかったような気がします。でも、福音のために働く、福音を伝えることの喜びには代えられないような気がします。

時が良くても悪くても福音を宣べ伝えましょう。御言葉の種を蒔き続けましょう。そして、礼拝、祈祷会、教会学校やスモールグループに集まることをやめないで続けて行きましょう。これこそ、わたしたちに下さった神様からの恵みの報酬ではないでしょうか。                (岡田 久)

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