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わたしにつながっていなさい (ヨハネ15:1~10)

メッセージ

2016年6月29日富里キリスト教会

「わたしにつながっていなさい」
(ヨハネ15:1~10)

1.わたしはまことのぶどうの木

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに手入れをなさる。」(ヨハネ15:1~2)

イエス様がぶどうの木で、それを手入れをする人が父なる神様だと言っています。ぶどう農家の方は、管理が大変です。冬の間剪定をして、草を刈ったり、肥料をやったりします。そしてぶどうの枝をワイヤーに這わせてちょうどよく実がなるようにします。話によると果物の中で、ブドウの栽培が一番難しいと言われています。特に枝の剪定作業が大変だと言っておりました。つまり、この枝はちゃんと本体につながっているだろうか、実をつける枝だろうかを見極めて、余分な枝を切り取るわけです。

良い実をつけるためにはわき目、余分な枝の剪定作業が勝負を決めると言われています。良い枝かどうかは、実を結ぶかどうかで、はっきりとわかって来ます。クリスチャンの実は何でしょうか。二つあります。「御霊の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5:22~23)とありますとおり、愛、喜び、平和、寛容です。一人一人の内面の性格、内なる性質です。そしてもう一つは、ヨハネ15:16に「あなたがたは出かけて行って実を結ぶ」とありますように、伝道による魂の救いです。キリストの弟子を作って行くことです。この人間の心の内側に結ぶ実と外側の実が、ぶどうの実なのです。

2.わたしにつながっていなさい

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:3~5)

ここに何で私たちが、ぶどうの木につながるかが書かれてあります。「わたしの話した言葉」です。聖書の言葉、福音、この説教です。教会学校の聖書の学びです。スモールグループのワードの分かち合いです。つまり真のぶどうの木であるイエス様とつながるということは、御言葉を通してつながるということです。ぶどうの木と枝を結ぶ導管の中に水分と養分が流れて、木と枝がつながっているように、わたしたちはみ言葉を通してぶどうの木から養分をいただくのです。これが「つながる」ということです。

ですから、一見つながっているように見える枝でも、このイエス様の語られる御言葉を聞いていなければ、つながっていることになりません。どこからも養分が入って行きませんから、当然実を結ぶことはありません。この15:3以下に、つながるということの三つの段階が述べられています。第一段階は、「イエス様の話した言葉によって、既に清くなっている」ということです。つまり主の御言葉を聞いて信じたということです。そのことによって皆さんは既に清くなっているのです。つまり罪が許されて、今は永遠の義の実を結ぶに至る道を歩んでいるのです。救いは既に始まっているのです。

そして現在はどうかと言いますと、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。」と言っています。つまり、現在はつながっているという現在進行形です。その際にイエス様は、「まずわたしにつながっていなさい。そうすれば私もあなたがたにつながっています。」と言っています。イエス様は、無理矢理わたしたちにみ言葉を食べさせようとはしません。まず、わたしたちが御言葉を食べることです。

残念ながら、今までバプテスマを受けて、こうして毎週説教を聞こうとして来ている人と、もう聞かなくなった人、礼拝なんか忘れてしまっている人とどちらが多いですか?そうです。後の人が多いのです。どこの教会でも、木につながっていない枝が多いのです。これはたとえ話ですが、やがてそのような実がつかない枝は切り取って焼かれてしまいます。

ですからイエス様は、ここで何度も何度も、わたしにつながっていなさいと警告しています。9回も言っています。(ここで週報【牧師室】の「成熟を目指して」にある7つの原則を説明する。)ここの最後の言葉がいいですね。成長への近道はありません。すぐには実が付きません。わたしでさえ、信仰生活50年です。50年経ってもまだまだ、未熟な者、不十分な者です。若輩者です。このままでイエス様にお会いできるだろうか、最後の審判の時に、果たして名前が呼ばれるだろうかと思うほどです。時間がかかるということは、死の間際まで、神様は忍耐をして実を結ぶのを待っているということです。

この聖書も口語訳聖書も「つながっていなさい」となっていますが、新改訳と先ほどの歌は、「留まりなさい」となっています。「つながる」という言葉よりも「留まる」という言葉の方が、あっているような気がします。途中であきらめないで、教会に留まり、礼拝の説教を毎週聞き続けるという意味合いが感じられます。ですから、今はまだよく解らなくても、知らなくても教会に留まって、御言葉を聞き続けるならば、必ず主がその人の耳を開いて下さり、御言葉なしでは生きて行くことができない枝に変えて下さるということです。そして実をつけさせてくださいます。今でも暗唱聖句を一生懸命覚えることです。毎日毎日赤ちゃんがミルクを飲むように、ひたすら聖書を読み続けることです。これが「留まる」ということです。すぐには実をつけないかもしれません。それでも、いやそれだからこそと留まり続けるのです。この期間が大事だと思います。

3.御言葉による祈りと愛の内にとどまる

ワーシップソングに、「御言葉に留まり、愛に生きるなら、この世は知るでしょう、主の救いと癒し」とありますように、御言葉に留まり続けたいものです。皆さんはすでに、キリストの言葉によって聖くされています。今は豊かな実を結ぶための途中にあります。自分で何とか必死に、実をつけようとする必要はありません。また、それはできることではありません。この御言葉に留まり続けることが実をつけるための条件です。ですから、「わたしから離れては、あなたがは何もできない」(15:5)と主は言われました。

この15:5の御言葉が、この箇所の中心の御言葉になっています。すべてのことを一言でまとめて言っています。イエス様を離れては何もできないのだと。
しかし実際は、このまことのぶどうの木であるイエス様から離れたい、離れようとする誘惑もあります。日曜日は休みたい、説教を聞いてもつまらないし、解らないからもう行くのは良そうと。教会生活なんて煩わしい、所詮人間の集まりで、かえっていやなことの方が目につくとか。献金が大変だ、奉仕が大変だという、イエス様の御言葉から離れさせる誘惑はいっぱいあります。これが5節の「わたしを離れる」ということです。

イエス様から離れた方が、何でもできそうな気がしますが、果たしてそうでしょうか。実際は何もできないのだと言っています。わずらわしい教会生活、御言葉の説教や学びを離れた方が何でもできるのではないだろうかという錯覚を持つことがありますが、実際は何にもできないのです。「わたしを離れてはあなたがは何もできないからである。」との言葉どおりです。イエス様抜きには、教会なしには、説教なしには何もできませんし、生きて行くことすらできないのです。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15:7~10)

イエス様に留まり続けるということは、まず御言葉を通してイエス様とつながり、そして御言葉を通して祈り求めて行くことです。先ほどの乳幼児の成長のための七つの原則にもありましたように、御言葉を聞いたら、次には御言葉にそって祈るということです。耳で聞いて、口で祈るというこの霊的な呼吸を通して、わたしたちは成長してゆきます。聞くことに親しんで来ると、自然に祈りの言葉も出て来ます。赤ちゃんが呼吸するように、御言葉を聞いて息を吸い込み、御言葉に沿った祈りをして吐き出すのです。

そして祈り求めたことが与えられて、少しづつ実を結んでゆきます。神様がこのような罪深い私をも愛して下さり、御独り子を与えて下さったという神様の大いなる愛の内に留まるならば、あなたがたは豊かに実を結んできますと約束しておられます。そして、この神様の愛の内にも留まるのです。ここでも留まりなさいと言っています。信仰生活は、この神様の十字架の愛の内に常に踏み留まり続けることです。

「人が友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(15:13~14)とありますように、御言葉と祈りによってイエス様につながって行く時に、わたしたちは知らず知らずのうちに、愛の実を豊かにつけることができるのではないかと思います。実際、皆さんはそのように愛の友となってくださっておられます。これからも、このまことのぶどうの木であるイエス様の内に、御言葉と祈りと愛を持って留まり続けたいと願っています。

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