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わたしたちはキリストのもの (ローマ14:15~15:2)

メッセージ
2017年6月18日富里キリスト教会

「わたしたちはキリストのもの」
(ローマ14:15~15:2)

1.教会内の対立

神様の愛の共同体である教会でも、問題や分裂や争い事が起こります。なぜ教会内で対立が起こるのか、それははっきりしています。教会に夢がないからです。みんなで、未来を見つめ続ける夢がないからです。見つめ続ける目標がないものですから、当然、教会員同士お互いに横に目が行ってしまいます。そして、そこには批判と対立、競争、裁き合いが起こって来ます。上を見ていないからです。いつも仲間を見て比較競争しているからです。そして誰が一番偉いのか、誰がリーダーかという競争の世界になってしまっているのが現状です。

パウロの時代にも、そのような問題が起こって来て教会を悩ませていました。
ローマ書14:1から読んでみましょう。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べても良いと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(14:1~3)とあります。

当時、異教の神々にささげられた肉が市場に出回っていましたので、敬虔なクリスチャンは、そういう偶像に備えられたものを口にすると言うことは、自分も偶像に与かってしまい汚れてしまうと考えていました。そして肉を食べることを断って、野菜だけを食べていたのです。いわゆる採食主義です。そういう敬虔で真面目すぎる信仰を持っている人々を、自由な知識を持っているクリスチャンが、律法的ではないかと批判していたようです。教会の中で、お互いに裁き合いが起こっていました。

パウロはここでは、お互いに裁き合ってはいけないと言っています。「他人の召使いを裁くあなたはいったい何者ですか」(14:4)そして、「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことだ。」(14:5)と戒めています。この菜食主義者も自由主義者も、お互いに神様の前にどうであるかということに目を止めるべきだと言っています。自分で心に決めたとおりにすればいいのであって、他の人を見てそれを裁いてはいけないと言っています。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(14:7~8)わたしたち一人一人は、主に愛されている一人一人です。そしてイエス様の尊い血潮によって罪赦され、キリストの所有物となりました。わたしの主人はキリストです。あなたの主人もキリストです。しかもものすごく愛されている召使です。お互いに「あなたはキリストのものです。」と隣の人に言ってみましょう。相手も同じキリストのものである人を、わたしが裁くことができるでしょうか。相手もキリストの所有物なのです。主人はキリストなのです。もしわたしたちが兄弟を裁くとすれば、それは主人であるキリストをも裁くことであり、ひいては自分自身をも裁いてしまうことなのです。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(14:8)キリストはみんなの主人なのです。そしてわたしたちは皆、この主であるキリストのために生きているのではないでしょうか。それならば、キリストの所有物である他の兄弟姉妹を、主人を愛するように愛するのが普通ではないでしょうか。そして困っていたら助ける、相手が喜んでいたら共に喜び、相手が悲しんでいたら共に悲しむのが普通ではないでしょうか。もしそうでないとしたら、その人はまだ本当にキリストのものとなっていないかもしれません。自分は、自分の所有物だと思っているかもしれませんね。

2.互いの向上に役立つことを追い求める

次にパウロは、主のために生きると言うことは具体的にはどういうことなのかを書いています。13節に「従って、もう裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきになるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」と言っています。そしてさらに19節には、「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、その他兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」(14:19~22)

つまり、教会の中では、そういう食べ物やアルコールにこだわっている人もいますので、つまずきになる市場の肉やお酒を出すと言うことは避けなさいと言っています。わざわざこれ見よがしに、教会の集会でお酒やビールやワインといったアルコールの入った飲み物を出していいでしょうか。それを見てつまずく人も中にはいるからです。そういう人のために、教会ではそういうものを目の前に置かないように気をつけなさいと言っています。

そして「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」(14:22)と言っています。横を見てみんなに倣うのではなく、神様の前に自分はこう決めたと決心しなさいと言っています。そして神様がどうしなさいと言っているのかと言うことを、第一に考えることです。皆さんは、献金はいつも自分と神様と相談して信仰を持って捧げていますね。教会は、何事もまず神の前にどうするのかと言うことを自分で主の前に決めることです。一人一人が別々です。誰が何と言おうが、わたしはこう決めたという確かな基準と確信を持つことです。横に合せないと言うことです。主の前に決断し、主の前に実行することです。この世と教会をいっしょくたにしてはいけません。

ですからわたしたちは、そういう正しい判断ができるように、まず、聖書の教え、御言葉を第一にし、神の前に出て礼拝を捧げるのです。そして何が神の御心であるのか、何が善いことか、何を神様が喜ばれるのか、何が正しいこと完全なんことであるのかということを、自分で判断しなさいとパウロは何度も言っています。何度も申しますが、内的変革です。内なる人が成長することです。いつまでも子供でいてはいけません。そういう判断が出来なければ年は取ってはいるが、いつまでもわたしたちはまだ幼子、子供の考え方です。未熟児です。

3.お互いの弱さを担い合う

更にパウロは、弱い相手を「受け入れる」だけではなく、さらに進んで相手の弱さを「担いなさい」と言っています。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」(15:1~2)と言っています。自分は神の前に立って確信をもって行動します。そしてその人は相手を受け入れたり、認めたりするだけではなく、さらに一歩進んで相手の弱さや欠点を担いなさいと言っています。つまり弱さをカバーしてあげなさいと言っています。自分を喜ばせるだけではなく、むしろ隣人を喜ばせることに心を砕きなさい、これが成熟したクリスチャンの生き方ですよと諭しています。

この15:1の「弱さを担う」という言葉は、ギリシャ語ではバスタゾウと言いますが、「担う」「運ぶ」「我慢をする」という意味があります。また2節の「互いの向上に努める」は、ギリシャ語ではオイコドメオーという建築用語です。どちらも教会にとっては大事な言葉です。他の訳では、「徳を高める」とか「建て上げる」というように訳しているものもあります。つまり建築用語ですから、お互い相向き合った壁が、相手を必要としていると言うことです。

片方の壁だけでは家は建ち上がりません。相手の壁があって、それが互いにしっかりと組み合わさることによって、建ち上がるのが神の家です。このオイコドメオーから造られた言葉で、オイコスが「家」を意味し、オイキアが「家族」を意味しています。そしてオイコメノーが「世界」を意味しています。この教会という共同体を建て上げるには、時には相手の弱さをカバーし、時には相手に対して忍耐と我慢が必要だと言うことです。

そしてこの相手の弱さを担い合い、建て上げるという行為は、ただ単に、教会員同士の人間関係だけではなく、家族関係にも関係しているし、地域や町造りにも必要です。そしてその結果として、新しい世界の完成という意味にもなるのです。ですからこの教会の中の信徒同士の関係、肉のことで互いに裁き合うとかという些細なことかも知れませんが、これが世界の平和にもつながるし、神の国の完成にも関係してくることなのです。

今日、宗教的な原理主義が世界を恐れさせています。相手の弱さを担うどころか、相手を批判し滅ぼしてしまうとしています。原理主義は食べ物のことでも、相手を批判し攻撃し服従させようとしています。そこには神のとの平和がありません。互いに受け入れ合い、互いに弱さを担い合うという、新しい平和な世界の青写真がないのです。しかしこの世界の完成図を、神は教会の姿の中に見ていたのです。教会の中に世界平和の青写真があるのです。ここに、教会が世にあって存在する意味と目的があるのではないでしょうか。

自分のため、自分の満足のためではなく、どこまでも隣人を喜ばせ、相手を建て上げるのが、真に強いクリスチャンなのだと言っています。これが真のキリスト教徒であり、真のユダヤ教徒であり、真のイスラム教徒ではないかと言っているような気がします。今も教会には、いろんな問題が起こって来ています。でもそれは神様がわたしたちに愛の訓練をして下さっているのです。それは最終的には、わたしたちが互いに神の所有物であり、お互いに一つの神の民となって主をほめたたえるための訓練なのです。(ローマ15:5~6を読む)最後に、Through It All という歌の歌詞を読んで終わりたいと思います。 

≪through it all≫
I’ve many tears and sorrows
I’ve had questions for tomorrow.
There’s been times I didn’t know right from wrong.
But in every situation,
God gave me blessed consolation,
that my trials come to only make me strong.
“Through it all,
Through it all,
I’ve learned to trust in Jesus,
I’ve learned to trust in God.
Through it all
Through it all,
I’ve learned to depend upon His Word.”(refrain)

I’ve been to lots of places,
I’ve seen a lot of faces,
there’s been times I felt so all alone,
But in my lonely hours,
Yes, those precious lonely hours,
Jesus lets me know that I was His own.
(refrain)

I thank God for the mountains,
and I thank Him for the valleys,
I thank Him for the storms He brought me through.
For if I’d never had a problem,
I wouldn’t know God could solve them,
I’d never know what faith in God could do.
(refrain)

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