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わたしたちの礼拝 (ローマ12:1~8)

メッセージ
2017年6月4日富里キリスト教会

「わたしたちの礼拝」
(ローマ12:1~8)

1.自分の体を献げる礼拝

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)「こういうわけで」といいますのは、今まで述べてきた神様の救いの御計画とその教えに示されているようにという意味です。最後にパウロは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(11:36)といいました。この壮大な神の救いの御計画と御意志の故に、あなたがたはその救いに与かっている者として、こういう生活をしなさいと勧めています。

ここでパウロはわたしたちに、自分の体をどのようにして献げるかと言うことを三つの言葉で具体的に述べています。「神に喜ばれる体です。」「聖なる体です。「生きた体です」神様に喜ばれる聖なる生きた体として献げなさいと言っています。皆さんの体はどうですか?神様に喜ばれる体ですか。自分の体を汚してはいませんか。アルコールに染まっていませんか。ギャンブル依存症になっていませんか。煙草のヤニで真っ黒になっていませんか。不倫や淫らな映画を見て、体を汚してしまっていませんか。そういう体を神様は喜ばれるでしょうか。それは生きた体ですか。神様の御用に用いられる聖い尊い器となっているでしょうか。

あるいは逆にそういう汚れや欠点を隠そうとして、自分を美しいこの世的に価値のあるもので、覆い隠そうとはしていませんか。ブランド物で着飾ったり、自分の地位や学歴を誇ったりしてはいませんでしょうか。信仰歴を誇ったり、教会の大きさを誇ったりして、他の人々を見下げていることはないでしょうか。神様は、そういうわたしたちのうわべを見てはおられません。わたしたちの心の中を見ているのです。自分の心の中を真実に神様の前に、また兄弟姉妹の前に明らかにして礼拝を献げていますか。

神様の喜ばれる最高のいけにえは何でしょうか。サムエル記上15:22にこうあります。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記上15:22)
とあります。主に喜ばれるいけにえ、神様の御心にかなった最高供え物は、自分の罪を認め、主の前に罪を悔い改めて立ち帰ることではないでしょうか。その罪を一方的に赦して下さったのが、神の義であり神の恵みの救いではなかったでしょうか。そのためにもまず、自分の体を主の前に持って行かなければなりません。心が大事だから気持ちだけというのではありません。行いと行動を持って表すことが大事です。

日々の生活でも、祈りの部屋に行くよりは、このまま面白いテレビ番組を見ていたい、眠くなってきた、このまま寝てしまおうという肉のほうの思いが強くなってきます。主日の礼拝でも、日々の静聴の時でも、サタンが働いて礼拝に行きたくない、忙しくて祈る時間がないという気持ちを起こさせます。肉と霊が戦っているのです。古い罪の性質と新しい霊の性質が戦っているのです。「拡大する人生」で学びました。さて、そういう場合にはどうしたらいいでしょうか。ミラクル・ワードがあると何度も言いましたが、覚えているでしょうか。それは「主に感謝します」(ローマ7:25)と「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という御言葉です。そしてこれを口に出す、心に念じる時に力が出て来ます。毎日毎日、一瞬一瞬口にするのです。

2.内なる変革

さて次に体を持って主を礼拝しても、大事なことはわたしたちの心が日々に新しくされてゆかなければ意味がありません。ともすると、奉仕のために礼拝に出席している、親友が来るから礼拝に行く、食事があるから、義務だからという思いで礼拝に来られている方もあるのではないでしょうか。主は、わたしたちの心の中を見られます。うわべだけの形式的な礼拝を喜ばれるでしょうか。

あのサマリヤの女が、イエス様に水を飲ませようとして会話をしてゆくうちに、自分の本音を打ち明けてしまいました。今まで5人の男性と関係を持ち、それでもまだ満たされずに6人目の男性と同棲をしていると。でも彼女の心はまことの神を求め、真実を求めていましたので、自分の思いをすべて主に打ち明けて罪を告白しました。そしてその罪の赦しを得る真の水を、主から受けることができたのです。

その時に、イエス様はこう言いました。「神は霊であるから、神を礼拝するものも霊と真を持って礼拝をしなければならない。」(ヨハネ4:24)そうですイエス様は、わたしたちが体だけではなく、心底からの真実を持って礼拝するものを求めておられるのです。そして真実の礼拝者は、このサマリヤの女のように、心から自分の罪の赦しと命の御言葉を求めて来る者のことです。そういう真実な礼拝者をイエス様ご自身が求めておられるのです。

主が、わたしのために今も、血を流して罪を赦し、贖い続けていて下さるのです。この心の内側の霊の部分での交わりが礼拝です。そしてこの一点において、わたしたちはクリスチャンなのです。ですから、パウロはわたしたち礼拝者にとって、最も大事なこととして次のように言っています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12:2)と。

ここに「この世に倣ってはいけません」とあります。そして「心を新たにすることによって自分を変えていただきなさい」とあります。この世に「倣う」の方のギリシャ語は「スケーマ」といい、英語では「conform」と言います。またもう一つの、自分を「変える」という意味のギリシャ語は「モルフェー」といい、英語では「transform」となっています。英語でも日本語でも世に倣うと言うことは、世と妥協することです。conformという字が示す通り、co=共に、form=形とありますように、形を合わせるという意味になります。この世のあり方に形を合わせることを妥協といいます。口語訳聖書では、「この世と妥協してはならない」と訳しています。

じゃあ、どうしたらいいのかと言いますと、パウロはこう言っております。「心を新たにすることによって、自分を変えていただきなさい。そして何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12:2)つまり自分の内側を変えていただきなさいと言っています。心を新たにしなさいと言うことです。先ほども言いましたが、ギリシャ語では「モルフェー」、英語では「transform」です。おなじformがついていても、倣うはco=「共に合わせる」ですが、こちらのformは、transですから、「超える」という意味があります。この世界を超えて行くことです。毎週の礼拝はこの日常世界から抜け出して来て、神の前に一対一で相向き合うと言うことです。この戦いが礼拝に出ると言うことです。この世から脱出して、荒野にいて神に出会って礼拝を捧げるという、あの出エジプトの出来事です。そのような戦いが毎週あると言っても過言ではありません。

これがtransform=造り変えられると言うことです。ギリシャ語の「モルフェー」という言葉から、metamorphosis(=メタモルフォーシス)という生物学用語が生まれました。それは「変態」という生物の生まれ変わりを表す言葉です。つまり、さなぎからきれいな蝶が出て来ることを変態といいます、ヤゴからトンボになったり、セミの幼虫の中からセミが出て来るという生物学用語です。

つまり新しく生まれ変わる、しかも外側をまねるのではなく、内側から新しく造り変えられると言うことです。言い変えますと、イエス様の前に自分の心の中の隠された罪を告白して、悔い改めることです。この悔い改めの連続によって、わたしたちの体も肉の体から霊の体に変えられてゆくのです。外形は同じですが、内なる人は日毎に新しくされてゆくのです。これがあなたがたのなすべき礼拝ですとパウロは言っています。この罪の悔い改め、主イエスの流された赦しの血潮、これが礼拝の中心であり、今までローマ書が教えて来た神の義であるイエス・キリストの十字架が中心なのです。それにふさわしい礼拝を捧げなさいと勧めています。

そして何が神様の御心であるか、また何が善いことか、何が神様に一番喜ばれるのか、また何が完全なことなのかの判断ができるようになることです。それが、この世と妥協しないわたしたちの生き方に変えられてゆくことではないかと思います。そしてわたしたちは互いに自分の罪や弱さを告白し合いつつ、心からへりくだった心で、お互いを自分よりも優れた者として尊敬し合い、共に一つの体となって礼拝を捧げて行きたいと願っています。

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