わたしが背負い、救い出す (イザヤ46:1~4)
メッセージ
2017年11月19日富里キリスト教会
「わたしが背負い、救い出す」
(イザヤ46:1~4)
1.担がれる偶像の神
46章の最初から読んでみましょう。
「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く。」(イザヤ46:1~2)
このベルとネボという偶像の神は、バビロニアの神々で、ベル(=バアル)が主神です。その子どもがネボで、ネボは、文学と科学をつかさどる神様だと言われています。そして日本でもそうですが、中東では、この像を担いで、戦場に赴き、この神を立てて敵に向かうわけです。戦争に勝てば、この偶像の神を先頭にして意気揚々と帰って来ますが、負けますとこの神の像を担いで逃げ帰って来るわけです。「お前たちの像は重荷となって、疲れた動物に負わされて来る」と言う、神の裁きをイザヤは預言しました。
偶像というのは、人間が担ぎ出して来るものです。例えば、ここの七栄神社の御神輿もそうです。地元の子供たちが、神様を担いで錬りまわるお祭りがあります。これも神を担ぎまわると言うことで、日本中至るところで行っています。あるいはまた、先日の希望の党のように、都知事の小池さんを担ぎ出して、その人気にあやかって選挙をする。これも偶像を担ぎ出すと言うことです。そして、負けますと、すぐに引っ込んでしまうわけです。つまり偶像と言いますのは、物であれ、人間であれ、名前であれ、人間が自分たちの都合によって勝手に造り出して、自由に用いることのできる都合の良い神様を偶像と言います。人間に都合のいい神様です。
イザヤ書の44:15以下に、偶像なる神の本質が書かれています。「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像にしたたてそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、『ああ、暖かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救い下さい、あなたはわたしの神』と。」(44:15~16)
どうですか。これが一般のこの世の神様です。偶像の実態です。ではなぜそんな木や鉄や石と言った物を、人間は伏し拝んでいるのでしょうか。それはこの木や石や人間と言った被造物を使って、サタンや悪霊が人間を支配して自分に仕えさせているからです。偶像に住みついている悪霊の働きです。
神様は決して、人間に担がれる神ではないのです。足がないのではないのです。動けないから、手を貸してやらなければならない神様ではないのです。そうではなく、神は御自分で歩くことも動くことも走ることもできるお方です。ですから今日の御言葉にありますように、神様の方がわたし達を担いでくださるお方なのです。神様がわたし達を背負い、担って下さるお方なのです。わたし達が神様を担ぎ出すというのではありません。そういう神は偶像の神です。生ける真の神をそのように扱わないよう、くれぐれも気をつけなければなりません。
皆さん覚えているでしょうか。十戒の入った神の箱をエルサレムへ運ぶ時に、神の箱を乗せていた牛が、よろめいて荷台が傾きました。そして荷台に乗せて運んでいた、箱が荷台からずれ落ちそうになった時、どうしたでしょうか。お供をしていたウザという従者が、気をきかして手を伸ばしてその箱を押さてあげました。当然です。誰でも落ちないようにそのようにするでしょう。すると、手を伸ばして落ちるのを止めたウザに対して、神の怒りが燃えました。その場で、ウザは打ち砕かれて死んでしまいました。(サムエル記下6:6~7)
人間が神の意志に逆らって、手を出すことを神は嫌われます。たとえ善意からであっても、正しく見えたとしてもです。人間は、神御自身の意志と行動を、人間の感情や思いで妨げてはいけないのです。神の箱が地面に落ちると言うことも、神の意志なのです。神様は、それ以上進む意志はなかったのです。ですから牛の足をよろめかせたのです。神のストップでした。それに人間が手を伸ばして、人間の意志のとおりにしようとすることを、神は嫌われたのです。神は、そういう人を打ち殺すことさえためらいませんでした。すべての出来事は、神の手の中にあるのです。そして神が全てのことを実行されるのです。わたし達の偶像礼拝に対する警告です。
2.残りの者を救われる神
次に、神様はイスラエルの民の残りの者を救われるお方だと言うことを見てみましょう。3節に「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。」(イザヤ46:3)とあります。あの神の民イスラエルは、捕虜として国を失い、遥かバビロンの地まで流されてきました。もはや神の国を再興する望みは断たれ、異教の地で生涯を送り、自分たちの骨を埋めなければなりませんでした。異教の民は、イスラエルの人々を嘲笑って、「お前たちの神はどうしたのか、自分たちを救う力がないのか。」と言いました。このような亡国の民、離散の民ほど憐れなものはありません。
自分たちの故郷を失い、文化も習慣も失った人々です。どんなにか辛かったと思います。そういう人々をイザヤは、「残りの者よ」と呼びかけています。あなたは残りものですと言われたらどうでしょうか?どんな気持ちがしますか。また「そこにある残りものでも食べていて。」と言われたらどうでしょうか。もし、教会の中で、「あなたは残りものです。」と言われたらどんな気持ちがするでしょうか。残り者という言葉の意味は、「余り者」「役に立たないので最後まで残されていた者」という意味があります。なぜ残っているのか。それは役に立たないからです。どうでもいいからです。余分な人、いてもいなくても言い人という意味が入っているのではないでしょうか。
神様は中心的な人だけではなく、周りの人、重要でないと思われている人に目を止められておられるのです。失敗した人、挫折した人、欠点を持っている人、劣っていると思っている人こそ、神の目から見て宝物なのです。神の目から見て、外されている人という人はいません。前回学びました「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という神様のこの言葉は、そのように挫折し、失敗し、見捨てられたと思っている人に向けられているのです。神の目から見て、一人一人が、あなたは愛されている、あなたは必要とされている、あなたは大事にされているのだという思いを込めたのが、この「残りの者」なのです。
3.生まれた時から老いるまで担い、背負う
では、どのように神様は、わたしたちを愛しているのか。それが次の言葉です。
「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたし達はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:3~4)
ここでははっきりと、「生まれた時から白髪になる時まで」と記されています。今日は子供祝福式がありました。一番小さい時から、神様はわたしたちをしっかりと担い負って来られたと言うことです。お母さんが抱っこするよりも早く、神様が赤ちゃんを抱っこしていて下さるのです。そしてだんだん大人になって、自分の力で歩けるようになります。年を経て自我が芽生え、自力で何でもするようになり、時には神様なんかの手はいらないという時もあるでしょう。
仕事や子育てで必死になる時もあるでしょう。でもそのような時でも神様はわたし達のすべてを担っていて下さるのです。人生の大きな重荷や、苦労、暗闇やどん底を通らなければなない時もあるでしょう。そして年を経て、頭に白いものが混じり、視力がなくなり、体力も知力も衰えて来ます。人の手を借りなければ歩けないようになるでしょう。老後への不安や心配を抱えることもあります。年金だけでやって行けるだろうか。病気で寝込んでしまわないだろうか。そういう自分を見る時、いろんな不安や恐れに襲われます。
神様はこう言っております。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)今まで一人住まいのクリスチャンが、最後に困ったとか、行き詰まったという話を聞いたことがありません。また、わたしの牧会してきた四つの教会の中でもありません。神様はわたしたちをちゃんと最後まで、白髪になるまで、息を引き取るまでちゃんと面倒見て下さいます。
現代訳ではこの46:4をこう訳しています。「これからも、わたしはずっとあなたがたの世話をし、面倒を見続ける。」と。「わたしが担い、背負い、救い出す」とあります。これは年をいても主がしっかりとすべての面で支えて下さり、わたしたちの思い荷を負い、わたしたちをどこへでも持ち運んで連れて行って下さる、そして最後は、天国へ連れて行って下さると言うことです。「救い出す」と言うことはそういうことです。
このイザヤ書46章の中に「わたし」という神様を指す言葉が、何回でてきているでしょうか?全部で16回です。「わたしに聞け」「わたしが背負う」「わたしが造った」「わたしが担い、背負い、救い出す」「わたしは神だ」「わたしのようなものはいない」「わたしの計画は成る」「わたしが実行する」「わたしが必ず実現させる」「わたしの恵みの業」「わたしは成し遂げる」「わたしは救いをもたらす」「わたしは輝きを与える」と。
歴史は神様の独り舞台なのです。そしてわたしの人生も命も寿命も、すべては神様の御手の中にあるのです。わたし達が神を担ぐのではなく、神様がわたし達を担いでくださる、最後まで背負って持ち運んで下さるのです。幸いにも、わたし達は年を経るに従って、段々体力も衰えて来ます。自分では何もできなくなるかもしれません。でも、その時こそ、神様の力、神様の御手が今まで以上に、強く働いて下さるのではないでしょうか。なぜなら、自分が弱くなればなるほど、神様が強くはたくからです。弱い時こそ、神の力と御手が今までより一層強く働いて下さるのでないでしょうか。
安心して老後を迎えましょう。聖霊様の助けと導きに委ねて。わたしの力ではなく、神様の力が働かれるように。10節に「わたしの計画は必ず成り、わたしの望むことはすべて実行する。」とあります。神様が成し遂げて下さいます。神様が最後まで面倒見て下さるのです。白髪になるまで、責任をもってわたしたちを背負って持ち運び、担い、救い出して下さるお方を信じて、共に歩んで行きたいと願っています。