ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか (マタイ27:45~56)

メッセージ
2017年4月9日富里キリスト教会

「わが神、なぜわたしを
お見捨てになったのですか」
(マタイ27:45~56)

1.なぜわたしをお見捨てになったのですか

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』という者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけて、イエスに飲ませようとした。他の人々は、『待て、エリヤが救いに来るかどうか、見ていよう』と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(マタイ27:45~50)

イエス様は今まで、御国の福音を宣べ伝えて来ました。いろんな迫害や弟子達の弱さ、不信仰、裏切りに遭いながらも、黙々と忍耐を持って歩んでこられました。愛する弟子の一人であるユダに裏切られ、逮捕されても、神の子羊として黙して十字架へと歩んでこられました。それは、やはりどんなん時にも、天のお父様がついていると言う確信があったからではないでしょうか。常に、御子は御父と一緒でした。しかし、この十字架の上では、もはやご自分が一番頼ってきたお父様からも見放され、見捨てられようとしているのです。

はたから見るならば、仲間に裏切られ、弟子に逃げ出され、神からも周囲からも見捨てられ、完全にその計画も失敗し挫折し、今まで言って来たことがみな嘘偽りのように見えたかもしれません。最後の最後には、神の子としての威厳もなく、大声を上げて叫んで息を引き取って行く惨めな人間にしかすぎませんでした。でもキリストは決してそうではなく、最後の最後まで御意志をしっかりと持って、御自分に託された使命を最後の最後までまっとうされたのです。たとえ神からも見捨てられ、父から引き離されたとしても、それが自分がこの世に来たことの大切な使命であり、目的であると言うことを知っていました。

イエスが見捨てられたのは、わたしたちが救われるためだったのです。イエスが叫ばれたのは、わたしたちが平安を得るためだったのです。イエスが痛みを受けたのはわたしたちがいやされるためだったのです。イエスが恥を受けたのはわたしたちが、慰めを受けるためだったのです。わたしたちが受けるべき一切の恥も汚れも責めもそしりも、主イエス・キリストが身代わりに受けて下さったのです。それはわたしたちの罪がすべて赦されるためだったのです。

人は誰でも最後は死を迎えます。みんなできれば苦しまずに死にたいと言います。病気や事故で、苦しみながら死ぬのだけは嫌だと言います。人は必ず死を迎えますし、その時には、誰でも死に直面して苦しみ、孤独、恐れ、不安などの感情に襲われると思います。でもイエス様が、この死に際の苦しみをすべて身代わりに受けて下さいました。ですからわたしは、信徒の方々の最期を耳にしますが、今までクリスチャンが苦しみながら死んでいったという話を聞いたことがありません。医者が不思議に思うほど、がんを患っていても他の病の中にあって、みな平安に穏やかに最後を迎えます。それはやはり、イエス様がこの死に際の苦しみを、代わりに受けて下さったからではないでしょうか。

2.十字架の力

このイエス・キリストの贖いの死によって、その時に何が起こったかを聖書は更に詳しく記しています。四つあります。一つは、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたことです。二つ目は、墓が開いて死人が生き返ったことです。三つ目は、百人隊長が、信仰を告白したことです。そして四つ目は、女たちが遠くから見守っていたと言うことです。主の十字架が引き起こした大きな奇跡であり、神の力がそこに記されています。

A.神殿の幕が真っ二つに裂けた

この神殿の幕は、聖所と至聖所を隔てているぶ厚い垂れ幕です。年に一回だけ、大祭司がこの膜を隔てて神のおられる至聖所に入って行くことができました。この垂れ幕の向こうに神様がおられ、聖別された祭司以外は、入ることは赦されませんでした。しかし十字架によって、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたと言うことは、祭司制と神殿礼拝に対する裁きでもあり最後を意味していました。なぜならイエス・キリストの十字架の贖いの苦しみと死によって、もはや一切の儀式が無力化したのです。ヘブライ10:19にこうあります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いて下さったのです。」(ヘブライ10:19~20)と。

イエスの十字架の死によって新しい救いの道、神様に会うことのできる道が開かれたのです。この道を通って初めて、わたしたちは罪赦された者として大手を振って神様の前に出ることができるのです。神御自身が備えて下さった道です。救いの入り口です。まさに上から、天の御父のみ元から、わたしたちのこの罪の世界にまっすぐに上から降って来た道です。それが上から下までと言うことです。下から上に裂けたのではないのです。人間の努力ではなく、ただ神の憐みによって開かれた唯一の道なのです。これが神殿の幕が上から下まで一直線に真っ直ぐに裂けたと言うことです。

これ以降は、神と人間を隔てている従来の古い律法のしきたりや人間の善行や良い行いを積めば赦されるというのではなく、ただ主の十字架の前に、自分の罪を告白する者は誰でも救われて、神のもとに行くことができるという新しい道なのです。どんな人間でも異邦人でも罪人でも、誰でも自分の罪を認めて悔い改めるならば、十字架への信仰によって自由に聖なる神のもとに入って行くことができるという新しい時代が始まったことを示しています。

B.墓が開いて死人が生き返った

次に起こったことは墓が開けて、死人が生き返りました。「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現われた。」(マタイ27:51~53)

神殿の幕が引き裂かれたのは、神と人間との隔ての幕が取り除かれたと言うことを意味しているように、この死人の復活は、生と死の隔ての墓石が取り除かれたということを意味しています。確かにこの時、大きな地震が起こりました。当時の墓は洞窟に穴をあけた横穴式のお墓でしたので、地震によって墓のふたの石が転がってしまったと言うことが考えられます。そしてそのことは人間の死と生を隔てていた墓石が取り除かれたと言うことです。真っ暗な死の墓場に、光が射し込んだのです。

わたしたちはこの三日後の主の復活の出来事によって、死人の甦りという希望を見ることができますが、すでに主イエスの十字架は人間の死に勝利していたことを宣言しています。神殿の幕が裂けたと言うことは、神と人間を隔てている人間の罪が取り除かれたことを意味し、同じように墓が開かれたと言うことは、十字架は人間の運命である死にも勝利したことを意味しています。罪の結果が死ですから(ローマ5:12)、その罪に勝利された十字架は、人間に定められていた死という運命にも勝利したと言うことです。

そしてこの死人が生き返ったと言うことは、三日後の主イエスの復活を予兆していますし、クリスチャンがやがて、主の再臨に際して栄光の霊の体に甦って、永遠の都に入るということも意味しています。ですから、この時生き返った聖徒たちは、三日後に起こる主の御復活の時に、墓から出てきてエルサレム町に入り、多くの人々の目の前に現われたのです。主の十字架は、やがて起こるわたしたちクリスチャンの復活と永遠の神の都への凱旋を表しているのです。

復活は十字架に基づいているのです。主の十字架の贖いの死があったからこそ、その後に続く復活の光が見えてくるのです。十字架無しの復活は意味がありません。復活の主はわざわざご自分の手のひらの傷を見せ、わき腹の傷跡を見せました。主の十字架こそ、この世の罪と死に対する完全な勝利を証明しているのです。

C.異邦人の信仰告白

次に、ローマ兵の百人隊長の信仰告白が起こりました。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった。』と言った。」(27:54)とあります。
百卒長はイタリア人です。神の救いからはもっともっとく離れた異邦人です。しかもイエスを直接手にかけた罪人の最たるものです。その彼と、周りにいて見張りをしていたローマ兵たちが、「この人は神の子だった。」と言ったのです。

キリストを実際に手にかけた人間、しかもイスラエルの支配者です。この神から最も遠くかけ離れていた人間が、最も近い者とされたのです。これは何を意味しているでしょうか。つまりこれは律法の終わりを告げています。律法によれば、異邦人は神から離された者、滅びに向かっている者、汚れた者として見られて来ました。その彼らが、十字架の後で世界で一番最初に信仰告白をしたのです。

そしてこのイエスの十字架の死という出来事は、この一人の異邦人のローマの兵士にとっては、新しい人生の出発点ともなったのです。まさにイエス・キリストは律法の終わりともなられ、同時に律法の完成ともなられたのです。ですから、主は十字架の上で最後に、「テテレスタイ」ギリシャ語で「成し遂げられた」「完了した」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取られたのです。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:15~16)

神と人間を隔てているものが取り除かれ、人間の生と死を隔てているものが取り除かれ、そして三番目に、選民と異邦人とを隔てている律法の壁が取り除かれました。民族や国家という壁が取り外されたのです。誰でも自分の罪を認めて、主の前に立つならばその罪が赦されて神の民、すなわち霊のイスラエルになると言う、新しい世界、新しい時代がここに実現したのです。人種、民族、国を超えて、キリストを信じる信仰によってわたしたちは同じ一つの神の民であり、霊のイスラエルなのです

D.十字架の証人となった女性たち

最後になりますが、この十字架の様子を遠くから見守っていた女性たちがいました。「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、 マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(27:55~56)とあります。イエス様の最後を見届けたのは、残念ながら女性たちでした。他の弟子達はヨハネを除いて誰もいませんでした。みな恐れをなして逃げて行ってしまいました。

マタイではマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子すなわちヤコブとヨハネの母サロメが遠くから見守っていました。他にもまだ数名の女性たちもいました。彼女たちは何もできません。イエスをかばうこともお世話することもできずに、ただ泣きながら最後の瞬間を見届けるだけでした。
女性たちが最後に、主の十字架のそばまで行くことができたのは、男と違って大きな力がなかったからです。何もできない弱い存在でした。彼らは唯そばにたたずむことしかできませんでした。

でもどんなにかイエスにとっては、彼女たちの存在が励ましになったことでしょう。何もできなくてもそばにいてくれるだけでいいのです。遠くから見守っていてくれるだけでいいのです。彼女たちは数にも入らない存在でした。聖書では実際に女性の数は数えられていません。でも今や、そういう最も小さい者、数にも入らない者が、主イエスのそぐそばにいたのです。最後の目撃者になりました。そして死体を十字架から取り下ろして、埋葬するところまで執り行いました。男の弟子達は誰もいません。ただ幸いなことに、密かに信じていた有力な議員たちが墓を購入してくれて、イエスの遺体を墓に納めることができました。

このようにイエスの十字架は、社会で最も弱い者を強くします。数にも入らない者を聖書に残します。弱い者に勇気と力を与えてくれます。神と人間との隔たりが取り除かれ、生と死の隔たりがのぞかれ、律法の隔たりという民族間の隔たりが取り除かれ、今や人間的な能力や弱さや欠点や障害と言った隔たりが取り除かれました。弱い者が力を得、小さな者が大きな力を得て強くなるのです。それは人間の能力や力ではなく、ただ神の憐れみと恵みによって強くしていただけるのです。そういう時代になったと言うことを意味しています。

このようにしてイエス・キリストの十字架の贖いとその死は、神と人間の隔たりを取り除き、生と死の隔ての石を取り除き、律法の束縛を解放し、社会的な差別をも根底から造りかえたのです。そして伝道と証しする力を、人々に与えました。「十字架の言葉は、滅んでいくものには愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)と言ったパウロの言葉の通りに、主の十字架こそわたしたちの立つべき場所なのです。この主の十字架のもとに行きましょう。そしてこの主の十字架を誇りましょう。罪と死と悪魔に勝利して下さった、十字架の言葉を宣べ伝えましょう。 

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional