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なんという空しさ (コヘレト1:1~18)

メッセージ
2020/10/04
富里キリスト教会礼拝説教
「なんという空しさ」
(コヘレトの言葉1:1〜18)

①コヘレトとは誰か
今まで私たちは、出エジプト記を通して神による救いと解放のみわざを共にみていまいりました。このみわざはイスラエルの救いだけはなく、人類そのものの救い、イエス・キリストの十字架のあがないのみわざが至るところに散りばめられており、私たちは神さまの救いの計画の計り知れないスケールの大きさを改めて味わう恵みを受けてきました。
今日からは出エジプト記は一旦終わりまして、新しい書へと入っていきます。その書の名前は「コヘレトの言葉」です。みなさん、この書についてはよくご存知でしょうか?この書が好きだという方はおられますか?この書は、とても趣があり深く哲学的な問いがなされています。色々と考えさせられる書です。しかし、以前牧師室便りでも書きましたが、私は元来あまり物事を深く考えないところがありまして、そんな私にとってはこのコヘレトの言葉は深みのある書であるとともに、とても難しい印象があります。今回を機にこの書ともっと親しくなりたいものです。どうか、聖霊が臨み、豊かに語ってくださいと願うばかりです。
コヘレトという言葉は「集める」という動詞コーヘレスの名詞形で集会を招集、開催、演説することを表すといわれています。ですので、この書は「伝道者の書」「伝道の書」などと訳している聖書もあります。また、この言葉の女性形は知恵を指すとも、職務を指すとも言われており、コヘレトは女性形です。こういったことから会衆を招集し祝福し祈ったソロモンの役割を思わせるところがあります。
実際、伝統的にコヘレトの言葉は宗教改革まではソロモンの作とされてきました。1:1のダビデの子という表題、1:12のイスラエル王であったことへの言及、また1:16にある知恵者であること、そして2:4−11に記されている大事業、こういった点が非常にソロモンと重なるからです。しかし、宗教改革以降は捕囚帰還時代より後に書かれたものであるという説が多数派になっています。根拠はソロモンの名が記されていないことや、この書では王政への批判などがされていますがそれは時代に合わないといったことなどが挙げられています。結局は作者が誰かはわからない。それゆえ、新共同訳ではコヘレトという言葉をそのまま固有名詞として用い、「コヘレトの言葉」としております。
確かにこの書はソロモンによって書かれたという明記はされていません。しかし、ダビデの子で、エルサレムでイスラエルの王であり、知恵、富、事業において比類のないものといえばソロモンを指す以外にないこともまた事実といえるでしょう。ですから彼の名が記されていなくても、内容からソロモンを示していると考えるのもまた、自然であるとも言えると思います。少なくとも1、2章の記述はソロモンの人生を彷彿とさせるものがあります。
栄華を極めたソロモンが「なんという空しさ」とため息をつくように語るということに非常に重い説得力と意味深さを感じるわけです。今日は特に、ここではソロモンが語っているんじゃないかな、そう思いながら共にみていきたいと思います。

②人生のテーマ「空しさ」
1:2
「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべてはむなしい」

いきなり空しいの連呼からこの書は始まります。空の空とも訳されており、この訳の方が有名かもしれません。空の空とはヘブル語の最上級を表す表現で「完全にむなしいこと、全く空しいこと。」を意味します。本来は「息」という意味ですぐに消えてしまう移ろいやすいものを表しています。また、偶像を表す時にも使われています。神から離れた人間存在はまことに空しく、満たされることがありません。
しかし、この空しさの連呼は単純に愚痴をこぼしているようにも見えません。これは人生の意味、生きることの意味への問いかけのように思います。人の人生は儚く、脆く、空しい。なのになぜ人は生きるのだろうか。そういった深い哲学的なテーマの問いかけがこのコヘレトの言葉なのです。人生の空しさ、この世を神を信頼して生きる信仰の実践、この2つの主題がコヘレトの言葉ではこのあと積極的に展開していきます。
いわゆる真理の探究です。人生の意味とはどこにあるのか。永遠のテーマです。昔から人間はずっとこの問いかけをし続けています。その答えの鍵が必ずどこかにあると。自力で、自分で見つけようとしています。ここから哲学、文学、芸術、宗教などが生まれました。しかし、そこにまことの生ける神がいなければその答えは決して見つからず、そこには空しさが残ることでしょう。神のみがその真理の鍵を持っておられるのです。
この書の著者であるコヘレトは、まずあるものを見て空しさを覚えました。それは太陽、風、川、つまり自然です。陽は昇り、沈む。風は北へ南へ巡り続けていく。自然のメカニズムは狂うことなく毎日同じことが繰り返されていきます。そこには変化はなく、永遠と続いていきます。同じことの繰り返し。自然は黙々と作業を繰り返し、しかし、それによって地上は潤い、保たれていきます。それに対して人は、なんと儚く、あっという間に消えてしまうことか。太陽の下で行う人生をかけた労苦に何の意味があるのだろうか。太陽の下という意味は、地上、人の世界ということです。天上の神を外した神なき地上の世界です。そのような価値観での労苦で得られるものは一体なにか。賞賛か、富か、快楽か、はたまた目標を達成することへの自己満足、自己実現か。しかし、それも死ねば全てなくなる。一代過ぎれば終わってしまう。なんと空しいことか。
また、コヘレトは時間というものを思った時に空しさを覚えます。時の移り変わりというものもまた同じことの繰り返し。時代は繰り返すとはよくいったものです。人間の出来事や知恵は行ったり来たり。私の理論は誰も見いだせなかった新しい大発見だ。そう叫んでも、しょせんそれも忘れられていた誰かの再発見に過ぎない。だれも誇ることなどできないのだ。そもそも本来、この世のことわりはすべて神のロジックです。人の知恵はその神のロジックを明かしているにすぎません。にもかかわらずはしゃぐ姿はまことに空しいものです。
そして、それは裏を返せばすべての事柄はいつかは必ず忘れられるということです。人間にとって、忘れられるということほど空しく、悲しいことはないでしょう。どんな出来事も、発見も、業績もいずれ全て忘れられる。なんという空しさ。すべては空しい。

③ソロモンの栄華と失敗
このように全てが空しいと言い切るコヘレト。そこに至るまでに多くの経験を重ね、知恵を求め続けたゆえの彼なりの達観だったかもしれません。イスラエルの王として、全てを知ろうと知恵を求め続け、その知恵はだれよりもまさって、深く大いなるものとなりました。そして太陽の下に起こることを全て見極めたといいます。2章に書かれていますが彼は大規模な事業を起こし、誰よりも栄えたとあります。偉大な王だったようです。王として人生を駆け抜けた。世界に名だたる知恵者となり国は栄えた。しかし、むなしい。そう振り返る晩年の王の姿には、やはりソロモン王の姿が重なります。少しソロモンの人生を振り返りましょう。
ソロモンはダビデ王の後を継ぎ、王となりました。有名な話ですが、その際神様はいけにえをささげる忠実な若きソロモンに夢を通して「何事でも願うが良い。あなたに与えよう。」と語られました。その言葉に対しソロモンはこのように答えました。

列王記上3:9
「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

ソロモンは富や権力、長寿など自分の益ではなく、王としての責任をしっかりと公正に果たすために善悪を聞き分ける心、知恵を求めたのです。この願いは神を愛し隣人を愛するゆえのみこころにかなった願いでした。そして、神様はこのソロモンの願いを喜び、知恵に満ちた賢明な心だけでなく富と栄光も与えると約束されたのです。
この後ソロモンは、神様が約束されたとおり類を見ないほどの知恵者となり、民を公正に裁いていきます。そして、このソロモンの統治の時代に立派な神殿が建てられ、貿易によって国は豊かに潤い、イスラエル史上もっとも繁栄する時代が築き上げられていきました。そして、そのソロモンの知恵と富は世界の中でももっとも大いなるものと評判となり、世界中から彼に会うために他国の王様がくるほどのものとなりました。

列王記上10:23−24
「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。」

まさに太陽の下に起こることは全て見極めた。天下の全てを見て、治めた。手に入るものは全て手に入れた偉大な王ソロモン。全てが満たされて、不満などないはずです。しかし、彼はその人生を振り返り、空しいとため息をつきます。
いったいなぜか。それは、その繁栄の中、ソロモンはとんでもない過ちを犯してしまったからでしょう。ソロモンは国をもっと豊かにするために他国の王族の娘と結婚をしたのです。いわゆる政略結婚です。
神様は当時、イスラエルの民に外国の女性と結婚してはならないとしていました。それは、その女性が心を迷わせ、まことの神である主から、他の神々へと目移りさせてしまう危険があるからでした。そして、ソロモンは、案の定彼女たちのとりことなり、たくさんの異教の神々の偶像を建て、偶像礼拝をするようになってしまいました。その神への反逆、裏切りの報いとして、神様はソロモンの死後、王国を二つに裂くことをソロモンに伝えます。そして実際あれほど栄華を誇っていたイスラエルは、ソロモンの死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれることとなります。ソロモンが人生をかけ、一代で築いたものはすべて消えて無くなってしまうのです。まさしく人生の空しさです。
最初は、神の御心を求めていたのに、いつの間にか富に目がくらみ、異国の妻に心迷わせられ神から離れてしまった。今更ながらその愚かさにソロモンは気付いたのでしょう。「神がいない中でこの富にいったい何の意味があるのだろうか?いずれすべてはなくなる。私はいったい何を追い求めていたのだろうか?私が求めていた知恵は、もはや狂気で愚かなものに過ぎなかった。何という空しさ。ああ、すべては空しい。」
私にはそのようにため息をつくソロモンの姿が浮かんできます。心の中心に神がいなければ、どれだけ物に満たされても心の穴は満たされないのです。

④人の人生の儚さ、空しさー豊臣秀吉
このように栄華を極めたソロモン王の晩年は、非常に心に空しさを覚えるものでした。私はとても歴史好きなのですがこのソロモン王の姿にあの豊臣秀吉の姿がどこか重なるなぁと感じます。武士の出身ではなく百姓のせがれとして生まれ育ちながらも織田信長に引き立てられ、己のバイタリティーと人たらしと言われる明るさ、優しさによって立身出世していき最後は天下を統一するにまで至ります。アメリカン・ドリームならぬジャパニーズドリームと言いましょうか秀吉の人生には確かに人をわくわくさせる夢があります。
信長に仕え始めた当初、秀吉は何も持っていません。富も、生え抜きの家来も、土地も力も、血統という家柄もありませんでした。しかし、おかげでプライドはゼロです。持たざるものの強さがそこにはありました。誰に対しても明るく優しい秀吉に自然と人が集まってきます。稀代の人たらしと言われる青年期の秀吉には人を惹きつける何ともいえない魅力があったようです。
また、秀吉は生まれが武士ではないこともあり、無用な殺生を嫌い「人を斬るのが嫌い」といった言葉まで残しています。もちろん戦国の世の常ですから戦もしますし、人を斬ることもありましたが戦わなくてもすむなら、彼は外交によって物事を解決していくことを好みました。そして寛容とも言える態度で多くの大名の命を助け、これによって秀吉は短期間で天下統一を成し遂げました。戦のない世をつくりあげたのです。もしかしたら秀吉も最初は野望だけでなく平和な世を作りたいと思っていたかもしれません。
ところが、皮肉にも彼は天下を統一したことによって持たざる者から日本一の富と権力を持つ者になってしまいました。一度手に握ってしまったものは手放したくない。何もかも奪われたくない。そういう思いが秀吉を狂わせていきます。自分の地位を揺るがす恐れのある者や、都合の悪い存在の人間はたとえ血の繋がりがあったとしても切腹を命じたりしました。人懐っこく親しみやすい稀代の人たらしは、民も家来も恐れる支配者へとなっていきます。
そして天下を統一し、せっかく平和になったのに今度は朝鮮へと出兵します。持たざる者が持つものになると、欲望はエスカレートするばかりです。もっと、もっと、もっと。止まりません。晩年の秀吉は青年の時とまるで違います。まさにこれこそ罪に囚われている人間そのものの姿のように見えます。
そんな秀吉の辞世の句はこのようなものでした。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな なにわのことは 夢のまた夢」

振り返ると私の人生は一滴の雫、露のようにはかなく一瞬にして消えてしまうようなものだった。私の追いかけてきた人生は夢だったんじゃないか。形も何もない。全てを得たようでなにも掴めなかった。ああ、すべては空しい。神なき人生の末路がここに見えます。

◎結
ソロモンも秀吉も最初は自分の栄光だけを求めて生きたわけではありませんでした。特にソロモンの願いは神と隣人を愛するがゆえの純粋なものでした。しかし、いつの間にか求め続けた知恵は愚かなものとなり、巨万の富を得たものの、心には空しい穴が開いていました。
知恵、真理を求め続けていくことは大切ですが、その真理は人が自力で見つけるものではなく、与えられてはじめて人は生きていけるのだということを知らなければなりません。私たちのまことの知恵、真理はイエス・キリストそのものです。心の穴の中を満たす存在は唯一イエス様だけなのです。知恵を求めるのは風を追うようなものだとあります。風とは息、聖霊をも表す言葉です。風は自分で掴むことはできません。風の方から私たちの元にやってきて包み込んでくれるものです。私たちはその与えられる恵みの中でしか生きていけないのです。
人は弱く、はかなく、空しい存在です。そこに神がいなければ、の話です。しかし、神様は生きておられます。そして、共にいてくださると約束してくださいました。インマヌエル、神我らと共におられる、主イエス・キリストが私たちとずっと一緒にいてくださっているのです。この事実は空しさという心の穴を埋めるなによりの慰めとなります。
更に言えば、この人の儚さ、弱さ、限界、空しさというものを覚えたときこそ、実は神と出会う絶好の場面でもあります。人の限界を痛感すればするほど神の無限を深く感じることにもなります。人生の空しさ、心が空っぽの時、神と出会う。その時、はじめて人は、人生の意味を見出すのです。

武井誠司

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