ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

それでもあなたはすでに救われている

メッセージ

009年10月4日富里教会
   「それでもあなたはすでに救われている。」
                 (ローマ書7:18〜25)

1. はじめに

主の御名を賛美します。
いよいよ10月に入りました。今月は、東ブロック秋の集い、バザー、そして11月の7〜8日は秋の特伝と楽しい行事が続きます。また、今週はいよいよ第2回目の「拡大する人生」のクラスが最終回を迎えます。松崎さん、黄さん、市原さん、そしてチュカさん、ゾオラさんの6人の方が11週間頑張って学びを続けてこられました。私も後半少し顔を出していましたが、家内と坂井姉がリーダーをして、とてもエキサイティングな楽しい集まりでした。

この「拡大する人生」の原題はサバイバル・キット(Survival Kit=生き残りをかけた道具)という題で、バプテスマを受けたクリスチャンが、途中で信仰を見失ってしまわないための霊的かつ実際的な訓練のテキストです。私も何回かリーダーをしましたが、やる度に新しく教えられる所があります。これを受けた方は、どなたも異口同音に次ぎに進みたいとおっしゃいます。生き残るよりはむしろ、人生が新しく広がって行くような感じがするのではないでしょうか。それで、日本語版には「拡大する人生」という題がつけられました。 

このテキストは、バプテスマを受けて間もない方というよりは、むしろ、クリスチャンになってその後、何らかの理由で教会を離れたり、信仰生活から遠ざかってしまった方のための学びであるような気もします。自分は一体どこでつまづいたのか、何が原因で信仰生活から離れたのかを振り返ってみて、もう一度原点に返って、再出発するための最高のテキストではないかと思います。「転ばぬ先の杖よりは、むしろ転んでしまってからの杖」のような気がします。

2.分裂している私、死の体

今朝は、二つの点に絞ってお話したいと思います。第一にクリスチャンには古い性質と新しい性質があると言うこと。第二に、どうしたらこの古い性質に勝利できるかと言うことです。

信仰生活の中で、一番最初につまずくのが、罪の問題です。罪を悔改めて、主イエス・キリストを信じたけれど、まだ自分の中には古い罪の部分が色濃く残っていて、クリスチャンでありながら罪を犯してしまう。そして、逆に自分を裁いてしまったり、クリスチャンにふさわしくないと思って、晩餐式の杯を取らなかったりしたことはないでしょうか。

確かに私達は信仰に入った時に、罪が贖われ、赦され、聖められました。でも生きている限り、肉体を持っています。パウロはこの肉の中に罪があると言っています。ですから、この地上に生きている限り、たとえクリスチャンであっても罪は持っているのです。ここのところをしっかり抑えておかないと、自分はクリスチャンなのに罪があり失格だと自分を裁いてしまいかねません。また、逆に自分には罪は全くない、完全に聖められた、でもあの人はまだ罪を犯している、聖められていない、あれでもクリスチャンかと他のクリスチャンを裁いてしまうこともあります。表面的な信仰、見せかけのクリスチャンになってしまいます。そうではなく、たとえ救われても、この自分の中には「私」という罪の古い性質と、イエス・キリストによる新しい性質の二つが存在しているのです。この自分の内側に存在する罪のことを、しっかりと捉えておく必要があります。

この点についてパウロは、7:18以降でこう言っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと言う意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」私の中に罪がしっかりとあるのです。その罪を自分の意志や力で何とかしようと思っても、どうしようもできません。これが「私」という現実の姿なのだと、パウロは言っています。

ある時、大学生の方が教会を尋ねて来られました。聞くと、「何とかパチンコを止めたい。親からの仕送りを全部パチンコに使ってしまっても、店の前を通るとどうしても入ってしまう。」というのです。この人に牧師が「絶対パチンコをしてはいけない」といったところで、効果があるでしょうか。逆ですね、この戒めを通して、かえって自分の肉の中に存在する罪がむくむくと目を覚ましてきて、この戒めが呼び水となり、逆に「パチンコをしたい」という欲求が起こってきます。そして、隠れながらでも打ってしまう依存症になってしまうことがあります。ですからこの戒めは、もともとは正しいことなのですが、私達の肉の中の罪を呼び起こし、邪悪な罪の本性を現して、人間をとことんだめにする働きをするのです。これが罪の正体であり、律法と言う戒めが、罪を呼び起こして、人間をだめにするのです。この肉の中に内在する罪の問題について、パウロ自身もうめくほどに悩み抜かれたのです。

このように「私」を見た場合、自分ではどうしようもない罪の現実がそこにあるわけです。クリスチャンであってもこの自分の現実は、何ら変わりはありません。せっかくクリスチャンとして、正しい生活を送ろうと思っても、自分の肉に内在する罪の現実の故に、それに負け、失望、落胆、挫折を感じてしまうことがあります。この7:7以下に「私、私、私、・・・・」という言葉が、実に21回も出てきています。この「私が」という自我の問題が常にクリスチャンを悩ませて来ました。パウロ先生ですら、この自分の中に内在する罪の問題で、悩み、苦しみ、うめいていたわけです。そして、24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか!」という絶叫にも近い叫び声をあげています。私たちクリスチャンも、自分の力、自分の努力で、自分の行いで何とかこの罪の力に打ち勝とうとする限り、それが出来ない自分に対する絶望的な叫び声を上げてしまうことがあります。惨めな人間、死の体のような自分です。これが律法の働きです。どうしようもない自分の姿を、自分の目の前に突きつけてくれるのです。

聖書の中に、一人の富める青年が、イエス様のところに来て、「私は律法を全部守ってきました。さあ、私に永遠の命を下さい!」と自信たっぷりに申し出るお話があります。しかし、彼はそのすぐ後に、イエス様から「自分の資産を処分しなさい」と言われて、ガックリと肩を落として、主の前を立ち去って行きました。たくさんの資産を持っていたからです。資産を捨てきれない自分、そういう罪深い自分にこの青年は初めて、気がつきました。今まで彼は、律法を一生懸命守ってきたという自負がありました。私たちも、バプテスマを受けた頃は一生懸命張り切って奉仕や伝道をします。しかしやがて、自分の内にある罪に気がつき、信仰が解らなくなってくる時が来ます。「拡大する人生」が言う「葛藤の時」です。

2. 神に感謝します。

しかし、このときパウロはどうしたでしょうか。24節からを皆さんで一緒に呼んでみましょう。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では、神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

ここで、私はどうしても解らないことがありました。それは、心では神の律法に仕えていて、肉では罪の法則に仕え、全く分裂してしまっているような自分、しかもそれは惨めな人間であり、死んだも同然の自分の体です。その時、パウロは「感謝します。」と、神様に対して言っていることです。こんなどうしようもない自分、分裂した惨めな自分でありながら、どうしてここで感謝の言葉が出てくるのでしょうか。

私は、この25節の言葉が長い間、解りませんでしたが、ある時、「現代訳聖書」(尾山令仁訳)を読んでみましたら、こう訳していました。「私たちの主イエス・キリストによって、神は私を救い出して下さったのだから、私は神に感謝しないではいられない。こういうわけで、私は、生まれ変わった新しい人としては神の御心に従い、生まれながらの古い人はまだ残っているが、すでに神の救いにあずかっているのである。」後半の部分を、「生まれながらの古い人はまだ残っているが、すでに神の救いにあずかっているのである。」と訳しています。この訳を読んで、私は正直言いまして、ホッとしたのを覚えております。

分裂したままで、神に感謝できるだろうか、自分の肉においてはまだ依然として神に反し、罪の奴隷となっていて、まともなクリスチャンとはいえないような自分、それでも神様に感謝できるだろうか、と思っていました。でもこの現代訳聖書を読んで、救われたような気がしました。「古い昔の性質はまだ残っているが、それでもキリストの十字架の贖いによって、すでにあなたは神の救いに預かっているのだ」ということの故です。

多くのクリスチャンが、まだこの自分の内に内在する罪の問題で悩み、苦しみ、己を裁いたり、他人を裁いたりして、教会を離れてしまっている人が多いと聞きます。それでも、たとえ離れていたとしても、あなたはすでに救われているのです。これがパウロ先生をして、「感謝します。」と言わしめた理由です。そういう意味で、この「拡大する人生」は、この内在している罪の存在を教え、どうしたらこの二つの性質を持った自分に克服できるかを教えている貴重な本だと思います。

「拡大する人生」の中にこう書いてありました。「すべてのクリスチャンは、古い性質と新しい性質を持っているという事実です。あなたの古い性質を新しく変えようと努力しても、新しい性質であるキリストの命をまねることは出来ません。あなたのなすべき事は、常に古い性質に逆らって選択することです。つまり、何かをすること(Doing)を選ぶのではなく、誰かという人物(Being)を選ぶことです。キリストのようになろうとすることではなく、キリストを心の王座にお迎えすることです。そして、全てを御支配しておられるイエス・キリストに心を明け渡して委ねることです。この委ねる祈りを通して、罪に勝利してゆくことが出来ます。」(「拡大する人生」P.61)

私達に委ねられているのは、どちらを選ぶかだと言っています。「自分」か「キリスト」かです。信仰の決断と言うのは、どちらの政権を選ぶか、政権交代を決断するようなものです。古い王に権力を委ねるのか、それとも新しい王に権力を委ねるかです。この決断にかかっています。パウロは分裂して死んでしまったような古い自分をあきらめました。行いによって救われると言う古い戒めではすくわれないと解ったのです。即ち旧約聖書の律法による救いでは自分は救われない、ますます惨めになって行く。そこで彼が決断したのは新しいマニフェスト、即ちイエス・キリストの十字架による罪の赦しを得させる福音を選択したのです。分裂した自分のままです。

ですから、分裂したままでもイエスキリストの十字架を通して神様に感謝しますと叫んでいるのです。先日の衆議院選挙みたいなものです。私たちでは、自分の古い生質を変えることはできません。出来るのは変化を起す党を選択をすることだけです。ある人は民主党を選ぶでしょう。後は民主党が変えて下さるのです。実行するのは、鳩山内閣であり、大臣たちです。内閣のことを英語でMinistryといいます。そして大臣のことをMinisterといいます。私達はイエス・キリストを選択し、父、子、御霊の三位一体の唯一の神の内閣に委ねたのです。大臣の一人である聖霊様が、新しい生きた霊の体の実現という公約のために働いて下さいます。そして私達は神の内閣に仕える国家公務員のようなものです。内閣の忠実な僕です。神様とイエス様と聖霊様が私たちを通して御国実現のために働いて下さるのです。(あまり良い例ではないかもしれませんが・・・。)

御国の実現のために大切なことは、何かをすることではなく、誰を選ぶかです。一度限りではありません、絶えず、どちらの権力に服するか決断して選ぶのです。来年また参議院の選挙がやって来ます。私達は一度信じて、キリスト党に入りましたから、常にイエス・キリストを選択して告白して行くことが求められます。クリスチャンとは、絶えず、毎日毎日、瞬間瞬間イエス・キリスト様を選んでゆく人のことを言います。それは祈るという行為で選択することかもしれません。罪の贖いから体の贖いをめざして、祈りを持ってうめきながらでも、罪との戦いに立ち向かって行く人、これがクリスチャンです。

クリスチャンである私たちも、生きている限り、この肉体はあります。そしてこの肉の中には罪が宿っています。この地上に生きる限り、罪との闘いが生涯続くでしょう。すでに、私達は信仰によって、肉をもったままで罪の贖いをしていただきました。キリストにあって、すでに神の子とされ、罪が完全に赦されているのです。そして罪の贖いの次には体の贖い、この体が完全に贖われて、神の栄光を現すようになるまで、うめきながら祈っています。でも、お父様もイエス様も聖霊様も共に苦しみうめきながらでも、私たちと一緒に戦って下さいます。

しかし毎回、キリストを選んで勝利するとは限りません。時には、罪に負けて自分を選ぶこともあるでしょう。罪の力に捕われてしまうこともあるでしょう。たとい、そうであってもキリストを信じたものは最初の手付けてあり、神様の保証書である聖霊様をいただきました。ですからすでに私達は神の子なのです。ですから、罪に負けそうになった時には、その場で、その時、神様に向って「私を救って下さったことを、イエス様を通して神様に感謝します!」と大声で叫びましょう。私たちはすでに神の子です。誰も、このキリスト・イエスに示された神様の愛から私を引き離すことはできません。主に感謝しますと、叫び祈ることです。そこに圧倒的な神様の力が働いて、私たちを罪から解放して下さいます。その力とは御霊の法則です。聖霊様の力です。

3. 聖霊による勝利の生活

先週も「拡大する人生」のクラスに出ましたら、一人の方がこう証して下さいました。「今まで、一杯やりながら、テレビを深夜まで見るのが唯一の楽しみでした。でも、この間、お酒を飲んだらめまいがしてきて、気持ちが悪くなってしまいました。今は、まためまいがするのではないかと思うと怖くて、お酒が飲めなくなってしまいました。」と。そうしたら、クラスで拍手が起こりました。自分の力ではお酒も悪い習慣もなかなか止められません。でもこの『拡大する人生』を学ぶことによって、神様のことをもっと深く知り、聖霊様の取り扱いを受けることが出来ます。自分には出来ませんが、神様には出来るのです。そして今まで死んでいたような生活がドンドン変って、喜びと命に満ちあふれた生活に変わって行くことができます。キリストによる新しい人生が、拡大して行くことを体験できるのではないでしょうか。

8:1に「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれているものは、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」私の心の内では、罪による「肉の法則」と律法による「心の法則」が互いに争っています。自分で闘おうとする限りでは、心の法則が負けてしまいます。でも、第3の法則である「御霊の法則」に従う時、私達は御霊様の助けによって、罪の力に勝利することが出来るのではないでしょうか。御霊様は私達の心の中に神様の愛を注いで下さり、弱いわたしたちと一緒になってうめきながら、苦しみながら、神様にとりなしの祈りをささげて下さいます。

神の子とは、罪が無い人のことではなく、罪を持ってはいるが、心の中でうめきながら、聖霊様の助けをいただいて、内在する罪と闘っている人のことを指すのではないでしょうか。人を赦すことができずに苦しんでいる人、悪い習慣を止めることができずにいる人、自分の過去を引きずって悩んでいる人、自分の性格や病いのことで悩んでいる人、心が引き裂かれ、分裂したままで悩んでいる人、それでもいいのです。それでもあなたは、すでに救われています。今あるがままの自分で、また重荷や悩みを抱えたままで、今、主に感謝の祈りを捧げてみましょう。聖霊様が注がれ、祈る者にも、またその相手の人にも働いて、全てのことをプラスになるように働いて下さいます。神様が、万事を益としてそのミニストリーを行なってくださり、全てをプラスに変化させて下さると御言葉は約束しています。
                                    (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional