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すべての人を照らす真理の光 (ヨハネ1:1~14)

メッセージ

2013年12月24日富里キリスト教会

「すべての人を照らす真理の光」
(ヨハネ1~14)

1.クリスマスカラーの意味

今晩のこの講壇とテーブルは、クリスマスカラーで覆われています。深い緑色と深い紅色です。みどりは常緑樹がいつも青々とした緑色を持っているように、「永遠」を表しています。キリストは、二千年前にマリヤの胎から生まれる以前にも、天上に存在しておりました。天地万物のなる以前から、キリストは子として、父なる神様と聖霊なる神様と共に存在しておられたのです。

そして、一度だけ肉を取ってこの世に来て下さり、マリヤから生まれ、十字架の贖いの業を成し遂げられて、死から復活されて再び天に帰られました。そしてまたやがて、世の終わりの時に、地上に来られて全ての人を裁かれことになっております。従いまして、イエス・キリストは、二千年前にマリヤから誕生はしましたが、天地万物の初めから、そして世の終わりまで生きておられるお方です。そのようにして、キリストが永遠に生きておられることを表すために、クリスマスは緑の色で表されております。

そしてもう一つの色が、真紅の赤い色です。これは子なるキリストが、肉を取ってこの地上に来て下さり、私たちと同じような肉体を取り、同じように地上で生活をされ、その御自身の罪のない聖い体を、私たちの罪の贖いの供え物として献げて下さった時に流された血潮を意味しています。いわば、イエス・キリストの血の色です。このキリストの血を飲むことによって、その血によって罪が償われ、神様の前に無罪放免としていただくことができるのです。教会では、毎月、このキリストの贖いの血を意味するぶどう酒と、裂かれた体を表すパンをいただく主の晩餐式を行っております。そして主の十字架の姿を思い起しながら、自分の罪の悔い改め、兄弟姉妹が互いに赦う時を持っています。このキリストの血を意味するのが、このクリスマスの赤い色なのです。

このようにして、この時を超えて永遠に生きておられるイエス・キリストの緑を「ヨコの線」で表します。そして、神であるキリストが肉を取ってこの世に来られ、私たちの罪の身代わりになって十字架に架かり、死を体験され、そこから三日目に復活されたこの赤い色が、「タテの線」を表しています。このタテの線とヨコの線が相結ぶ場所が、十字架なのです。

そして、このキリストの十字架こそが歴史の中心であります。ですから、このキリストの十字架を起点にして、紀元前(=B.C. Before Christ=英語でキリスト以前)と紀元後(=A.D. Anno Domini=ラテン語で主の年)とに歴史が分けられております。これがクリスマスカラーである緑と赤の意味するところです。キリストの誕生と十字架と復活こそが、世界史の中心なのです。人間の歴史は二千年前に、このイエス・キリストの十字架と復活を通して、すでに完結していると言っても過言ではございません。

今は、イエス・キリストは目に見えませんが、言葉として私たちに聖霊様を通して出会ってくださいます。この聖書の言葉、信仰の言葉を聞いて誰でも、イエス・キリストを救い主として受け入れ信じるならば、その人は罪赦されてキリスト共に永遠の御国に入ることができると約束されています。ですからこうして、今も、全世界でこの日本でも、イエス・キリストが再びこの地上に来られる時まで、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられているのです。

2.御言の光

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1~5)

キリストは、初めからおられた方です。子なる神であるキリストは、父なる神と聖霊なる神と共におられました。そして、ご自身も神そのものでありました。この冒頭部分に、三位一体の神が描かれています。そして、更にすべてのものは、この言なるキリストによって創造されました。神様は「光あれ」という御言を持って世界を創造されました。この言の中には命がありました。そして、この命は人間を照らす真の光でもあったのです。光は、今も闇の中に輝いていますが、暗闇はこれを理解しなかったとあります。

今晩私たちは、この真の光を求めて教会にやってまいりました。しかし、すべての人が、この光のもとに来たわけではありません。残念ながらクリスマスには、まことの光ではなく、まことでない光を求めて多くの人々は集まってきます。この世の持っている偽りの光の方に、人々の心は向きます。お金や宝石や装飾品の光、都会の輝かしいイルミネーションの光です。本当の光は言葉としてこの世に来られ、人々の心の中を照らし、命を与える光なのです。それはこの聖書の言葉から来ます。

また、人々は、真の光に照らされまいとして、必死に姿を隠そうとすることもあります。まるで、大きな石を取り除けた時に、その石の暗がりに安住していた虫たちが、光を嫌って別な暗がりへと逃げ込んで行ってしまうようなものです。せっかく真の光が世に来て、すべての人を照らされたのに、光のもとに来ようとはしません。人々は、自分たちに都合の悪いことを隠しさえすれば、ことが済む、平気な顔をしていられると考えています。

もしこの闇の部分をそのままにしておくならば、私たちは闇に飲み込まれてしまいます。悪を行っていながら、そのことを隠し通すならば、その秘密が秘密を産んで、どんどんと闇で闇を覆ってしまいます。今日は、闇が闇を覆う暗黒の時代です。そしてついには、その闇がその人自身をも飲み込んでしまいかねません。その闇はどこまでも、隠しおおせるものでしょうか。光から逃げきることができるでしょうか。

10行目にこういう言葉があります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と。キリストの光は、この世に来られて、すべての人を照らしました。この光に照らされなかった場所は、どこにもありません。人々のすべての行いが、私たちの心の中の思いでさえ、秘密の部分でさえ神の前には明らかなのです。隠せるものではありません。誰でも、この真の光を避けて、身を隠すことは出来ないのではないかとわたしは思います。

3.命の光

しかし、言葉として来られたキリストの光は、人々の闇を暴き立てて裁くために来たのではありません。四行目に「この言の内に命があった。」とあります。人々のすべての事柄を照らす真の光であるキリストは、「命」を持っておられたのです。人の命を奪うために来られたのではなく、光を与え、命を与えるために来られたのです。

最後に、今日の御言葉の下から六行目をご一緒に読んでみましょう。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

この言を受け入れた人と言いますのは、このイエス・キリストを信じた人ということです。すなわち、わたしの罪のために十字架に架かって、わたしの罪を贖ってくれたお方を心の中に受け入れること、これが信じるということです。信仰とは、何か善行を積むとか真人間になるということではありません。まず最初に、自分の内にあるこの闇の部分、自分の罪、人に隠しておきたい秘密の心、恥ずかしいことを、主の前に告白することです。

誰も、いつまでも自分の闇の部分を秘密にして置くことはできません。すでに、どんな人の心の闇の部分にも光が差し込んでいるのです。たとえ、この光に背を向けて隠れようとしても隠れることは出来ません。すべては、世の終わりの時に、一人一人が神の前に立たなければならいからです。最後の審判を受けなければなりません。その時、私たちは何と弁解するでしょうか。言い訳が通じるでしょうか。

聖書の中にこういう言葉があります。「しかし、全てのものは光にさらされて明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(エフェソ5:13~14)

イエス・キリストは、命を与える光としてこの世に来て下さいました。そして、すべての人々の心の奥底まで照らし出して下さいました。その心の闇をご自分の十字架の血潮を持って、贖い清めて下さったのです。一切の心の中の罪と悪を汚れを、ご自分の血潮をもって洗い流し、わたしたちに新しい命を与えてくださったのです。それほどに、神はこの世を愛されて、御独り子を送ってくださいました。裁くためではなく、赦すための光です。

クリスマスは、この真の光のもとへとわたしたちが一歩踏み出す時です。命の光の中へと、そしてこの主の命の言を心に受け入れる時でもあります。そのために、キリストは、ご自身を低くされ、人間の姿を取り、マリヤの胎の中に来て下さいました。この最高の宝物である御子イエス・キリストの大きな恵みを感謝しつつ、このクリスマスの時を共に過ごしてまいりましょう。(岡田久)

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