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さあ、良い知らせを告げよう (列王記下7:1~11)

メッセージ
2016年9月25日富里キリスト教会

「さあ、良い知らせを告げよう」
(列王記下7:1~11)

1.三つの死の選択

列王記6:24~25を読んでみますと「その後、アラムの王ベン・ハダトは全軍を招集し、攻め上って来て、サマリアを包囲した。サマリアは大飢饉に見舞われていたが、それに包囲が加わって、ろばの頭一つが銀80シェケル、鳩の糞四の一株が5シェケルで売られるようになった。」(6:24~25)とあります。
1シェケルは重さで約11、4グラムですから、ろばの頭が銀で912グラムと、かなり高いものになっています。鳩の糞でさえ銀57グラムと、いかに城内に食糧が無くなったかがわかります。また二人の母親が、食べる物がなくなって、自分たちの子供を順番に食べようと言い出しました。そして、先に一方の母親の子供を煮て食べ、次に今度は別の母親の子供を食べようとしましたが、二番目に食べることになっていた自分の子供を隠してしまったというのです。そのことを、片方の母親が王に訴えている話が出ています。(6:26~29)

そういう絶体絶命の状況の中で、「重い皮膚病」すなわち、らい病の四人の男が、サマリヤの城門の傍らにいました。彼らはこう言い合っていました。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」(7:3~4)と。

つまり彼ら四人のらい病人は、味方のいる町に入っても、同胞からは忌み嫌われるし、また城内でも食べ物がない、中に入っても食べることができずに餓死してしまうのは目に見えている。かと言ってこのまま、この門の傍らにいても死んでしまうであろう。もしひとつ生きる可能性があるならば、敵のアラムの陣営に投降することによって捕虜にしてもらうならば、食べ物にありつけるかもしれない。もし、そこで殺されても、もともとだと考えました。四面楚歌、絶対絶命、助かる見込みは全くない状態でした。三つの選択肢がありました。しかし、どれをとっても死を避けることができません。さて、皆さんでしたらどれを取るでしょうか。町に入るか、このままここで死ぬか、敵に投降するかです。

わたしたちはともすると、自分はこんならい病人なんかではないと考えているかもしれません。でもわたしはこの四人の男は、わたしたち人間の運命を表しているような気がします。人生の中で病を負い、根無し草のような生活をして、全く夢も希望もなく、ただただ町の門のところで死を待つしかない人間のあわれな姿を表しているような気がします。あの有名な讃美歌「人生の海の嵐に」という歌の中に、こういう歌詞があります。「すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに 死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港に いと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し」(新生讃美歌520番)

わたしたちの人生は、誰であっても、たとえ幸福な人生であっても、最後は皆、死を待たなければなりません。飢えて餓死する死を待つか、みんなから忌み嫌われて死を待つか、敵に殺されて死を迎えるか、いろんな死に至る状況はあります。でも最後は、結局は皆死んでしまうということです。これは生けるもの、人間の空しい人生の定めです。誰もこの死から逃れられることはできません。どういう死に方を選ぶのかという問題です。病死をするか自殺をするか孤独死をするかの違いはありますが、いずれ例外なく皆死を迎えるのです。そして今その時が迫っているのです。

さあ、だから今のうちに、救い主イエスの手の中に逃げ込みなさいと歌っているのが、「人生の海の嵐」の讃美歌です。今は危機の時代です。四面楚歌、絶体絶命の時です。皆やがて確実に死を迎えるのです。どうせ死を迎えるのに、どんな死に方がいいですかと問うているのが、この場面ではないでしょうか。

2.捨て身の決断

人は皆、どっちみち死ぬのですから、どんな死に方を選ぶか最後の決断を迫られているのです。それならば、少しでも助かる見込みのある方にかけてみませんか。彼らは、三つの選択のうち、かすかに助かる望みのある道を選びました。それが敵軍に投降するという選択でした。そして意を決して、死を覚悟して敵陣に下りました。そこを読んでみましょう。

「夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこには誰もいなかった。主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせたため、彼らは、『見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ』と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻ってきて他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。」(7:5~8)

四人のらい病人が死を覚悟して、敵陣に一歩足を踏み入れた時、彼らが見たのはもぬけの殻となった敵軍の陣地でした。しかも食べ物や、金、銀、衣服はそのままに残されていました。まるで、慌てふためいて取るものも取らずに、逃げ去った様子です。そこにあった食糧や宝物を彼らは運び出して隠しました。どんな気持ちだったでしょう。天にも昇る思い、地獄に仏のような思いで、我を忘れて物をあさったのではないでしょうか。

実はこれは、神様が敵軍に、大軍の戦車や軍馬のいななく音を響かせたからでした。アラム軍は、イスラエルの王が北のヘト人と南のエジプト人を買収して、南北から自分たちを挟み撃ちにして攻めて来たと勘違いしてしまったのです。軍の一部に起こった恐怖心は、瞬く間にアラム軍全軍に及びました。これはすべて神様が、彼らの目と耳に働いて、混乱と恐怖心を起こさせたからです。アラムと戦ったのは、神様でした。神が戦って勝利されたのです。あの有名な出エジプト記の御言葉があります。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:14)

同じように、わたしたちの救いは既に成し遂げられたということです。あのゴルゴタの丘の十字架の上で、イエスキリストの十字架の贖いの業によって、救いは成就したのです。わたしたちが努力したのでも戦ったのでもありません。主御自身が御子イエス・キリスト様と共に、人間の罪に対して戦って下さったのです。そして御子の死によって罪に勝利されたのです。すでに救いがなされ、主が十字架の上で勝利されたのです。アラム軍を敗走させ、大勝利に導いて下さった神の戦いと同じです。そして、あんならい病の罪を犯して自分の身に罰を受けたゲハジ親子でさえ、神の救いにあずかったのです。

わたしたちは、どっちみち死ぬ身です。ですが死を覚悟して、一歩敵陣に身を投じる時に、そこにすでに勝利の主がおられるのです。自分を明け渡して、死んだつもりで神の前に投降すことです。神に対して降参をすることです。そこに救いの手が差し伸べられるのです。「死を待つは誰ぞ、ただちに逃げ込め港に」という歌詞の通りです。あなたがたはいつまで黙って死を待っているのですか。いずれ死ぬ身です。それならば、一縷の望みのある道へ、一歩踏み出してみませんか。そこに救いがあります。そこに道があります。そこに命があります。光が待っています。

3.救いの伝道者

「彼らは互いに言い合った。『わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。』彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。『わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこには誰もいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。』門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。」(7:9~11)

彼らは自分たちがアラムの兵が残して行った金、銀、衣服を奪っている時に、ふと我にかえって気が付きました。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。」と。つまり、自分たちのためだけに、戦利品を隠して置いてはいけないと思ったのです。神御自身が戦って勝利して下さり、利益を与えて下さったのに、それを自分達だけのためにしまい込んでいてはいけないと思ったのです。今は、金、銀、衣服を欲しがっている時ではない、今は救いの日、恵みの日だから、自分だけのものにしないで、仲間に知らせなくてはいけないというのです。

わたしたちもそうです。わたしたちが救われたのは、わたしたちが良い行いをしたから、人徳があったからではありません。わたしたちもあのらい病人たちのように、罪にまみれ、もう死ぬしかない人生を歩んでいました。後は死を待つだけの人生です。空しいではありませんか。何の希望も喜びもありません。そういう私たちに主は、今から二千年前にカルバリの丘で、十字架にかかって救いの業を成し遂げて下さいました。この十字架の救いという一方的な恵みにあずかったものです。その救いの恵みと祝福を自分だけのものにしておいて、いいのでしょうか。自分の家に宝物を隠しておいていいのでしょうか。それを自分だけのものにしておいていいでしょうか。

パウロもこう言っています。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」(Ⅱコリント6:2)今は救いの日、恵みの時なのです。こうも言っています。「もしわたしが福音を宣べ伝えないなら、わたしは災いである。」(Ⅰコリント9:16)と。今は自分のためにだけしている時ではない、もしこの良き知らせを夜が明け朝日が昇るまでに同胞に知らせないなら、罰を受けるとさえ言っています。この朝日が昇るまで待つというのは、キリストの再臨のときまで、福音を知らせないで、自分のことだけとしてしまっておくということです。もいっそうならば、自分たちは罰を受けると言っています。

どこか良い恰好をしようとしたり、恥をかかないようにしたり、人によく見られようとしたり、気に入れられようとしたりします。そうすると一歩が出ません。その恐怖感を乗り越えることができるのは、自分に死ぬということです。わたしたちの目には、まだまだ大きな壁があり人々の心は福音を受け入れようとしないように見えます。でも、すでに主は戦って下さり、勝利した後なのです。もうすでに主が働いておられるということです。主が先回りしているということです。

声をかけようとする近所の方や、団地やマンションの方にすでに主御自身が先に働いているのです。そして、主が既に勝利しているのです。ですから恐れることはありません。一歩足を踏み出すことです。一寸先は闇ではなく、一寸先は光なのです。そこには、あなたの良き知らせを待っている魂がいるのです。わたしたちはその戦利品を奪うだけです。この喜びを自分だけに物としていいでしょうか。「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるであろう。さあ、行って、人々に神の救いを知らせようではありませんか。」(7:9)  

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