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これはわたしの愛する子 (マタイ3:13~17)

メッセージ
2021/1/03
富里キリスト教会礼拝説教
「これはわたしの愛する子」
(マタイ福音書3:13〜17)

①バプテスマのヨハネの謙遜
今日の箇所は聖書の中でも大変有名な場面であり、少しヨハネ福音書は独自の視点ではありますが、基本的にはすべての福音書において記載されております。そういった点から見てこの出来事は各福音書記者にとって、私たちに伝えたいとても重要な出来事だったことが窺えられます。それがこのバプテスマのヨハネからイエス様がバプテスマを受けるという出来事でした。
ここでのヨハネと言われる人物は、旧約聖書からすでに預言されていた者であり、彼はザカリヤとエリサベトという老夫婦から生まれるという神の奇跡の中で生まれました。この経緯はルカ福音書の冒頭に記載されており、まるでイエス様のご降誕のプロローグのように描かれています。そして、実際に彼は旧約聖書の預言の通り、イエス様の先駆者、主の道を整える者としてユダの荒野で宣教活動をする有名な宗教的リーダーとなりました。
そんな彼の元に、エルサレム、ユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯と非常に多くの地域から人々が集まり、彼はその人々に罪の悔い改めによるバプテスマを授けていました。それゆえ彼は「バプテスマのヨハネ」と呼ばれていました。
旧約聖書にも水によるきよめに言及する場面があり、当時もそのようなきよめの儀式はありました。しかし、彼のバプテスマはきよめの儀式とはまた違った特殊性がありました。ヨハネが授けていたバプテスマは罪を告白し、悔い改める、悔い改めのバプテスマと呼ばれるものでした。近づく審判に備えて新しく整えられた神の民に悔い改めて加えられるという一回かぎりのものであり、バプテスマを受けたものには悔い改めにふさわしい生き方が求められていました。これを水のバプテスマとも言います。
しかし、これはいずれ来るまことのバプテスマへの道への備えてあり、このバプテスマは主イエスによって与えられる聖霊と火のバプテスマへと完成されていきます。この聖霊と火のバプテスマは全き罪のゆるしと聖霊による新しい命を与えるものです。今、私たちが受けているものはこの聖霊と火のバプテスマであり、そのたしかなしるしとして、今もバプテスト教会をはじめ多くの教会がイエス・キリストを信じたものがキリストのからだなる教会に加わるためにキリストに対する信仰を見える形で公に表明するために浸めの儀式を行っています。
当時、そのヨハネを通して多くの者たちが自分の罪を告白し悔い改めのバブテスマをヨルダン川で授かっていました。そんなところにイエス様は来られ、なんと自分もヨハネからバプテスマを受けたいというのです。

マタイ3:13
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。彼からバプテスマを受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。』」

ヨハネはイエス様からの唐突な申し出に戸惑います。なぜならイエス様には罪がありません。罪のない方が何を悔い改めるのでしょうか。そして、きっとヨハネはこのお方がどなたなのかということをよくわかっていたのではないでしょうか。このお方のためにヨハネは道を整えてきたのです。来るべき預言の成就であるメシア、神の子キリストが今、目の前にいるのです。
当時、ヨハネはイスラエルの中でもとても有名で、最も影響力のある宗教指導者の一人だと言ってよいでしょう。しかし、彼は「私こそあなたからバプテスマを受けるべき」だと言います。それどころか自分はこの方の靴を脱がす価値すらない。そのように思っています。ここにバプテスマのヨハネの神に対する謙遜さを見ます。人としての分をわきまえていたのです。神と人の明確な違いを彼は認識していたのです。どれだけ立派な宗教指導者であろうと神のみ前では膝をかがめるのみです。
現代の教会でバプテスマを執行する牧師はこのヨハネの姿にならうべきでしょう。牧師は教会から委託され、役割としてバプテスマを人に授けますが、本来執行する自分自身が主からバプテスマを授かるべき者であり、すでに主から授かった者という認識を持たねばならないでしょう。私が彼にバプテスマを授けた、逆にあの先生からバプテスマを授かった。これは本質からずれています。バプテスマは主イエスによって授けられているのです。この真理を牧師も信徒も忘れてはならないでしょう。人から人へと授けられるのではなく、本来は神から人へと授けられるもの。それがバプテスマです。悔い改めよと人々に迫る者は、誰よりも神の御前において謙遜な者でした。

②イエス・キリストのへりくだり
しかし、主イエスの謙遜、へりくだりはこのバプテスマのヨハネ以上のものでした。
マタイ3:15
「しかし、イエスはお答えになった。『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』」

イエス様はヨハネの言葉を否定はしません。ご自分を神の子であることをよくご存知でした。しかし、主はあえて「い・ま・は、止めないで」と言います。や・が・て、は違うということです。ここから、やがて来られる聖霊と火のバプテスマを思わされます。いつかは、天においても地においても主権を持つわたしが、バプテスマを授ける時が来る。栄光の時は必ず来る。しかし、その前に、まず私はあなたたちと同じ立場になりたいのだと主は言われるのです。罪なきお方が悔い改める必要のないバプテスマをあえてお受けになると言われるのです。
主イエスがバプテスマを受けようとされたのは罪があったからではなく、「正しいことを実行するのはふさわしい」ことだったからでした。イエス様は救い主として罪人の身代わりになるためには、あらゆる点で人間と等しくなる必要があることを知っていたのです。
人が神のみ前に罪を悔い改めることはまことに人として正しく、ふさわしいものだと言えるでしょう。それゆえ、人間にとってバプテスマを受けることがふさわしいのだから自分も受けようと言われたのです。
受ける必要のないものをあえて、お受けになったのです。そもそも全知全能である神が、弱く無力な人間になる必要などありませんでした。しかし、主はあえて人となってこの地に降りて来られました。全ては私たちを罪の泥沼から救い出すためです。そして、主は人となって私たちの弱さや痛みを知ろうとなされているのです。高みから見下ろすのではなく、私たちと共にいてくださり、私たちの痛み、苦しみ、弱さを誰よりも理解してくださっているのです。私たちの主はそういうお方なのです。

ヘブル2:17
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」

ここに仕えられるためではなく、仕える者として来られた、主イエスのしもべの姿、へりくだりの極みを見ます。

③神の子メシアの栄光
マタイ3:16−17
「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

罪もなく悔い改める必要もない神の子がへりくだって、あえて人と同じようにバプテスマを受けられた。そのことを神様は大変に喜ばれ、最高の祝福をイエス様に与えます。天が開き、鳩のような霊が注がれ、直接、天から主は喜びの声を上げられました。特別なことでしょう。誰のバプテスマでもこのようにはなりません。あえて人間としてバプテスマを受けられたことは、非常に神のみこころにかなったものであることがわかります。そして、神様はそのようなイエス様を「これは私の愛する子」と逆にただの人間ではなく特別な存在であることをお示しになるのでした。
この場面では新共同訳聖書では省略されていますがイドューというギリシャ語が2回出てきています。「見よ」という意味であり、そこに注目してほしいという強調がそこにとても表れています。イエス・キリストは人として来られながらもまことに神の御子であられるのです。
そして、この「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、イエス様という存在そのものがまことに旧約聖書の預言の成就、メシアであることをも表しています。「これは私の愛する子」という言葉ですが詩編2:7にも「お前はわたしの子」という言葉があります。この詩編2編はメシア詩編と呼ばれており、メシアの王としての姿が表されています。
また、「わたしの心に適う者」という言葉は「わたしはこれを喜ぶ」とも訳せ、新改訳ではそのように訳しています。それはこの言葉を、イザヤ書の預言の成就だと捉えているからです。イザヤ42:1には主のしもべとしてのメシアの姿が表されており、その姿を神が喜ばれるといったことが記されています。
王としもべ。全く対照的なメシアの姿がここで一つに結び付けられております。しかし、これこそがまことの救い主の姿なのです。まことの王である神が、人となられ、人に仕えて生き、全ての罪を背負い、贖い、痛み、苦しまれました。これこそが救い主、私たちのまことのメシアの姿なのです。この主イエスのバプテスマの記事は、イエス様が私たちと同じように完全に人間の姿をとられたことを示すと同時にイエス様は単なる人ではなく、神から派遣されたメシアである。その両面を意味しているのです。

④へりくだりの先の栄光
主イエスはあえて、人間と同じようにへりくだって、バプテスマを受けられました。しかし、このへりくだりは後に、主なる神によって引き上げ、高められます。へりくだる者は主によって必ず高められるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は実は、別の場面で全く同じ言葉でもう一回出てきます。それはイエス・キリストの山上の変貌と言われる場面で、マタイ福音書においては17章に記されています。
ここでの場面は、主イエスが弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登るのですが、そこでイエス様の姿が変わり、そのお顔は太陽のように輝かれ、衣服は光のように白くなったという場面です。そして、そこにモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合います。モーセは律法の代表者、エリヤは預言者の代表者です。律法と預言者。これは旧約聖書そのものを表します。つまり、この場面は旧約聖書の全体が予表していたことの成就を表しているのです。
何が成就されるのでしょうか。それは私たちの救いです。同じ内容が書かれているルカ福音書の方ではその時イエス様たちは「エルサレムでとげようとしておられる最後について話していた。」とあります。イエス・キリストの十字架の贖いが語られ、そしてそれは復活の栄光へと至ることがその主イエスの輝きを持って表されているのです。
人となってへりくだり、仕えきった主イエスの十字架は神の御手によって引き上げ、高められ、栄光の復活の輝きへと至るのです。この山上の変貌の輝きはその復活の栄光、神の力そのものを先取って表されたものだと言われています。あえて人としてバプテスマを受けられた時、救い主として復活の栄光の輝き、神の力そのものが現れている時、そのどちらの場面においても天上の神より「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と同じ言葉が語られました。そこに、まことの神であり、まことの人でもある主イエス・キリストの姿、その姿こそが神のみこころそのものであるというメッセージがあるように思います。
また、それと共にへりくだりの極みから栄光へと主イエスは引き上げられるのだ。そういったメッセージも受け取ることができます。フィリピ書2:6−11はキリスト賛歌と呼ばれる箇所で、そのへりくだりから栄光へと引き上げられる主イエスが本当に生き生きと美しく描かれています。朗読いたしますので、共にこのみことばを味わいましょう。

フィリピ2:6−11
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

このキリストにならい、私たちも謙遜、神の御前においてへりくだり、神に自分の握っているすべてを明け渡し、救いの恵みを受け入れていこうではありませんか。私たち人間のへりくだりとは神の恵みを素直に受け取っていくということではないでしょうか。私は自分の力で生きていけます。大丈夫です。だれにも支配されません。私が決めて生きていきます。自己責任でなんとかやっていきます。助けは別にいりません。
そうではなく、いや、あなたがいないと私は生きていけない弱い存在なのです。自分ではこの罪の力にどうやっても抗うことができないのです。お願いです。助けてください。その素直なへりくだりが恵みへと導きます。あなたは私を救い出してくださったお方です。感謝します。この恵みによって私は生きています。あなたのご支配の中で生きるこの喜び、なんと幸いでしょう。
その恵みで生きる者は他者に対しても謙遜になっていくでしょう。私は何にも偉くないんです。だって私自身の力でできることなど、ほんの少しなのですから。弱っちいものです。しかしそんな私が、全知全能の主によってなんでもできるのです。
これがまことの謙遜です。そういった謙遜な姿は、もしかしたらこのキリストの恵みを知らない方からは侮られるということも時にあるかもしれません。しかし、気にする必要はありません。主にあって謙遜な姿は、主がイエス様を引き上げられたように私たちも、いつか必ず引き上げられます。栄光が待っているのです。

1ペテロ5:6−7
「だから神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

主イエス・キリストはあえて、人としてバプテスマを受けられました。この従純と謙遜の姿に神様は「これはわたしの愛する子」と喜ばれました。このへりくだられた姿にならい、私たちも神の御前において素直にへりくだり、その神に思い煩いのすべてを明け渡し、神の恵みの中で、この世を謙遜に生きてまいりましょう。その姿に主はイエス様だけでなく私たちにも「これはわたしの愛する子」と喜んでくださるのです。神に愛されている神の子として生きてまいりましょう。

武井誠司

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