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この家をいっぱいにしてくれ (ルカ14:15~24)

メッセージ

2014年12月7日富里キリスト教会

「この家をいっぱいにしてくれ」
(ルカによる福音書14:15~24)

1.大宴会に招かれた人々

「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう』と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意もできましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させて下さい』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させて下さい』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので行くことができません』と言った。」(ルカ14:15~20)

さて、今日の15節からの大宴会のたとえ話ですが、ここでは、せっかく招待を受けていたのに、大宴会の前にもう一度念のために案内を出したら、何と皆、次々と断って来たのです。最初の人は、「畑を買ったので見に行かなければならい」という理由でした。二番目の人は、「牛を買ったのでそれを見に行かなければならない」ということでした。そして三番目の人は、「結婚したばかりなので、妻を置いて寂しい思いをさせたくはない」という理由でした。どうですか、皆さん。これは正当な理由だと思いますか。正直言って、よく考えてみれば、どうでもいいことばかりです。

これでは、招待した主催者が怒らない方がおかしいです。「そんなの、いつでもできるのではないか。なぜ断ったのか!」と怒り心頭です。このたとえ話は、主人は神様です。そして僕はイエス様、招待客はユダヤ人となっています。さてここで、一つ考えていただきたいことは、なぜ招待されていた人々は断ったのでしょうか。しかも理由にもならない理由をつけて、慇懃(いんぎん)無礼にも断って来ました。どうしてでしょうか。

いわばこの世の物です。この世の富や名誉や財産、この世の幸福に目がくらんで、もっと大切な天国での宴を忘れてしまいました。いや天国のことよりも、今の現実の自分の力で手に入れた富、財産の方に信頼するようになったからではないでしょうか。天の大宴会に行ったからと言って何の得にもならない、それよりは今の自分の生活の方が大事だと思い込んでしまっていたのです。

今日の週報の「牧師室」にも書きましたが、「主のために」するという信仰が薄れて来て、いつの間にか自分のための物、自分の世界の方が大事になって来たのです。「主のために」という気持ちがいつの間にか失われてきたためではないでしょうか。自分の生活行動の基準がいつも、「主のため」ではなく、「自分のため」に置き換わってしまっていたのではないでしょうか。

イエス様は別に、畑を買うのが悪いとは言っていません。畑を買ってもいいのです。牛を買っても、結婚してもかまいません。でもその根底には、「主のために」という動機がないならば、それは自分のためになってしまい、やがては離れて行ってしまう結果になることを警告しているのです。どんな時でも神を第一にして、自分がこの天国でのすばらしい大宴会招かれている者であるという、信仰と喜びと感謝を忘れないようにしたいと思います。

2.貧しい人や体の不自由な人を連れて来なさい

欠席者が相次いだので、この大宴会の主催者であり主人である神様はどうしたかと言いますと、怒ってしまいました。「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカ14:21~24)

彼らは、ユダヤ人です。神様に選ばれ養われ、育てられてきた神様にとっては目に入れても痛くないほどの宝の民です。神の愛されているのです。しかし、いつの間にかその神の愛を忘れて、この世の物に心を奪われて、神の祝福から遠ざかって行ってしまいました。畑を買ってあげたのは誰ですか、牛を買ってあげたのは誰ですか、すばらしい妻を与えてくださったのは誰ですか。現代風に言うならば、土地を買ってあげたのは誰ですか、家を買ってあげたのは誰ですか、車を買ってあげたのは誰です、すばらしい家族を与えたのは誰ですか。自分で手に入れたのですか?そうではありません。皆神様からいただいたものです。

その与え主を忘れて、あたかも自分が稼いで得たかのように、自分の力によって手にしたかのように考えてしまったのです。与えてくださった方から目が離れて、物や財産や家族と言った物の方に引っ張られて行ってしまったことを、神様は怒っているのではないでしょうか。いつからお前は心変わりがしたのか、この世の物、家や車や家族の方がわたしよりも大事なのか、いったいそれらは誰がお前に与えたのかと、神様が言っているような気がしてなりません。

イエス様は、ルカ14:25でこう言いました。「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、誰であれ、わたしの弟子ではあり得ない。」(14:26~27)と。

まさに招かれている人は多いですが、実際にキリストの弟子としてイエス様について行くと言うことは、自分の家族、父、母、妻、子供、兄弟姉妹、を捨てなければなりません。更に自分の命さえ捨てなければ主について行くことができないと言っています。自分の十字架を背負うと言うことは、自分を捨てると言うことです。自分というものに死んで、主に生きる者になるということです。断った人々はいつの間にか、自分が主人になってしまっていたようです。

そこで神様は、せっかく準備した料理と席が無駄になるから、町に出て行って貧しい人や体の悪い人、目の見えない人と言った何の御返しもできそうもない人でもいいから早く連れて来なさいと命じました。そこで、臨時にこの祝宴のおこぼれにあずかったのが、私たち異邦人のクリスチャンです。こういう貧しい人とか体が不自由な人と言った人々は、ユダヤ人の教えから見れば、罪を犯しているから神の罰を受けて、生活が貧しい、体が不自由なんだということなのです。神の選ばれた宝の民の祝宴から除外されていた罪の人々です。

でも主人である神様は、そういう人でもいいからともかく集めて来て席に座らせなさいと命じました。天国での宴は、このように取るに足らない者、箸にも棒にも引っかからないような人々にも向かって開かれたのです。罪人募集です。その時に集められたのが私たちです。ユダヤ人から見たら、エ―ッこんな人と言うような人ばっかりでした。それが私たちです。無条件で、招待されたのです。ふさわしくないものが招待されたのです。たまたま運が良かっただけなのです。でもそこは、すばらしい大宴会の席でした。

3.この家をいっぱいにしてくれ

ところがそれでもまだ席が空いていました。よっぽどキャンセルが出たんですね。僕が「御主人様、まだ席があります!」と言いますと、「じゃあ、今度は通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」と言いました。今度は、通りに出て行って手当たり次第に、誰でもいいから連れて来て、この家をいっぱいにしてくれと言ったのです。料理もいっぱい作ったし、席もまだまだ空いているのです。

皆さん、神様は、天国はまだまだ席が空いている、貧しい人や体の不自由な人が入って来てもまだ余裕があるというのです。お金持ちの人々は、声をかけられても見向きもしませんでした。呼ばれたのは貧しい人、体の弱い人たちだけです。助けが必要な人、明日食うことさえ心配している人です。天国とはそういう人の集まるところです。神様の一方的な大きな救いの恵みに、ただただ感謝して受ける人の集まりです。

イエス様は、「無理にでも人々を連れて来なさいと言っています。」「無理に」ですから、一回くらい断られても、あきらめずに手を引っ張ってでもいいですから、この席に連れて来たいものです。今度のクリスマス礼拝に、またスモールグループや教会学校に声をかけて誘いましょう。これが世界伝道の原点です。今週水曜日、小学校の校門のところで子供たちに声をかけます。「クリスマスに来てね。イエス様のお誕生をお祝いしましょう。」と。インドネシアに行ってもカンボジアに行っても、宣教師はまず、誰彼かまわず巷で声をかけて誘います。そして、イエス様のもとへと連れて来ます。私たちもこの世界に遣わされた宣教師です。町に出て行って、また家の路地や通りに行って手当たり次第に人を連れて来ましょう。イエス様は「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」と言っております。
                            

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