ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

ここにはおられない。復活なさったのだ (マタイ28:1~15)

メッセージ
2021/4/4
富里キリスト教会礼拝説教
「ここにはおられない。復活なさったのだ。」
(マタイ28:1〜15)

①私たちにとっての復活の意味
いきなりですが、みなさんにご質問があります。それは、キリスト教信仰とは一体どんなものですか?ということです。ノンクリスチャンの方にあなたは一体キリスト教の何を信じているのと、すごいシンプルかつ根源的な質問されたらみなさんはどのように答えるでしょうか。それは、イエス・キリストが救い主だということです。そう答えると・・・・「うーん、もうちょっと詳しく教えてくれませんか・・・?」となるかもしれません。そうなると私たちはまず何を信じていると語るでしょうか。
きっとまず最初に言われることは「十字架の贖い」ということでしょう。十字架の贖いは、罪からの救い、キリスト教信仰の根幹であります。教会を探すなら十字架を探せという言葉があるくらいです。十字架を見上げることは私たちにとって欠かせません。逆に十字架を否定する教会はもはやキリスト教会とは言えません。教会には必ずどこかに十字架があります。
それとともにもう一つ私たちにとって欠かせない信仰があります。それが復活信仰です。十字架と復活、これを私たちは信じているのです。そして、この二つの信仰は決して離れることなく、分かちがたいものです。エルサレムにあるイエス様のお墓と伝えられているところには、立派な教会が立っており、この教会は英語でホーリーセパルカー、聖なる墓と呼ばれて日本語では聖墳墓教会と呼ばれています。
また、ギリシャ正教会ではアナスタシア、つまりギリシャ語で復活と呼ばれています。同じ教会を一方では墓と呼び、一方では復活と呼んでいるのはとても興味深いですね。十字架の死と復活が切り離せられないということが示されているように思います。イエスさまの生涯は死では終わりませんでした。イエス様の墓は死の場所であると同時に復活の場所でもあったのです。そしてこのイエス様の復活が初代教会を生み出す大きな力となったのです。
この復活の事実を信じることができなければ、キリスト教は根底から覆されることになります。もし復活がなかったとしたら、イエス様の十字架の意味が全くわかりません。御心であったのかどうかわかりません。ただの一人の死刑と変わらないかもしれません。復活されたことによって旧約から長きにわたって預言されてきたことが成就し、人類の罪が贖われたことが証明されたのです。そして復活はイエス・キリストがまことの神であるという事実を証明します。世界の4大聖人は釈迦、孔子、ソクラテス、イエスと言われていますが、イエス様以外の3人は死んだが復活しません。聖人と仰がれる偉大な人物だったかもしれないが神ではなかったからです。イエス様だけが復活し、神の子であることを宣言したのです。

ローマ1:4
「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」

また復活がなければ、私たちが何から救われているのかが全くわかりませんし、救いの確信も持てません。復活は罪と死からの勝利を意味します。イエス様が死んだままでは、私たちの罪への勝利もありえません。イエス様が復活され、勝利されたからこそ、信じた私たちもその勝利にあずかることができるのです。イエス・キリストの復活こそが罪と死からの勝利の証なのです。
そして、なによりイエス様が復活されていなければ、決して消えることのない希望が見えなくなります。主イエスの復活は死の先にある私たちの永遠の命の確かな約束です。人はやがて死にます。しかし、主イエスを信じるものは死が最後ではありません。それゆえ、私たちは死を恐れません。復活はこの世で何があろうとも決して消えることのない私たちの希望なのです。
この真実の希望である復活信仰がないとむなしいとパウロは語ります。

1コリント15:16−20
「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そしてキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

私たちキリスト者にとってこの復活を信じるということは信仰の根底を揺るがないものにする、とても大切なことなのです。

②ここにはおられません
マタイ福音書28:1−3
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

イエス様が復活なされたことを最初に知ったのは、12弟子ではなく女性たちでした。このことは多少の違いはあれどもすべての福音書に書かれています。彼女たちはイエス様が十字架に架けられた時もそのそばで見ていました。そして死んで葬られた時、その墓の前を去ることができずにいました。しかし、日没とともに安息日が始まるので止むを得ず家に帰ったのでしょう。そして安息日が明けて、彼女たちはイエスさまの死体に、準備していた香料を塗るために墓に向かったのです。
なんとかいがいしいことでしょう。一目散に逃げ出した男の弟子たちとは大違いです。当時、女性という存在は人数のうちに入れられませんでした。裁判においても証言者としては認められませんでした。子供扱い、いや、もはや人とも扱われない、それが当時の女性でした。しかし、主はその女性たちを一人の人格として認め、尊重し、愛されました。そのことは福音書の中で何度も出てきます。彼女たちはそのイエス様の愛を受けて大きな感動があったのでしょう。それゆえの勇気ある応答だったのかもしれません。
しかし、彼女たちはその向かったお墓を前にとんでもないものを見ることになります。突然の出来事です。大きな地震が起こり、大きな墓石は転がり、天使が現れ、輝きます。何事か?天変地異のようなその光景に人は恐れを抱くでしょう。現に番兵は恐れのあまり震えだします。きっとこの女性たちも怖かったことでしょう。でも踏みとどまり一歩踏み出します。そして、そこで天使によって福音が語られたのです。

「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」

イエス・キリストは歴史的な事実として確かに生きておられました。しかし、今、ここには見える形ではおられません。見えません。遺体もありません。しかし、それこそが何よりイエス様が復活なされた証なのです。イエス様はお墓にはいません。なぜなら復活なされたからです。この空の墓をみて私たちは復活を確信するのです。墓に見える形でいないということが、今、見えない形で私たちと共におられるという証なのです。
天使たちはその事実を女性たちに目で確かめるように言い、彼女たちを証言者として委ねます。

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」

そのように弟子たちに伝えよと言われます。いいね、確かに伝えたよ。そのように天使は念を押すように彼女たちに託しました。この言葉は私たちにも直接語られている言葉でもあるでしょう。
主はこの重大な喜びの知らせの第一証言者を女性という当時において、小さき者に託されました。女性そのものが劣っているということではありません。しかし、当時において女性の証言は証言として認められませんでした。まず信じてもらえられないのです。否定されて当然なのです。しかし、そんな彼女たちに主は確かに伝えたよと、この福音宣教という働きを、喜びの知らせを伝えるという重大な役割を委ねたのです。

③証言の先にあるイエスとの出会い
マタイ28:8
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。」

天使の言葉に対する婦人たちのレスポンスは、恐れと戸惑いを胸に抱えつつも、喜び、走りだすといったものでした。私たちもこのような者でありたいと願います。墓に行ったらいきなり地震が起こり、天使が現れ、イエス様の遺体がない。それは復活されたからだと天使は言う。あまりの出来事の急展開に女性たちは戸惑いを覚えたことでしょう。もう理解不能です。しかもその知らせを証言者として伝えなさいとミッションが与えられます。その役割と責任の重さや、証言しても否定されるのではといった恐れが彼女たちにはつきまとっていたことでしょう。
私には荷が重い。そういった思いが正直あったのではないでしょうか。私たちも、主の御用、ご奉仕をするとき、自分の力量、能力を超えた働きが与えられ、思わず二の足を踏みたくなるようなときがあります。私自身は、牧師として召された時、そのような思いにかられました。
しかし、彼女たちは喜び、走りだしました。恐れも葛藤もある。しかし、それ以上に喜びが勝ったのです。喜びが恐れを締め出し、勇気を与え、背中を押しました。イエス・キリストは死から復活なされた。この復活という事実によって罪の解放、死からの勝利、永遠の命という救いが確かのものであると証しされたのです。人類が超えることのできない課題の根本的解決がなされたのです。
この福音を喜ばずにいられるでしょうか。また、この福音を伝えることそのものが喜びであるといわずにいられるでしょうか。福音という言葉はギリシャ語でユーアンゲリオンといい、良い知らせという意味を持ちます。福音はグッドニュース、喜びの知らせなのです。イエス・キリストの復活こそ福音なのです。パウロも復活そのものを福音と呼んでおります。またこの言葉は、当時新しい王の即位の知らせの時に用いられたそうです。真実の王が、復活をもって、即位なされたのです。
恐ろしい、でもこの喜びを伝えたい。嬉しい。イエス様は生きているんだ。そういった思いで彼女たちは走り、駆け抜けたのです。体が止まらない。喜びが私を突き動かす。そこには、自分たちが主に用いられる喜びがありました。そして彼女たちはその先でイエス様と出会うのです。イエス様は、さも彼女たちと出会えたことが当たり前かのように、いつものように「おはよう」とまず挨拶をされました。復活の主を証しする、福音を伝え続けていく先に復活の主と出会う。これは当たり前のように約束されたことなのだと言わんばかりです。
みことばを受けて、主イエスを信じたように思っていても実は本当の意味でイエス様と出会っていなかったかもしれないと思わされる時があります。信仰とはまことに体験的なものなのです。知識だけでは、知っているようで知っていないのです。恐れ、戸惑いをもちながらも勇気と喜びに押し出されながら進む信仰生活の中で本当の意味で復活のイエス・キリストと出会うのです。婦人たちはその復活の主イエスと出会い足を抱き、ひれ伏したとあります。その出会いに私たちは感動し、礼拝するのです。
不安と喜びが入り混じり進む中、そのような時に主イエスは必ず現れ、励まし、恐れることはないと語ってくださります。そしてその励ましを受け、たゆまず、進む中で私たちは主イエスと出会い続けていくのです。そして信頼して進むとそこにはミッションコンプリートがまっています。弟子たちは彼女たちの証言を聞き、信じて言われた通り、ガリラヤに行ったのです。必ず主の御用というものは私自身の力量ではなく主のみわざによってなされるのです。

④復活を阻むもの
恐れるなと背中を押され、女性たちは喜びの知らせを弟子たちに知らせ、弟子はガリラヤに向かい、そこで弟子は復活の主と出会い、すべての民をわたしの弟子とせよという大宣教命令を受けます。小さな者の知らせは、弟子たちに届き、彼らは復活の主の証人として働き、世界中に福音が広がっていきました。そして今や、私たちもこの弟子の一人として喜びのミッションが委ねられています。
最後にイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と語られました。神、我らと共におられる。インマヌエル。主イエスが生まれる前、天使が言われたように、最後にも主は共にいてくださると約束されました。復活の主と出会った時、その約束の言葉に強い確信をもち、勇気が与えられます。この救いの出来事は、間違いなく神のみわざなのだと。主はいきておられる。復活され、わたしと共にずっといてくださるのだと。復活が希望を生み、信仰を揺るがない確かなものとするのです。
それに反して主イエスの復活を認めず、隠そうとする者もいます。墓を見張っていた番兵もあの出来事を見ていましたし、天使の言葉も聞いていたはずです。しかし、彼らは復活の主を信じるのではなく、祭司長に報告に行きました。そして、彼らは自分たちの価値観、理性で判断します。復活?そんなわけあるか。はたまた、これは本当に神のわざだった。あっちが正しかった。これはバレたらまずい。自分たちの立場を確保せねば。彼らは様々な思いから復活を否定し、隠しました。
そして、弟子たちが死体を盗んだのだとデマを流しました。この彼らの工作はいまだに引きずっており、まだそのように言って主イエスの復活を否定する人、また様々な角度から復活を否定する人たちがいます。特に近代以降は人間の理性を信じてものを考えるようになったため死人が復活するなどあり得ないと最初から決めてかかっているふしがあります。
しかし、復活がなければ私たちはむなしい存在です。復活の主を信じ、そこにこそ希望があると、喜びの福音をこの女性たちのように伝え続けて行きましょう。その信仰生活の中で私たちは復活の主と出会い続けるのです。

イースターおめでとうございます。

武井誠司

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional