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からだの贖いをめざして (ローマ8:18~25)

メッセージ

2010年11月21日富里キリスト教会
「体の贖いをめざして」
(ローマ8:18~25)

1. 被造物の呻き

ちょっとローマの8:18~22まで読んでみますよ。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを節に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」     (ローマ8:18~22)

ちょっと難しい言葉がいっぱい書いてありますね。でも、簡単な事です。被造物と言いますのは、皆が好きな動物とか昆虫とか木や宇宙、この世界にあるすべてのものを言います。全部神様が造ったもの、これを被造物と言います。そして造った神様のことを創造主と言います。神の子と言うのは私たちクリスチャンの事です。ですから、19節はこう言いかえることができます。「動物や昆虫や植物は、人間が救われてクリスチャンになることを心から待っています。」と。

なぜ、動物や植物が、人間が救われることを待っているかと言いますと、動物や植物は言葉がありません。でも、この森を見ながら、静かに耳をすましていると、風が吹いてきて、木がざわざわとゆれます。そうすると、木や動物の声が聞こえてきます。いろんな動物がささやいています。木も話しています。時々、どんぐりが落ちる音が聞こえてきます。そして、この自然が何と言っているかと言いますと、聖書によるとこうです。「早く私たちを救ってください・・。私達も人間と同じように皆と一緒に神様の栄光を受けて自由になれる日を待っているんです。そして、声を出して一緒に賛美歌を歌いたいんだよ。足を使って歩いて行って神様の愛を伝道したいんだよ。」と言っている声が聞こえてきます。

でも、動物や昆虫や木や花には言葉がありません。神様がそのように造られたからです。神様の御心には従わなければなりません。でも、小鳥たちは精一杯かわいい声で毎朝歌っています。庭の花も、毎年きれいな花をつけてくれます。今は、教会の庭に菊の花が盛んに咲いていますね。いろんな花が次々と咲いてくれるのです。畑では、キウリ、ナス、トマト、オクラ、サツマイモ、落花生などいっぱい取れました。野菜も、言葉はないですがおいしい実をつけることによって、私たちを喜ばせ、自分なりに神様を賛美しています。でも、どんな被造物でも、言葉を出したい、声を出して私たちと一緒に賛美したいと願っています。

今、地球が温かくなって、北極の氷が溶けてしまいました。氷の上でアザラシを捕まえるホッキョクグマが、氷が見つからないのでアザラシを探すことができずに、海の中を泳いでいる姿が良くテレビに出ています。また、油田が事故になって、海から油が流れ出して、海辺の水鳥やペリカンが真っ黒になって飛べなくなってしまった事もありました。森がなくなってきている、さんご礁が消えかかっている。いろんな自然界の異常が起こっています。でも、動物たちは声がでません。人間が行なった事故や過ちによって、彼らはただ黙って死んでゆくしかないのです。

ですから、22節「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」とありますね。動物たちは声を出したい、でも声が与えられていません。ですからうめくのです。皆さんうめくという言葉知っていますか、これは、苦しんでウーッと我慢している時の声ですね。苦しくても歯を食いしばってがんばる時の声です。

内村鑑三という有名な方がこう言いました。「自然はこう、うめいています。私は苦しんでいる。早く人間が一人でも救われて、鳥や動物を一緒に救ってくれ。動物や植物は、もうこれ以上、人間の自然破壊に我慢ができない。動物や植物も、救われた人々と一緒に、神の子の栄光に輝く自由に入ることを心から待ち望んでいます。」動物や植物を救うためには、神の子、すなわちクリスチャンがもっと生まれなければ根本的な問題の解決になりません。

2.クリスチャンの呻き

そして、動物だけではなく、私たちクリスチャンも実はうめいているのです。
「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:23~25)

実は動物や植物だけではなく、クリスチャンも心の中でうめいているのです。「霊の初穂をいただいている私たち」と言いますのは、聖霊によって、イエス・キリストを信じた私たちクリスチャンという意味です。私たちは、聖霊様によってイエス様を信じました。最初の聖霊様の働きです。私たちは神の子としての保証を、この聖霊様によっていただいているわけです。“霊”の初穂と言うのは、私たちが神の子ですよと言う保証書です。

そして、罪の贖い、つまり罪の赦しを、イエス様の十字架の血によっていただきました。でも、罪は贖われ赦されていますが、人が生きている限り、まだこの肉の中に罪を持っているということをローマ書の中で学んできました。ですから、神の子としての身分を持っている私たちでも、時々、けんかをしたり、悪口を言ったり、嘘をついたりすることもあります。これは、この体の肉の中にある罪がさせているわけです。

でも神の子と普通の人との違いは何かと言いますと、クリスチャンは神様の前に自分の犯した罪を告白すれば、イエス様の十字架によって赦されるということです。クリスチャンでも、自分の現実の姿を見る時には、ああ、何とダメな自分だろう、クリスチャンなのに、神の子なのになんでこんな悪い事をしてしまうのか、と嫌になる時があります。体が悪い事をしてしますのです。友達を殴ってはいけないと思いながらも手が出てしまう。嘘をついてはいけないと思いながらも嘘をつく時があります。こんないやな体、もう捨ててしまいたいと思うことがあるかもしれません。でも、心から悔い改めるならば、罪は赦され清められるのです。

この自分の体が、自分の言葉が、自分の行いが聖められて行く過程、これが「体の贖い」なのです。聖化といって良いかも知れません。あるいは、聖霊様がだんだん心にいっぱいになって行く過程といって良いかも知れません。イエス様のようになって行く事を、わたしたちは忍耐して待ち望むのです。この心の中の呻きは時間がかかります。すぐにはなりません。でも辛抱強く忍耐して待つのです。

今日は、皆さんに御土産として、朝顔の種を差し上げたいと思います。家に帰って、来年の5月ごろ花壇か鉢に植えてみて下さい。夏にはきれいな花が咲きます。ところで朝顔を英語で何というか知っていますか。「モーニング・グローリィ」といいます。訳すと「朝の栄光」と言う意味ですね。朝と言いますのは「復活の朝」を意味しています。グローリィは「栄光」ですね。これは復活の栄光の体を意味します。

私たちクリスチャンも、朝顔の種のように地面に落ちます。そして土の中に入って、じっと芽の出る時を待つのです。種は私たちの体です。やがて体は朽ちてしまいますが、新しい命が種の中に宿っています。古い肉の体が死んでしまう時、新しい命が芽ばえてくるのです。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、まかれるときは弱い者でも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(Ⅰコリント15:42~44)

私たちも、種の時にはジッと暗い地面の中で我慢しながらうめきながら過ごしますが、やがて主の再臨の時が来ると、朝顔のように栄光の体に甦る栄光の朝(=モーニング・グローリィ)を迎えます。その時を待ちながら、今私たちはこの肉の体が、完全に贖われて栄光の体、完全な神の子となることを待ち望んでいるのです。私たちは今、この希望によって救われているのです。

3.御霊の呻き

そして、このクリスチャンのうめきを助けてくれるのが、実は神様から与えられている聖霊様なのです。聖霊様も、弱い私たちを助けて、祈るように励ましてくれます。26節に「同様に、“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に出せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。

本当は、あの人なんか死んでしまえばいいんだと思っていても、神様に祈る時、聖霊様が正しい祈りに導いて下さいます。いやな人、嫌いな人、死んでしまえば良いと思っているような人でも、祈る時に、その人のために神様にとりなしの祈りがでてきます。これが、聖霊様の呻きによるとりなしの祈りです。

わたしたちも祈りましょう。たとえすぐには聞かれなくても、忍耐して希望を持って祈るならば、神様が必ず祈りを聞いてくださいます。「現に見ているものをだれが望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」祈りによって、この体が贖われること、キリストに似た者となることです。やがて栄光の時がやってまいります。

30節に「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出したものたちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」とありますように、神様は私たちを救い、祈りと御言葉によって私たちを成長させ、やがて神様の輝かしい栄光に預からせて下さろうとしています。祈りましょう。聖霊様の助けをいただいて、すべてのクリスチャンのために、また富里の町の人々の救いのために、そして東京の人々の救いのために、日本人の救いのために、いや全世界の人々の救いのために祈りましょう。そして、御言葉を宣べ伝えて行きましょう。森の木々も動物もクモも切なる思いで、この町の人々が神の子として一人でも救われるよう、声にでない呻き声をもって私たちを応援しています。                           (岡田 久)

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