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からだの贖いをめざして

メッセージ

2009年10月25日富里教会
       「からだの贖いをめざして
           (ローマの信徒への手紙8:18〜28)

1. はじめに

主の御名を賛美いたします。
昨日は、バザーのご奉仕ありがとうございました。お蔭様で、皆さんで楽しい時を過ごすことができました。売上も11万円あり、女性会を通じて世界伝道のために捧げられます。また、このバザーを通してたくさんの方々が協力して下さいました。皆さんが家にあるものを捧げて下さったことを感謝します。私も、今回は思いきって、いつもより高いコーヒーを準備しました。少しでも協力して下さった方々への恩返しと思い、入れたてのおいしいコーヒーの香りを、会場一杯に香るようにさせていただきました。

先日、私たちのフォーク世代の旗手でありました森山良子さんが、TVで歌っておりました。皆さんも聞いたことがあると思いますが、第二次世界大戦の沖縄戦の悲しさを歌った、「さとうきび畑」という反戦の歌です。
「ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ」
で始まる歌詞は、11番まで続きますが、歌詞の2番目には「昔海の向こうから いくさがやってきた 夏の日ざしの中で」、3番には「あの日鉄の雨に打たれ 父は死んでいった 夏の日ざしのなかで」となっています。

私はこの歌の中に、さとうきび畑の悲しみと同時に、そして父親を戦争で失った一人の人の悲しさが、目に浮かんでくるような気がします。戦争という人間の大きな罪と悲しみ、そしてその現実をどうすることもできずに、被造物であるさとうきびが、人間の悲しい現実に共感するように、ざわざわと風に吹かれて泣いている、そういう悲しさを歌った名曲です。私はここに、人間の悲しみと被造物である自然の悲しみが、一つになっているような気がします。

2.滅びから解放されることを待ち望む被造物の呻き

植物や動物は神様によって創造された被造物です。彼らは自分で自分を救うことはできません。このさとうきびをはじめ、あらゆる植物や動物、そして太陽も星も海も山も全て神が造られたものです。これらの被造物の救いについて、聖書には次のように書かれています。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望をもっています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物が全て今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:18〜22)

あのさとうきび畑のように、被造物も虚無の世界から解放され、私達と同じような神の子の栄光に輝く自由にあずかれることを、呻きながら待ち望んでいると書かれてあります。と言いますのは、被造物は人間と違って自分の自由な意志や考えをもって、あのアダムのように罪を犯し、その結果、虚無に服したのではなく、神様御自身の意志によって空しくなっているからです。被造物の虚無と言いますのは、「言葉を持っていないこと」、「霊を持っていないこと」、「弱肉強食の食物連鎖の中に置かれていること」などがあげられます。しかし、そういう空しい運命を背負わされた被造物にも、最期の滅びの縄目から解放されて、私達と共に栄光に輝く自由が与えられる時を待ち望んでいると言うのです。

湾岸戦争では、油田を爆破した一人の独裁者によって、多くの海鳥が死んでしまいました。真っ黒になった海鳥が、油で真っ黒になった海を、恨めしそうに見ている写真を見たことはないでしょうか。あるいは、狂牛病になった牛が大量に殺されて埋められて行く写真もありました。牛が原因でしょうか。そうではありません、人間が、本来牛の食べ物でない牛の内臓を加工して食べさせて、狂牛病が起こりました。人災です。しかしながら、この自然のサイクルを破壊する人間の利益中心の政策や戦争の破壊行為に対して、被造物である牛も鳥も、ノーと言うことはできません。

彼らは、ただ神の子が現れること、一人でも多くの人が救われて、神の御心にそって自然が治められ、産めよ増えよと言う祝福の状態に戻りたい、回復したいと願っているのです。19節に「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」とあります。被造物も私達と同じように、一人でも魂が救われ、神の子が起こされ、共に栄光の世界に入ることができるようにと、呻きながら、神の子の出現、即ち一人でも多くの人が救われることを、待ち望んでいるのです。

内村鑑三はこの被造物の呻きを、次のように述べています。「自然はこう呻いている。私は苦しんでいる。早く人間が一人でも多く救われて、我々被造物を一緒に救ってくれ。私はこれ以上人間の破壊に耐えられない。救われた人々と共に、被造物も神の子たちの栄光に入ることを心から待ち望んでいる」と。パウロには、この被造物の切なる呻き声が聞こえていたのでしょう。あの「さとうきび畑」の歌を作った寺島尚彦さんも、また歌っている森山良子さんも、さとうきびのざわざわと風に吹かれる音の中に、この被造物の呻き声を聞いていたのではないでしょうか。

3. からだの贖いを待ち望んでいる人間の呻き

次ぎに、人間の呻きについて考えてみましょう。今日のメッセージの底に流れているのは、「呻き」という言葉です。8:18〜22までは「被造物の呻き」について述べられていますが、先ほど申し上げました。23〜25は、「人間の呻き」について述べられています。そして26〜30までが「聖霊様の呻き」となっています。この三者が今に至るまで、呻き続けているのです。そしてこの三者の呻きの中心と言いますか、彼らは何のために呻いているのでしょうか。

それは、私たちの「からだの贖い」のためです。つまり、聖霊様の証印をいただいて、すでに神の子となっている私たちのこの「からだが贖われること」のために、被造物も聖霊様も、そして私たち自身も呻いているのです。23節から読んでみましょう。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むのでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(8:23〜25)

ここに「からだの贖われることを心の中で呻きながら、待ち望んでいる」とありますが、からだが贖われることとは一体どういうことでしょうか。それは、私たちのこの肉のからだが、御霊の働きによって、日毎に新しく造りかえられてゆくこと、キリストの姿に似たものとされて行く過程です。つまり、古い自分が死んで日毎に新しくされて行くこと、そしてやがて主の再臨の時には、完全に霊の栄光のからだに一瞬のうちに変えられること、これがからだの贖いです。

私達はすでに神の子とされ、聖霊の証印を受けたものです。すでに霊の初穂をいただいています。しかし、この地上にあって生きている限り、肉の体を持っています。そしてこの肉の中には罪があり、弱さを持っています。神の子としての身分はいただきましたが、神の子としての完成にはまだ至っていないのです。心の中には、未だに罪と肉との闘いがあり、葛藤があります。

聖書にはからだについてあまり、いい表現をしていません。例えば、「罪に支配されたからだ」(ローマ6:6)、「死に定められたこのからだ」(ローマ7;24)、「卑しいからだ」(フェリピ3:21)、「朽ちる、卑しい、弱い自然のからだ」(?コリント15:42〜44)、「肉のからだ」(コロサイ2:11)とあります。このように、私たちのからだは、肉に支配された卑しい、死に定められる他ないからだです。でも、イエス・キリストの十字架の贖いによって、全ての人の罪の贖いがなされました。

私達は、このイエス・キリストの十字架によって古い肉のからだを脱ぎ捨て、そしてイエス・キリストの復活によって新しい霊のからだを着たものです。バプテスマはそのことを表わしています。キリスト共に葬られて、キリストと主に甦る。そして神の子として、すでに名前が天国に記されてあります。でもまだ、神の子としての完成には至っておりません。なぜならまだ古い自分、肉の自分があるからです。

時として御言葉に逆らうようなことがあるかもしれません。人を赦せないで、悩み苦しむことがあるかもしれません。ですから、神の子とされ、聖霊様の初穂をいただいているものではありますが、そこには葛藤があり、呻き苦しむ時が未だにあるのです。私達が神の子として完成されるまで、時が必要なのかもしれません。被造物もわたしたちと一緒に呻きながら、その時を待っているのです。

ローマ8:22から読んでみましょう「被造物が全て今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、からだの贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」

私たちは、この希望によって救われているとあります。この希望が救いなのです。イエス様によって救われ、神の子とされた私たちですが、まだその神の子の「栄光に輝く本当の自由」に完全にあずかっていません。しかしやがてそのことが完成することを信じています。この確かな希望を持って生きているのです。これが私たちの信仰生活です。呻きながらではありますが、苦しむこともありますが、やがて神の栄光にあずかることを信じて、祈りながら希望を持って一歩一歩、歩んでいます。見えるものは希望ではありません。忍耐して待ち望むのです。希望は忍耐するということかもしれません。そして、聖霊様も共に呻きながら、弱い私たちを、励まし助けつつ歩んで下さっております。それが、私たちの「今」という時を生きる力であり、慰めであり励ましです。

4. 内在する御霊のとりなしの呻き

次ぎに、私たちの心の中に内在する御霊の呻きについて、26節以下を見てみましょう。「同様に、“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが、”霊“自らが、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(8:26〜28)

御霊様自らが、神の子である私たちのために、呻きながらとりなしをして下さっておられます。私たちは自分の肉の弱さを持っていますから、神様の業を行なおうとしても、できないことがあります。罪に負ける時もあるでしょう。でも、私たちの心の中に宿っていて下さる御霊様が、私たちを励まし助けて、御心にかなった祈りをさせてくださるのです。そして最期には、「万事が益となるように共に働いて下さるのです。」(28節)

キルケゴールと言う哲学者が、このところをこう書いておりました。「祈りと言えば、人が神に向って様々な願いごとを、自分の側から願うことだと考えているが、実はそうではない。人はほんとうに祈る時、次第に言葉数が少なくなって、ついには完全に沈黙し、『僕聞きます。主よ語りたまえ』と祈るに至る。つまり祈りの最も深い息づきは、神のみ声に耳を傾けることです」と。

私達が祈っているというよりは、むしろ、神様が私たちの唇に祈りの言葉をのせてくださっているのです。真の祈りは、私たちと神様の間の会話ではなく、私たちの心の中におられる聖霊様と神様との間に交わされる会話なのではないでしょうか。パウロは「私たちはどう祈るべきか知らない」と言っています。でも、それにもかかわらず御霊様が御心にかなう祈りをささげて下さるので、はじめて神様との祈りが成立するのです。神様が私たちに、祈る言葉を与えて下さっておられると言っても過言ではありません。先日も話しましたが、これが神の子としての私たちの特権ではないでしょうか。そしてこの神様とのやり取りである祈りを通して、神様が私たちの生活の中で働いて下さるのです。

最後に一つの出来事を証してお話を終りたいと思います。フランスのある小さな村の礼拝の中の出来事でした。ドイツ軍に村人の大半が虐殺され、教会も焼き払われてしまいました。ようやく戦争が終って、村人が村に帰って来て、いつものように日曜日の礼拝を捧げました。そして、皆で主の祈りを捧げました。ところがどうしても五番目の祈りのところに来ると言葉が出てこないのです。それは、「我らに罪を犯すものを、我らが赦す如くにわれらの罪をも赦したまえ」という祈りです。これは「私達に罪を犯したものを、私たちも赦しますから、私たちの罪も許して下さい」という祈りです。

村人たちにとって、自分たちの家族を殺し、家を焼き払ったドイツ人を赦すということは口が裂けてもいえないことでした。ですからそこまで来ると、祈りが止まってしまうのです。そしてまた最初に戻って、主の祈りをするのですが、五番目の所までくると言葉にならず、呻くような声しかでません。でも、ようやく呻きながら、「我らに罪を犯したものを赦しますから、我らの罪を赦して下さい」と祈りました。その時、会衆の中からはすすり泣きのような声が聞こえてきました。そして最後まで、この祈りを捧げきった時に、会衆の上に敵を赦した心の平安と、喜びの気持ちが込み上げてきました。

たとえ祈れなくても、どう祈ったら良いか分からなくても、言葉が出てこなくとも、聖霊様ご自身が言葉に表わせない切なる呻きをもって、祈りの言葉を助け導いてとりなして下さいます。そして神様の御心にかなった祈りを聖霊様が呻きながら導いて下さるのです。これが私たち、御霊の最初の実をいただいている者の祈りではないでしょうか。

この御霊の祈りの場に、神様が私たちを招いていて下さっていることを感謝します。私たちのからだが完全に贖われ、神の子としての栄光を表わすことができるように、聖霊様に心を明け渡して祈りましょう。そして、神の子として人々が一人でも救われるように祈りましょう。また、キリストのからだである教会にしっかりと結ばれて、この私たちのからだをもって主の御栄光を表わすものとなって行きたいと願っております。
                                       (岡田 久)

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