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お前の罪は取り去った (ゼカリア3:1~10)

メッセージ
2019年11月3日富里キリスト教会
「お前の罪を取り去った」
(ゼカリヤ書3:1~10)

「主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。』ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。』また、御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の使いは立ち続けていた。」(ゼカリヤ3:1~5)

1.訴えるサタン

この第四の幻の場面を目に浮かべてみますと、まず主の御使いである天使の前に大祭司ヨシュアが立っていました。そしてこのヨシュアの右側にサタンが立って、ヨシュアを訴えようとしているのです。ちょうど、裁判所の法廷のような場面ではないでしょうか。被告人ヨシュアが立っていて、その右側に検察官役であるサタンが立ち、その反対側に弁護人役の主の御使いが立っています。そしてこの弁護人である主の御使いは、裁判官のような働きをしていまして、ヨシュアと相対して立っていて、サタンに対する判決も被告人ヨシュアに対する判決も申し述べているみたいです。

サタンの働きは、被告人の罪を暴き立てて責めることです。ここでは、サタンは被告人ヨシュアの何を責め訴えようとしていたのでしょうか。おそらく汚れた汚い祭司服を着て立っているヨシュアの衣の汚れ、罪の数々を暴き立てていたのではないでしょうか。「お前は神に選ばれた聖なる祭司であるにもかかわらず、その祭司の服を汚してしまった。罪の懲らしめとして、遠くの地に捕虜として連れて行かれ、聖なる自分を罪で汚し放題にしてしまったではないか。お前は神の祭司と呼ばれる資格も値打ちもない。」そう言っているような気がします。

確かに神の民イスラエルは、神に背き、罪を犯したために、神の怒りをかって、国は滅び、祭司も敵の手によって殺され、神から見放されてしまった民でした。高貴な人々が、遠くの国バビロンに捕囚として連れて行かれました。神の前に清く、聖なる祭司として仕えるはずのイスラエルが、その聖なる祭司の服そのものまでも自分の手で汚してしまったのです。もはや神の民でも神の祭司でもない、お前たちは神から忌み嫌われた呪われた民なのだと、サタンは訴えているような気がします。

先週は有名な放蕩息子のたとえ話について学びました。その非常に深い宣教を通して、聞いているわたしたちも、心に何か熱いものを感じたのではないでしょうか。その説教の中で、最後に取り上げられたのが、放蕩三昧をした弟の兄の態度でした。兄は、放蕩三昧した弟を心から喜んで迎え入れた父の愛の大きさに我慢ならなかったようです。

「自分は正しいことをして、こんなにも我慢してあなたに仕えて来たのに、一回も宴会を開いてくれない。なのに、あいつには特別に宴会を開いて喜び祝っている。お父さん、どうしてですか、あなたの財産を食いつぶし、女や博打で財産を湯水のように使ってしまい、汚れ果てた人間をまだ息子だというのですか?!」と。兄の父親に対する怒りの態度は、罪人でボロボロの服を着、何日も風呂に入らないで、はだしで帰ってきた惨めな弟を責める気持ち、非難する気持ち、訴える気持ちで一杯です。弟を責め、その手で父親も責めているのです。まさにこの兄こそ、ある意味では、新約のサタンと言ってもいいのではないでしょうか。

またもう一つ、有名なエピソードがあります。それは、姦淫の現場を見つけられた女のお話です。町の長老格の男たちは、まるで鬼の首を上げたように、姦淫をした女を訴え上げ、つるし上げて律法に従って、死刑にしようとしました。口々に姦淫をした女を訴える姿こそ、この罪に汚れた祭司を訴え責めるサタンそのものの姿ではないでしょうか。サタンは人を訴えるだけなのです。サタンは神を知っていて恐れています。しかしサタンの本音は、神と自分を結び付けようとしない点にあります。神と自分を関係ないものとして、ただひたすらに相手を訴えるだけです。それがサタンの正体です。神に従おうとしない人、神と関係を持とうとしない人です。

いかがでしょうか。私達の中にサタン的な性質はないでしょうか。決して自分の非を認めず、絶えず相手の非のみを追求している人です。神の前に立とうとしない人です。自分の心の中の罪を主の前に出さない人です。いつも第三者です。あなたはどうなのかと問われることを嫌がる人です。ですからイエス様に、「罪のない人から石を投げなさい。」と言われると、初めて自分の過去の罪に気が付いて恥ずかしく思い、石を置いて立ち去って行ってしまいました。

2.「燃えさし」のようなわたしたち

そういうサタン的な人を逆に主は責められるのです。「サタンよ、主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」(2節)と主の御使いは、サタンを責められました。自分に非がないとして、他人だけを裁く人間は、残念ながらサタンとして神様から裁かれることになります。そして容赦なく、打ちひしがれている人を責め立てているのです。なぜなら、自分に罪がないとしているからです。自分は正しいと思っているからです。自分を神としているからです。

しかし父なる神様は、条件付きの愛を持っているお方ではありません。無条件の限りない愛のお方です。まさに神様は愛のお方です。わたしたちが何か良いことをしたから愛して下さるというお方ではないのです。所詮、良いことさえできない私達です。でも本当の天のお父様は、そういうできない私たち、弱いわたしたち、失敗し、時に間違いや罪も犯してしまうわたしたちを、どこまでも愛して止まないお方なのです。家を守ったから、お父さんの言いつけを守ったから愛する親ではありません。

もしかしてそういう家に育った方はいないでしょうか。絶対に失敗を許されない家庭、いつも正しい家庭、家を守り、無駄使いをせず、親の言うことを聞いて品行方正に育った人はいませんか。いやそのように育てられた人いませんか。そういう人は人を赦せない人になり、自分さえも赦すことができない人になってしまいます。牢獄のような家庭です。恐怖と非難が渦巻く家庭です。「燃えさし」のようなわたしたちでいいのです。失敗しても赦される家庭でいいのです。

先日の子育てSGでは、「子供に失敗する余裕を与える」ということを学びました。また、たとえ子供が否定的な性格を持っていても、それを指摘して直そうとするのではなく、それもやがては長所になるということを学びました。気が強い子は、親の言うことをなかなか聞かない分、将来はリーダーシップを持った人になって行くのではないでしょうか。また静かでおとなしい子は、引っ込み思案で弱い子ではなく、将来は医者やカウセリングの働きをするようになるのではないでしょうかということを学びました。

ですから、子供には失敗する余裕を与えることも大事だということです。子供を誉めること、認めてあげること、肯定すること、そして子供が失敗した時、無条件の愛を示してあげることによって、子供をたくましく育てることができますということを学びました。ヨハネ第一4:18~19にこういう言葉があります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れるものには愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」

恐怖と罰のお母さんになるか、愛と余裕のお母さんになるか、愛のないゆとりのない、完璧で冷たい家庭にするか、余裕のない暖かい家庭にするかは親にかかっています。極端な言い方になるかも知れませんが、お母さんがサタンになるか天使になるかです。子供に非難と罰と規則だらけの家に住まわせ、育ててしまっていいのでしょうか。いいはずはありません。まずそのためにも、親御さんが、まず自分は神様に愛されている、こんな不十分な親でも神様はわたし無条件で愛し、母親として認めて下さっていると確信することです。自分が愛されている者であることを信じることです。

家出をしてしまったわたしたち、姦淫の罪を犯してしまったわたしたち、汚れに汚れ果てた私達です。でも神様はそういうわたしたちを無条件で、一方的愛して下さっているのです。これが神の愛です。まるで「火の中から取り出された燃えさしのようなわたしたちです。」(2節)人生の海の嵐にもまれもまれて、真っ黒になってしまったどうしようもないわたしたちです。でも憐れみ深い神、愛に満ちたお方は、そういう燃えさしのような棒にも箸にもならない何の役にも立たない私達を一方的に愛して下さって、その罪を取り去って下さるのです。

3.お前の罪を取り去った

御使いは大祭司ヨシュアに「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」と言いました。また「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」と言いました。サタンは、この男は汚れていて失格だと必死に訴えているのですが、御使いは、ヨシュアの汚れた着物を脱がせてやり、お前の罪を取り去ったと宣言してくれました。そして新しい祭司の礼服を着せてくれたのです。またぼうぼうの頭には、祭司だけがかぶる聖なる清い祭司のターバンをかぶらせてくれました。

皆さん、何か思い出しませんか。そうです。これはあの放蕩息子が帰ってきた時に、父親が言った言葉そのものです。「一番良い服を持って来て着せなさい。手には指輪をはめてあげなさい。足には新しい靴を履かせなさい。」(ルカ15:22)とお父さんは言いました。父なる神様は、たとえわたしたちが燃えさしのように、何にもなくなって、すすで焦げたように汚れていましても、その罪の汚れを取り去り、清めて下さるお方です。罪を指摘し、それを非難して、排除するお方ではありません。その罪をご自分の血潮をもって贖い取り、清めて下さるのです。

しかもその罪汚れを取り去っただけではなく、そこに神様の大きな恵みと祝福をもって覆いカバーして下さるお方なのです。本来の姿に、すなわち、神に仕え、神と人との執り成しの働きをする聖なる働きへと回復させてくださるお方なのです。それを決定するのは、神様ご自身なのです。わたしたちは唯汚れたままでいいのです。救いは神の側にあるのです。赦しも神のさまの決定事項です。サタンが決めるのではありません。

大事なことは、主の前に立つことです。1節に「主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュア」とあります。主の前に相対することです。主は決してわたしたちを、非難したり責めたりするお方ではありません。この主の前にまっすぐに立つということが信仰です。常に主を前にして歩むことです。主の愛の恵みの前に立つことです。そういう人に対して、主は必ず、「わたしはお前の罪を取り去った」と宣言して下っているのです。この前のところゼカリヤ2:12にもあります。「あなたたちに触れるものは、わたしの目に触れるものだ。」と。神様はわたしたちを目に入れても痛くないほどに愛しているのです。わたしたちをご自分の瞳のように守り、責めるものから守って下さるお方なのです。

交通違反をした人が、現場を逃げて人混みと暗闇の中に身を隠しました。その緊張と心の騒ぎとドキドキする中で、彼が主の前に立とうと罪を告白する決心をした言葉がありました。それは紛れもなく、「わたしはあなたを愛している。一人息子イエスキリストを与えるほどにお前を愛している。お前はわたしのものだ。」という御言葉です。「ああ、自分は愛されているのだ。神様は、こんなわたしでさえもどこまでも愛しておられるのだ。」とそう思った瞬間に、自首する勇気が湧いて来たのです。「愛は恐れを取り除く、完全な愛は恐れを閉め出します。」の言葉のとおりです。

神様はわたしたちを無条件で愛しておられます。決して責めるお方ではありません。それはサタンの働きです。目に入れても痛くないほどに愛しておられます。神様の目には、皆様方は一人一人高価で貴いとおっしゃっておられます。今日この主の前に立つ方は、どうぞ一歩主の前に立ちあがってそのことをお示しください。神様の大きな愛の赦しと祝福の油をお祈りいたします。(岡田 久)

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