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うめきの中の希望 (ローマ8:18~30)

メッセージ
2017年5月21日富里キリスト教会

「うめきの中の希望」
(ローマ8:18~30)

1.被造物の呻き、人間の呻き

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共に呻き、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされることを、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」 
            (8:18~25)

少し長くなりましたが、ここに被造物の呻きと、人間の呻き、特に最初の“霊”の初穂をいただいているわたしたちクリスチャンの呻きが取り上げられています。「霊の初穂」と言いますのは、信仰によって救いに入れられた者という意味です。わたしたちは皆、聖霊の導きによって主を信じて救われましたから、最初の霊的な実りにあずかっているのです。その私たちも、あの被造物と同じようにうめいていると聖書に記されています。

被造物は、自分たちの犯した罪によって空しくなったわけではありません。彼らは、アダムの犯した罪によって、虚無の中に生きざるを得なくなりました。つまり、人間と同じように言葉を持たないと言うこと、人間の支配の中に置かれていると言うことです。彼らは自分の意志で信じて救いに入るというようなことはできません。動物たちの救いはひとえに人間の救いにかかっているのです。この世に早く一人でも多く、神の子すなわち神を信じる者が起こされ、空しいお金や経済の操り人形にならず、またむさぼるという罪から解放されて、神の御心に従って自然を正しく管理し治める神の子クリスチャンの誕生を待ち望んでいるのです。

イエス様も十字架の上で苦しみを受け、呻きました。主は、手首に釘を刺され、体の重みでどんなにか痛かったことでしょう。また鞭で打たれる時にも、相当の痛みを覚えたに違いありません。鞭が当たる度に、皮が裂け、肉が飛び散りました。イエス様でさえ、その痛みに耐えかねて何度呻いたことでしょう。そしてその苦しみとうめきの中で、人々が神の子とされることを願い、心の中でうめきながら祈っていたのです。

この23節の御言葉を注目していただきたいと思います。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(8:23)とあります。これはどういうことを言っているのかといいますと、最初に信仰によって救われたわたしたちも、神の子として完成されることを待ち望んでいると言うことです。しかし、わたしたちの肉のうちにもまだ罪は存在しています、ですからこの自分の古い性質、肉の自分、罪との闘いのために、祈る時にもどうしてもうめくような声になってしまうのです。

Ⅱコリント4:16(P.329)にも同じようなことが記されています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えてゆくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:16~17)たとえ現在、苦しみの中にあっても、それは一時的なものだと言っています。しかも将来の栄光に比べると雲泥の差があると言っています。ですから耐えることができるのです。たとえまだ見ていなくても、信仰を持って待ち望むことができるのです。この希望の信仰によって、わたしたちは救われているのです。

ですから信仰というものは、過去、現在、未来に渡って生きているものであると言うことです。そして信仰と希望は同じことだといっても過言ではありません。信仰も希望も未だ見ていないことを信じることだからです。ですからわたしたちは、信仰を捨ててはいけないと同時に、希望も捨ててはいけないのです。たとえ苦しみに会っていても、呻くようなことがあっても、神の子として選ばれ救われていること、そして将来与えられる神の栄光の祝福をいつも覚えていたいものです。

2.御霊の執り成し

しかもうめきながら祈っていて下さるのは、実はわたしたちだけではなく、神様御自身も一緒にうめきながら祈っていて下さるのです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない切なるうめきを持って執り成して下さるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちは、万事が益となるように共に働くと言うことを、わたしたちは知っています。」(8:26~28)

そしてわたしたちだけではなく、神様御自身である聖霊様も同じように、呻きながら私たちのために執り成しをしていて下さるのです。「執り成す」と言うことは英語では、「Intercede」 といいますが、「仲介して下さる」という意味です。聖霊様と父なる神様は一つですから、聖霊様の思うことを神様は知っておられます。たとえわたしたちが祈れなくても、聖霊様が代わりに祈って下さるのです。しかも最善の言葉で代わりにお父様に訴えて下さるのです。わたしたちも時には祈れない時もあります。どうしても赦すことのできない人がいたら、すぐには赦す言葉が出て来ません。葛藤します。呻きます。赦すべきか和解するべきか迷います。いや待てよ、向こうから謝って来たら赦してやろうと思ったりします。自分では、とうてい赦すことも和解することもできないことでも、聖霊様がわたしたちを助けて下さって、最善の祈りをささげて下さるのです。

イエス様もステパノも、殉教するとき、聖霊に満たされて、最後の時にこう祈りました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒言行録7:60)と。聖霊様が、最後の執り成しの祈りを助けて下さったのです。わたしたちでしたら、自分を迫害するものに向かって、呪って死ぬかもしれません。恨んで死ぬかもしれません。でも、人間の思いとしては、憎しみや恨みの感情が起こっていても、わたしたちのうちにあって、わたしたちの祈りを助けて下さる聖霊なる神様は、執り成しの祈りをささげさせてくださるのです。神様とわたしたちをつなぐ祈りの絆を正しく、導いて下さるのです。その結果、どんな嫌なことも、辛いことでも、最後には「万事を益とするようにして下さる神様の御計画がなされてゆくのです。」(8:28)わたしたちは今まで、何度この8:28の御言葉に助けられ、励まされてきたか解りません。

実にわたしたちは弱いのです。すぐに信仰を捨てようと思ったり、苦しみに出会うと、神に対して反発して祈りさえできなくなってしまいます。希望なんてそういう高尚なところまでもいかないのです。今が良ければいいと思います。病気になる、倒産する、仕事がうまくいかないなど、しばしば八方ふさがりの状態に陥ります。なぜ自分だけがと、神に反発します。でもわたしたちがどんな状態になろうとも、わたしたちのうちに宿っていて下さる聖霊様は、力に満ち、確信に満ちています。たとえわたしたちが今絶望したとしても、聖霊様御自身がわたしたちのために執り成しをして助けて下さるのです。「あんな人なんか死んでしまえ!」とか「呪われてしまえ!」といいたくなるような時にも、わたしたちのために最善の祈りを神様に献げて下さるのです。「彼らを憐れんでください。」が「あの人に神様の祝福がありますように」という祈りに変えて下さるのです。

ですからわたしたちは、罪に苦しんで祈ることさえできなくなった時でも、大事なことは、神に心を向け「感謝します」と叫ぶのです。(7:25)自分の心をキリストに明け渡すのです。苦しい時のミラクルワードは、「主に感謝します」です。先週も言いました。悩んだとき、自分で判断し自分で行動するのではなく、キリストに心を明け渡すことだと言うことを。自分を主とするのではなく、キリストがわたしの内にあってわたしの主であることを認めて、このお方に自分の心を明け渡すのです。するとそこに不思議な神の力が働いて、悔い改めと感謝の祈りが出て来るのです。そして、勝利の人生を歩むことができるのです。そしてわたしたちは、最終的には神様は万事を益、すなわちプラスにして下さると言うことを知っていますのであわてません。驚きません。心配しません。恐れません。常に聖霊様に委ねて行くことができるからです。

3.神に選ばれたわたしたち

最後に、神様の隠された深い救いの御計画を見て終わりたいと思います。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(8:29~30)

ここに神様が、わたしたちをこの世から召し出して、義として下さり、そしてさらに栄光をお与えになったと記されています。週報にも書きましたが、クリスチャンの三重の祝福です。「義化」「聖化」「栄化」の三つの段階におけるクリスチャンの救いのプロセスです。今私たちは、聖化の段階にありますが、自分が聖められてゆくには、常に信仰の原点である主の十字架のもとに立ち帰ることです。そして主と共に古い自分に死んで、肉の自分、過去の自分に死んで、新しい霊の性質を選びとるのです。心のバプテスマです。そしてそのことによって、わたしたちはこの世にあって神の栄光の姿を表す者とされてゆくのです。
確かに聖化のプロセスの途中にはありますが。そこには常に義化と栄化が現されて来るのです。「栄光をお与えになるでしょう」ではなく「栄光をお与えになったのです」と過去形で書いています。つまりわたしたちは既に神の栄光を映す者とされているのです。

そしてもう一つ大事なことですが、30節に「あらかじめ定められた者」とあります。つまりわたしたちはすでに神の子と定められているのです。別な言葉で言いますならば、義化され、今は聖化の途中にはあるが、必ず神の栄光にもあずかる者として定められていると言うことです。言い変えますと、信仰生活の途中で、あなたがたはどうなるか解らないというのではなく、必ず御子イエス・キリストの姿に似る者と定められているというのです。しかもそれは、すでに救われる前から、あらかじめ定められていると言っています。

ですから、わたしたちは、信仰生活の途中で、聖化に失敗して、挫折してしまったり、信仰を捨ててしまったりするのではなく、天地万物の初めからキリストに似た者にしようと定められていたというのです。これがわたしたちの予定説です。御霊の最初の実をいただいた私たちは、最後まで、神様に知られ、神の子に定めづけられていたというのです。この神様の愛の定めを、誰も変更させることはできないとパウロは言っています。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成して下さるのです。誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:34~35)どんなに艱難や迫害が強くても、御子イエス・キリストをお与えになった神様の愛からは、決して誰もわたしたちを引き離すことはできないのです。ですから、今のこの一時の苦しみにも耐えて行くことができるのです。呻くことがあっても、その分、将来に対して確かな希望を持っているのです。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います。」(8:18)そのような信仰と希望を持って、神の愛を感謝しつつ歩んで行きたいと願っています。

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