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あなた方が与えなさい (マルコ6:34~44)

メッセージ

2012年5月6日富里キリスト教会
「あなたがたが与えなさい」
(マルコ6:34~44)
1.はじめに

今朝は、マルコ伝の6章から、五千人の人々をたった五つのパンと二匹の魚で養うという、奇跡の出来事についてみてみたいと思います。イエス様の伝道されるところには、常に大勢の群衆が集まって来ました。この日も男子で五千人ですから、女性や子供も含めたら一万人以上の大群衆ではなかったかと思います。ところがだんだん時間もたって来て、夕方になり夕食の時間になりました。弟子の一人フィリポが、そろそろ解散して各自で食事をするようにしてはいかがですかとイエス様にアドバイスをしました。

少しそのやり取りを読んでみましょう。「『人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った。イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です。』」(6:36~38)

2.あなたがたが食べ物を与えなさい。

ビリー・グラハムの伝道集会なんかでも何千人、何万人と言う大勢の人々が集まって来ます。せっかく、命の御言葉を求めて集まって来たのに、集会が終わったから、またバラバラに解散してしまっていいでしょうか。イエス様は、何とか彼らが散ってしまわないようにしました。それが「組に分けて、弟子たちに食べ物を配らせた」ということです。

命の御言葉を与えるのは、イエス様だけでしょうか。あるいはビリー・グラハムだけでしょうか。もし、この大伝道者しか御言葉を配ることができないとしたら、おそらく群衆はまた飼い主のない羊のように、この世に散らされてしまわないでしょうか。イエス様は、「あなたがた日本人のキリストの弟子が、霊の食べ物を与えなさい。」とおっしゃったのです。B・グラハム先生にだけ頼らずに、日本人が日本人の手で日本人の魂を養いなさいとおっしゃったのが、この「あなたがたが自分の手で与えなさい」という言葉ではなかったでしょうか。この御言葉が、この奇跡を理解する大きなカギになると思います。

有名な「2の2の2の法則」と言うのがあります。それは、Ⅱテモテ2:2にあります「そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人々に委ねなさい。」というパウロの言葉です。つまり、いつも牧師だけ、伝道者だけが話していないで、忠実なキリストの弟子である信徒に任せなさいということです。他の仲間にも福音を語ることのできる忠実なクリスチャンに委ねるということです。牧師としてはなかなか委ねきれない心配や不安があります。大丈夫だろうか、ちゃんと真理を語ることができるだろうかと。

3.五つのパンと二匹の魚

じゃあ、一体どうして弟子達が、この組になった人々を養うことができたのかということです。イエス様は、自分たちの手元にある物を用いました。それは、一人の少年がお弁当として持って来ていた五つのパンと二匹の魚でした。この時、イエス様は、弟子にこう命じました。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」(マルコ6:38)と。そして、「それをここに持って来なさい」(マタイ14:18)と命じました。

この時、弟子たちは、こんなわずかばかりの食事では何の役にも立たないでしょうと言いました(ヨハネ6:9)。また、これでは足りないので、よそから自分たちで調達しなければならない(ルカ9:13)とも考えました。ここが大事なところです。霊的な食べ物、すなわち御言葉は、よそから調達する必要はありません。私たちの手元にある物で十分なのです。たとえ、わずかしかなくても、それをイエス様のところに持って行けばいいのです。これが信仰です。

自分はできない、不十分だ、知識がない、賜物もない、ない、ない、ない、あったとしてもこんなもので役立つだろうか、人様に勧めることができるだろうか。そういう不安や恐れ、心配がすぐ私たちの頭に浮かんできます。しかし、たとえそんな小さなものでも、主が祝福して下さるならばなんとかなるというのが信仰です。「自分にはできないが、神にはできる。神にはできないことはない。」(マルコ10:27)の信仰を持つことです。

自分にしかない物、その取るに足らない賜物、わずかばかりのものを恥ずかしがらずに、あるがままで主の前に差し出すことです。ここで大事なことは、イエス様は、大きな立派な賜物を持っている人を喜ばれるのではありません。たった、五つのパンと二匹の魚しかない、不十分な、取るに足りない捧げものを喜ばれます。

今まで、教会ではこの御言葉の宣教と牧会の働きを、全部牧師が受け持ってきました。そして信徒の方は、聞くだけで、この御言葉の宣教や牧会の働きをさせないできたということがあるのではないでしょうか。わたしも、今まで家庭集会というものを、それぞれの遣わされた教会で何カ所も開催してまいりました。しかし、せいぜい牧師ががんばっても一カ月に5,6回集会を持てば手一杯です。牧師が全部リーダーシップをとって、集会のリーダーを信徒に委ねませんでした。

その理由は何かと申しますと、牧師が行かないと間違った教えや教会への批判や人のうわさ話に流れてしまいがちだということが多々あったからです。また、信徒の皆さんも自分はできない、御言葉は重荷だ、牧師が来なければ人が集まらないとかいろんな理由で、自分がリーダーをすることに戸惑いがありました。でも、イエス様は「牧師だけではなく、信徒に自分の手でメンバーに霊の食物を与えるようにさせなさい」とおっしゃっておられるような気がしてなりません。

4.五餅二魚を手に取り、賛美の祈りを捧げた

五つのパンと二匹の魚をイエス様のところに持ってゆきますと、イエス様がそれを手に取って下さり、それを祝福して下さったのです。たとえわずかなものでも、主のもとに持ってゆく時に、そこには大きな感謝の祈りが捧げられました。「これしかない」が、イエス様の手と祈りを介することによって、「こんなにもある」に変えられたのです。しかも、五千人を養うに足りるほどの大きさに膨れ上がりました。ここが奇跡のポイントです。イエス様に差し出すということです。イエス様に差し出す時に、つまりこの小さな自分でもイエス様にお捧げします、どうぞこんな貧しい者ですが主の御用にお使いくださいと言って自分自身を捧げて行く時に、そこに信じられない奇跡が起こるのです。

私はこのことは、二匹の魚と五つのパンを次々と増やして見せた手品のような奇跡として考えるべきではないと思います。そういう物理的な手品のようなトリックではなく、霊的にその意味を考えることが必要だと思います。つまり、五つのパンは食べるパンではなく、人々の渇いた魂を養う神の命の御言葉のことを意味しています。そして、この命の御言葉、福音は、二人の弟子によって配られるということではないかと思います。ある人は、この二匹の魚は二人のクリスチャン、即ち二人の弟子を意味している、そして、その二人が、一組になってキリストの体である五体を表す五つのパンを配る時、それは五千人を養うほどに膨れ上がるのだと解釈しておりました。なるほどなあと思いました。

二人ずつ組になって、出かけて行って、人々を青草の上に座らせて御言葉を分かち合う時、それは50人、100人のグループに十分に行き渡るというのです。そして、みんなが食べて満腹するほどに行き渡るということです。そして残ったパン屑も12籠いっぱいになりました。残りの御言葉も更に祝福されて用いられ、福音はひとかけらも無駄になることはないということです。

2012年度の私たちの教会標語は「真理の御言葉を正しく伝える」です。これは牧師だけにイエス様が命じられた言葉ではございません。キリストの弟子である皆さんお一人お一人に対して語られた言葉です。イエス様は、「あなたがたの手で、彼らに霊の糧である御言葉分け与えなさい」と命じられました。そしてさらに「忠実な人に委ねなさい」とも語られました。この真理の御言葉を信じ、この御言葉に従って歩んで行く年となることを願っております。
(岡田 久)

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