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あなたはわたしを知っておられる (詩編139:1~18)

メッセージ
2019年10月27日富里キリスト教会
「あなたはわたしを知っておられる」
(詩編139:1~18)
はじめに

1. 全てをご存知である全知なる神(Omniscience)

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」(139:1~2)

この詩編139編には、神様のご性質、神様とはどういうお方か、そしてわたしとの関係はどうなっているのかということが、わかりやすく書かれています。神学用語では、1~6までが全知なる神についての記述です。そして7~12節までが、偏在の神、つまりどこにでもおられるお方だということです。そして13~18までが全能なる神について記されています。ですから神様について、その性質を述べる時には、わたしたちはよく「全知全能にして偏在なる神」という表現を用います。

まず最初に、全知なる神についてみてみたいと思います。(1~6までを読む)
ここには神様がいかに私たちのすべてをご存知であるかが記されています。わたしたちの心も考えも日々の行動も人生も生活も、そして言葉さえも何を話すのか知っておられるというのです。1節は、神様はわたしたちの心の中を究めておられる、つまり探求して調べつくしているということです。心の中は完全に主に知り尽くされているのです。

2節では座ったり立ったりする動作や、何のためにそうするのかというわたしたちの考えも悟っておられるのです。そして歩くことも休むことも見分けて、わたしたちが次に何をしようとしているのかという考えや意図さえもご存じなのです。リビングバイブルではこう訳しています。

「主よ、あなたはわたしの心の奥底まで探り、どんなささいなことも見のがされません。わたしの立ち居振る舞いさえご存知です。遠くからでも、わたしの内面をすべて読み取られます。また、わたしの進む道を下調べして、どこで休息をとるべきかも教えてくださいます。常にわたしの居場所もご存知です。そして、口を開かない前から、わたしが何を言いたいかも見抜いておられます。先になり後になりして、祝福の御手を述べてくださいます。」(リビングバイブル139:1~5)

いかがでしょうか。神様はわたしたちの心も行動も考えも計画も、十分に知り尽くしておられるというのです。神の全知というのは、神様が知識を沢山持っておられるお方だということよりも、わたしに対してすべてを知っておられるお方だということにおいて全知なのです。わたしたちは皆、神によってすべてを知り尽くされているのです。そしてわたしたちの心や頭や内面を知っているだけではなく、更にご自分の御手をもって、わたしたちの外側、周囲も守っていてくださるお方だということです。

神様のみ心を知っていながら、つい誘惑や欲に負けて、自分の道を突っ走ってしまうことがある弱いわたしたちです。分かっているけれども、どうしても肉の道、悪の道に足を踏み入れてしまうこともあるかもしれません。心の内側を知っておられるお方は、同時に御手をもって外部から悪の道に進むことから守って下さるのです。わたしたちが行く道の前も後も上も下もその強い御手をもって支えて下さるのです。わたしたちはもはやこの全知なる神様の目からも、手からも逃げることはできません。

2.どこにでもおられる偏在の神(Omnipresence)

このようにわたしたちは神様の目からは、すべてを見られ悟られ究められているのです。主の目から隠したり隠れたりできるものは一つもありません。裸にされているも同然なのです。しかし、いかがでしょうか、それにもかかわらず、今もなお神の目から隠れようとしている人はいないでしょうか。あのアダムの罪以来、すべての人は自我というものに目覚め、自分中心の生活を送ってまいりました。何でも自分で判断して、自分で考え自分の思う通りしようとして生きてきました。全てのものが神の目の目に明らかにされているのに、人間は神の目を避けて隠れてしまっているのです。

罪を犯して善悪の実を食べてしまったアダムとエバは、「どこにいるのか?」という神の声を恐れて、茂みに身を隠しました。自分の裸の姿を見られたくない、恥ずかしいと思ったからです。それ以来全ての人は、アダムの子孫ですから、いまもなお自分の裸の姿を見られまいとして物陰に隠れて出てこようとしません。自分が正しいのです。自分の恥の姿(=罪の姿)を見られたくないのです。

あるいは、いちじくの葉っぱを使って自分の恥や欠点を隠そうとしています。しかし、神はすべてご存じなのです。いくら神の目の前に自分を隠しても隠せるものではありません。ブランドの毛皮を着て良く見せようとします。高級車を乗り回してよく見せようとします。人込みに紛れて姿をくらまそうとします。自分で神の前に立とうとしないのです。あるがままで、罪人アダムの子孫として立とうとしません。神に逆らう者はどこかへ身を隠そうとして逃げてゆきます。

聖書にもそういう人間が出てきます。罪を犯したアダムは、神の声を聞いて木の間に身を隠しました。アベルを殺した兄のカインは、神の前を離れて、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住み着き生涯神を離れてさすらいの人生を歩みました。預言者ヨナは、神の御命令に背いて、ニネべの町と反対のタルシシ行きの船に乗って、海の彼方に逃亡しました。長血の女は、自分が罪人であることを隠すために、主に触っていやしていただいたにもかかわらず、大勢の群衆の中に紛れ込んで姿を隠しました。イエスを裏切ったユダは、イエスを銀貨30枚で売るために、12弟子達との食事の席から離れて一人闇の中に消えて行きました。

聖書にはこのように多くの逃亡者が出てきます。神の目を避けて海の彼方に、さすらいの旅に、暗闇の中に、群衆の中へと自分の姿をくらまして逃げて行ったのです。でも果たして主の目から人間は逃げることができるでしょうか。7節に「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海の彼方に行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえて下さる。」(7~10)

罪を犯した人間は、神様にすべてを知られ、見られているにもかかわらず、神の顔が恐ろしいのです。懲らしめられる、叱られるという恐怖からです。神の前に立とうとせず、逃げようとすればするほど、神の顔が鬼に見えてくるのです。ですから、真の神を知らない人は、神の顔を書く時に鬼の顔に見えるのです。神様の顔は鬼ですか?それは神を知らないものの神の顔です。でも私たちは神の顔を知っています。それは主イエスの顔に見られるような慈愛と憐みに満ちた顔です。裁く神ではなく、罪を赦す神です。

この神の御手から逃げて行った人々の中で、もう一度神の御許へと帰ってきた人は誰でしょうか。先ほどのヨナがそうです。彼は神の命令に背いて、反対方向の町に、曙の翼を駆って海の彼方に逃げ出しました。しかし、神の御手は彼を離しませんでした。ヨナを嵐に会わせ、大魚を送って彼を一飲みにしました。ヨナは大魚の暗闇の中で、ついに主に向かって助けを求める祈りの声をあげます。すると、その魚の腹の中から神様は、ヨナを救い上げて宣教の地ニネべへと遣わされました。

またもう一人の長血を患った女性はどうしたでしょうか。彼女は、主の衣に触れて癒されたことを感じましたが、主の前に出ることができませんでした。自分が罪人であることを告白できなかったのです。そして群衆に紛れ込んで姿をくらまそうとしました。しかし、イエスの愛の眼差しは、身を隠そうとしている彼女をとらえて離さなかったのです。そしてついに、彼女は主の目から逃げきれないことを悟って、群衆から一歩出て、主の前に自分の罪を告白して救われたのです。

私達はどこへ逃げて行っても、身を隠しても、主の霊がわたしたちと共にいて離さないのです。詩人は「どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(7節)と言っています。神は霊ですから、神の霊はわたしたちをどこまでも追いかけてくるのです。たとえ暗闇に身を隠して、隠れていても、闇の中でも主の目の光は届くのです。もはや逃げも隠れもできない私達です。どこに自分の姿、罪人の自分を隠すことができるでしょうか。何をもって自分の罪の汚れを覆い隠すことができるでしょうか。

3.人間を創造された全能なる神(Omnipotence)

どうして全知であり、どこにでもおられる偏在の神は、このような私を見張り、探り、知り尽くされ、どこまでも追い掛け回して、自分のものとしてつかまえようとされるのでしょうか。逃げ隠れしている人間を、なぜ神はそこまで追い求めるのでしょうか。いったいなぜそこまで主はわたしたちを見つめておられるのだろうか。見逃さないのでしょうか。手を離さないのでしょうか。

そして隠れているわたしたちを探し、見つけ出されるのでしょうか。わたしたちの心も考えも行動も生活も人生もすべてを主はご覧になっておられます。そしてどこまででも見つけ出して、神のものとしようとされます。いったい私のどこに主から見て大切なものがあるのでしょうか。なぜあなたはそこまでして、このどうしようもない罪人の人間を愛しておられるのでしょうか。その理由が次の13節から16節の言葉です。

「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった。・・秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには私の骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」

主はわたしたちをお母さんのお腹から生まれる前から、知っておられ見ておられたのです。わたしたちはよくお母さんのお腹に入って育っている胎児の写真を見ます。卵子と精子が受精して人間の最初の細胞が造られます。そしてその小さな小さな細胞が、分裂を繰り返しだんだん人間らしい形に造り上げられています。まさに人間の生命の神秘です。そして手ができ足ができ、内臓も造られてゆきます。まさに神様が母親の胎内で、わたしたちを組み立てて下さるのです。それも神様の創造の御業です。

そしてこの一人の人間という体ができるのです。この人間の体は、どんなAIを使っても、コンピューターを使っても、生物的な細胞を使っても造り出せない神様の最高傑作です。わたしたちはどんな人であっても、神様の手によって作り出され生まれたのです。誰も失敗作を生んだのではありません。欠陥人間を産んだのではありません。一人一人は神様の完全な最高傑作の作品なのです。神の手によって造られ、お母さんのお腹で育てられて生まれ出たものなのです。

私たち一人一人は、親が産んだのではありません。神様の手によって造られた作品なのです。たまたま結婚した夫婦の間に生まれたかもしれませんが、それを出会わせ、結婚させ、子供を受胎して、母体の中で育て組み立てて下さったのは、神様の御業なのです。16節に「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。」

私達の出生も誕生も、すべては神様の本に記されていることなのです。このように神様ご自身がわたしたちを造り組み立て、無から生み出してくださったのですから、神様はわたしたちの真の親なのです。わたしたちは神の最高の作品なのです。ですから神様は、わたしの心を知っておられ全てを見極めて、わたしたちの行動も考えも、人生も生活も全部知っておられ常に守っていてくださるのです。もはやどこにも逃げられないのです。お母さんが、運動会で一生懸命走るわが子を、他のどの子よりも一心に見ておられるように、神様はわたしたちからひと時も目を離すことがないのです。

私達ができるのは、この創造主であり、全知全能でありどこにでもおられるお方に心からの感謝を捧げることなのです。14節に「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。」と感謝を捧げています。たとえ他の人から見て劣るところがありましても、それは神様の設計図の内にあるのです。その弱点や欠点を通してさえも神様の働きを成し遂げようとしているのです。無駄なことも失敗もありません。皆完全な神の子なのです。

ただ大事なことは、自分が神に造られ、神に愛され、神に常にみられている者として、心も体もまっすぐに神に向けることです。これが信仰です。迷わないことです。自分は神に見捨てられたとか、愛されていないとか、神は不公平だとか思わずに、どこまでも私達を愛して探し出してくださり守ってくださるお方をしっかりと信じてまっすぐに歩むことです。

ですから最後に、この詩人は「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。ご覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうかわたしをとこしえの道に導いてください。」(23~24節)と祈っています。いかがですか、わたしたちの心の内にまだ迷いの道があるでしょうか。こんなにもすべてのことに置いてすべてのことを支配し計らっていてくださるお方なのです。

このみ言葉を聞きながら、わたしたちの内に悩みや迷いが残っているでしょうか。まだ神の顔を避けようとしているでしょうか。神に背を向けようとしているでしょうか。恐れや不安を感じているでしょうか。疑っているでしょうか。
今こそ子の造り主にして、全知全能なる神の前に、心を開きすべてを明け渡して探ってもらいましょう。わたしの内に迷いの道、疑いの道があるかどうか。もしあるならば、今ここで今日、その迷いの罪を告白して心から悔い改めて、主の前に立ち帰ろうではありませんか。(岡田 久)

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