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あなたの祭壇に水をそそぎなさい (列王記上18:30~40)

メッセージ

2016年8月14日富里キリスト教会

「水の祭壇」
(列王記上18:30~40)

1.あなたたちは、いつまでも
どっちつかずに迷っている

北王国イスラエルの王、アハブは、自分の妻を異邦の国シドンから迎え、その際にシドンの神様であるバアルとアシェラの祭司も多数イスラエルの国に連れて来ました。王も自分の妻の国の宗教ですから、断るわけにもいかず、いつの間にか、イスラエルの国はバアルの神々の像が建てられ、本当のイスラエルの神を礼拝する場所が次々と壊されて行きました。さらに王妃イゼベルは、ヤハウェの神の祭司を次々と迫害し、その預言者も次々と殺害して行きました。その結果、この国はいつのまにか、バアルという豊穣の神が支配する国となってしまったのです。その結果イスラエルの国は、神からの裁きとして、干ばつという罰を受けることになってしまいました。

しかし王は、この偶像礼拝と混淆宗教というどっちつかずの信仰が、神の怒りを招いているとは思っていませんでした。エリヤのお蔭で国中が飢饉に陥っていると思っていました。そしてこの神による飢饉が始まって三年目に、ついに預言者エリヤは主の御命令(18:1)によって、王に会いに行くことになりました。そして王に対してこう言いました。「今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」(18:19)と。ついにエリヤにとって、バアルの預言者と決着をつける時が来たのです。

カルメル山という山は、ちょうど内房ののこぎり山のように海のそばにある小高い山で、尾根が細長く、そのふもとにはキション川という川が流れています。
そこでアハブ王は、全イスラエルに召集をかけて、バアルの預言者450人とイスラエルの人々をカルメル山に集めました。その時エリヤは民に向かってこう言いました。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」(18:21)と。すると民は一言も答えませんでした。皆一様に押し黙っていました。

どうしてでしょうか。それはまさにエリヤが指摘した通りに、彼らの信仰はどっちつかずの信仰だったからです。過ぎ越しの祭りの時には羊を屠って、いけにえとして捧げておきながら、秋になれば、豊作だと言ってバアルの神々にも感謝の供え物を献げていたのです。そうしなければ、王の妻イゼベルの仕返しが怖かったからでもありますが、そこまで抵抗することもなく、上手に二つの神様に仕えていたわけです。両方の神様に波風を立てないように、上手に仕えていたのです。「どっちつかずに迷っている」という言葉を他の聖書では、「妥協している」「よろめいている」「二股をかけている」と訳しています。

皆さんがそういう中で、今日もこうして主を礼拝するためにここに来られたということは、本当に意義のあることで、わたしたちクリスチャンは、この主日の礼拝を通して、毎週、毎週、まことの神の前に出るという戦いをしているのです。あなたの祭壇はしっかりと築かれていますか。いろんなこの世の快楽、楽しみ、富、家族、子供、人付き合い、仕事などによって取って代えられてはいませんか。エリヤははっきりと言います。「主が神ならば、主に従え、もしバアルがあなたにとって神ならば、バアルに従いなさい。」と。

2.偽りの祭壇

さてバアルの祭壇とヤハウェの祭壇の戦いが始まりました。もともと唯一の真の神以外に神は存在しないのですが、まず最初に、バアルの預言者たちが祭壇を築いて、自分たちの神の名バアルの名を叫びました。18:16節から読んでみます。

「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えて下さい』と祈った。しかし、声もなく答えるものもなかった。彼らは築いた祭壇の周りを飛び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。『大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人を避けているのか、旅にでも出ているのか。おそらく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。』彼らは大声を張り上げ、彼らの習わしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答えるものもなく、何の兆候もなかった。」(18:26~29)

450人のバアルの祭司が、雄牛を献げる祭壇を築きました。そして朝から昼まで、一生懸命にバアルを呼び求めたのです。しかし、彼らの熱心な叫び声や、踊りや大きな声にもかかわらず答えはありませんでした。そして最後は、彼らは彼ら自身の体を、剣や槍を使って傷をつけ、血を流しながら呼び求めたのです。それでも応答はありませんでした。

このことから真の礼拝、祈りの祭壇というのは、人数ではないということが分かります。また礼拝を捧げる者の熱心さでもありません。たとえ、450人の大の大人が、自分の流した血で体を真っ赤に染めながら、踊り狂って叫び求めている様子を想像してみてください。見た目にはこれらの祭司の様子からして、御利益がありそうな祭壇です。血を流して祈っているのです。人数や服装や音楽や熱心さとか、雰囲気でまことの神への礼拝をするわけではありません。たとえ人数が多くいて、華美な服装をしていて、自分の体に傷をつけて熱心に祈るようなことがありましても、その祈りの声は神には届かないのです。なぜならば、それは自分の血ですから、自分の努力、自分の血だからです。人間の側の熱心さと言ったものではなく、神様の御命令に従った御心にかなった献げ物でなければ真の祭壇とは言えないのです。

3.水の祭壇

ではいったい、エリヤはどんな祭壇を築いたのでしょうか。
「エリヤはすべての民に向かって、『わたしの近くに来なさい』と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りにニセアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、『四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ』と命じた。彼が『もう一度』というと、彼らはもう一度そうした。彼が更に『三度目』をというと、彼らは三度同じようにした。」
(18:30~34)

1)十二の石を取って祭壇を修復した

まず最初に、エリヤは十二の石を取って祭壇の修復をしました。当時、このカルメル山には立派なヤハウェの祭壇がありました。しかし王妃イゼベルの悪によって、ヤハウェの預言者たちは迫害を受け、殺害されたりしていました。イスラエルの各地にあったヤハウェの祭壇は、破壊され尽くしていました。そういうヤハウェの祭壇をエリヤは再び修復したのです。その際に石で築くのですが、エリヤは十二の石を持って祭壇を築き直しました。これは南北二つに分裂したままのイスラエル全体を意味しています。北王国の十部族全体が一つになることだけではなく、南のユダ、ベニヤミン族も一つになってバアルと戦うことを願ったのです。全イスラエルの一致団結を表したのです。

またこれは、教会の一致を意味しています。いくら熱心な祈りが捧げられても、信徒が勝手に自分達だけで集まって祈りをしていてはどうでしょうか。教会の中がごたごたしていて、いつも信徒同士がいがみ合っていたらどうでしょうか。このような祈りは、たとえ熱心に涙を流しながら徹夜で断食をしていても聞かれません。なぜなら十二個の石ではないからです。エリヤは北の十部族だけではなく、南の二部族も、一致団結してバアルと戦うことを求めました。

2)祭壇の周りに溝を掘った

次に祭壇の周りに、ニセアほどの溝を掘りました。ニセアといいますのは、16リットルくらいですから、ちょうど灯油タンク分くらいの水が入るような溝です。この溝と言いますのは、これは祭壇とこの世界とを区別するものです。聖なる領域と俗なる領域を分けるということです。つまり、わたしたち一人一人が、聖なる祭壇だとしますと、この聖なる祭壇である私たちをこの世の汚れから区別するということです。

イエス様がその尊い血潮で贖い取って下さったこの私たちの体は、聖霊様の宿る神殿です。霊的な意味では、普通の肉体ではないし、自分の体でもないのです。この体の所有者は神様であり、わたしたちは神の目的のために選ばれ救われた一人一人なのです。ですから、この世の汚れから自分の体を守り聖別する必要があります。そういう意味で、祭壇の周りにエリヤは水を掘ったのです。水が流れ出さないように、またこの世の汚れや泥が入って来ないようにしたのです。この世の中に生きてはいますが、この世に染まってはいけないのです。この世を照らすのがわたしたちの体です。

3)雄牛を裂いて薪の上に載せる

これは神への感謝、神との交わりの回復、人間の罪の贖いとしての全焼の供え物とされました。(レビ記1:3~9)雄牛を切り裂いて、薪の上に載せることによって、神の怒りを宥め、人間の罪の贖いのために供え物となったのです。この供え物としての雄牛の血に、人間が自分で流した血を混ぜてはいけないのです。そうしますと、純粋な供え物となるのではなく、人間の願望や意志と化行いというものが加わります。

あくまでも人間の行いとか意志によって、神を何が何でも自分達の願いどおりにさせようとする御利益信仰になってしまいます。飢饉という災害が、人間の罪に対する神からの警告だということを忘れさせてしまいます。雨を降らせない神が悪いのだ、我々にはどこにも落ち度はないという、人間の傲慢な礼拝になってしまいます。ですからバアルの祭司たちは、まことの供え物の牛の血に自分たちの血を混ぜて、汚してしまったのです。それは彼らの熱心さという罪でした。

自分たちの熱心さを表す血を流すことよりも、自分たちの心の中をすべて神の前にさらけ出すことです。雄牛を切り裂くということはそういうことです。内臓も取り出し、胃や腸の内容物もきれいに洗い流して祭壇の上に載せます。これは自分の心の中に隠してある罪や汚れ闇の部分をすべて、神の前に明らかにするということです。この犠牲の雄牛は、やがて来たりたもうキリストの十字架の贖いの業を示しています。

そして今は、イエス・キリストの十字架によって、既に神の怒りを宥められ人間の罪が贖われて、神との関係が回復されました。ですから誰でも自分の罪を告白して主の前に立つならば、罪赦され神との交わりが回復されて、祈りが主の御もとに届くのです。決して、人間の努力や行いという自分の血を混ぜてはいけないのです。それは神の恵みを空しくしてしまうからです。むしろ私たちは、この神の供え物のゆえに、自分の心のすべてを打ち明け、罪の告白による祈りをすることです。

4)四つの瓶で水を三度注いだ

このエリヤの祭壇の最大の特徴は何と言っても、主の祭壇を再現し修復したあとで、わざわざ水をかけたということです。この祭壇の上に主の火が下って来て、これらをすべて焼き尽くしてしまうことによって、神はその義しさを示されるわけです。であればこそ、なんでわざわざ祭壇を燃えにくくするために水をかけるのでしょうか。実は水をかけなさいと言ったのは主御自身です。35節でエリヤはこう祈っています。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。」(18:36)と祈っています。

主がエリヤに、「祭壇に水を注ぎなさい」と命じたのです。「神様、なぜ祭壇に水を注ぐのですか。燃えないではないですか。」と疑問に思ったかもしれません。あるいは、水ではなく油を注げといったのではないと思ったかもしれません。しかし、エリヤはその通りにしました。たとえ理に合わないことであっても、神様の御言葉どおりにしたのです。しかも四つの瓶に水を満たして、それを三回も祭壇の上に注いだのです。水で祭壇もびしょびしょです。薪もいくら火をつけてもつかないほどに、水浸しになりました。水は、薪を通って、積み重ねた石の間を流れ落ちて、祭壇の周りの溝にまで一杯になりました。

エリヤは神様の御言葉の通りにした上で、「主よ、わたしに答えて下さい。」と祈りました。そうなんです。エリヤの祭壇は主の御言葉に従って修復された祭壇だったのです。そしてその主の御言葉に従って築かれた祭壇の前で、エリヤは祈ったのです。するとどうでしょう。突然、主の火が下って来て、エリヤの祭壇の供え物をことごとく焼きつくしたではありませんか。

わたしはこのことから、この注ぎかけた水は、神様の御言葉の水ではなかっただろうかと思いました。どんなに立派な供え物をしても、どんなに一生懸命祈っても、そこに神の御言葉が注ぎかけられないならば、その祈りの祭壇はむなしいのです。祈りは主に届きません。神の御言葉が、語られ、その御言葉に耳を傾けて、その御言葉の通りに実践することによって、初めて祈りが力あるものになって来るのです。この御言葉によって裏打ちされた祈りこそ、神の奇蹟を引き起こしたのではないでしょうか。

4.主の火が下る

そしてエリヤが祈ったら、主は突然、天から火を降してエリヤの祭壇を全部なめ尽くしてしまいました。「すると主の火が下って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。」(18:38)とあります。これは主がエリヤの祭壇を良しとされ、エリヤの祈りを聞いて下さったということです。そしてすかさず、エリヤは民に命じてバアルの預言者を一網打尽にして捕えました。そしてカルメル山のふもとを流れているキション川で、450人の預言者に裁きを降して殺してしまったのです。少し、残酷なような気もしますが、これはバアルのものを一つも残してはいけないということです。わたしたちの心の中にある偶像です。秘密の心の小部屋にしまい込んである罪を、ことごとく主の前にさらけ出し告白して、徹底的に始末してしまいなさいということを意味しています。

皆さんの心の中に自分にとっての偶像はないですか。イエス様を信じてはいるけれども他の神様も信じているとか、自分の心の偶像、すなわち今神様以外のことで自分の心の中を支配しているものはないでしょうか。お金でしょうか、車でしょうか、家族でしょうか、子供でしょうか、仕事でしょうか。神様はそのような偶像を決して見過ごされはしません。必ず明らかにして、始末させてくださいます。

皆さんの祈りの祭壇は今、どうなっているでしょうか。燃えていますか、火がついていますか。他に自分の心を引くもので占領されてはいませんか。何日も祈っていない、聖書も読んでいないという生活が続いていませんか。さあ、もう一度私たちの崩れかかった祈りの祭壇を修復しましょう。皆と心を一つにして集まりましょう。そしてイエス様の贖いの業を感謝し、その大きな恵みを思いおこしましょう。そしてその上に御言葉の水を注ぎかけましょう。少しではいけません、びしょびしょになるくらい十分に御言葉を注ぐのです。十分に聖書を読むのです。聖書に穴が開くほど真剣に読むのです。そしてその御言葉の通りに実践しましょう。

この異教世界に生きているわたしたちです。油断をすると、すぐにいろんな快楽や楽しみが入って来ます。絶えず祈りましょう。そして御言葉の水によって、罪を洗い流していただき、聖き聖なる宮になるのです。この世の汚れに馴染まないように、しっかりと境界線を築くのです。それがあの溝です。それは、この世から出て行くのではなく、この世にあって汚れに染まない神の祭司となって祈りの生活に専念することです。このエリヤの祭壇を築く時、祈りは必ず聞かれます

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