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あなたたちには聖書がある (ルカ16:19~31)

メッセージ
2019年3月17日富里キリスト教会
「あなたたちには聖書がある」
(ルカ16:19~31)
1.死後の世界は聖書に書かれてある

今朝のラザロと金持ちのたとえ話の中で、黄泉の世界で熱さのあまり助けを求めた金持ちが、こう言っていました。「わたしに5人の兄弟がいますが、彼らがこんな苦しい所に来ることがないように、ラザロを遣わしてください。」(ルカ16:27)とアブラハムにお願いしました。するとアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がついている。その旧約聖書に耳を傾けたらいいでしょう。」(16:29)と答えました。つまり聖書を読めば、人が死んだ後どこに行くかが記されているし、又どうしたら地獄のようなところに行かないで済むかということも書かれているというのです。そして、誰でも聖書を読めば死後のことが分かるし、どうしたらそういう場所を避けることができるかも分かるはずだと教えています。

つまり死後の世界はもうすでに聖書に書かれているし、誰でもそれを読めば自分が死んだ後、どうなるかも分かるのです。でも実際は、死後の世界について多くの人は知ることを恐れているし、考えることを避けているような気がします。そして逆に、死後の世界は楽しいですと誤魔化して言ってみたりしています。仏教では地獄と極楽ということでよく絵に描かれますが、キリスト教では天国が強調され過ぎて地獄とか黄泉の世界というものにはあまり語られて来なかったのではないでしょうか。

しかし今日のたとえ話を見てみますと、聖書でもはっきりと人が死んだ後に行く場所が違うと記されています。信仰を持っていた者は、信仰の父アブラハムの懐に迎え入れられました。一方、信仰のなかった金持ちは、地獄の待合室と言われています黄泉の世界に落とされました。そこは、炎が燃えている火炎地獄のような世界です。しかものどが渇いて水を飲もうと思っても、飲めないので渇き苦しんでいる世界です。一方、貧しいながらも、信仰をもって人生を終えたラザロは、アブラハムの懐へと上げられました。ここは信仰をもって死んだ人の霊が行く場所です。楽園、パラダイスとも言います。天国への待合室です。

そこで、異なる場所へ行った二人の霊は、キリストの再臨の時に備えているのです。そして楽園に行ったラザロはキリスト再臨に際して、霊の栄光の体へと甦らされます。また地獄の待合室である黄泉の世界へ落された金持ちは、彼もまた主の再臨に際しては、甦らされて永遠の苦しみを味わう地獄へと落とされてしまいます。そこでは永遠に苦しみ悶え続けるのです。ひと思いにぽっくりと死んであとは何もなくなるというのではないのです。恐いのは、永遠に苦しみ続けなければならないということなのです。これが聖書にしるされている死後の世界です。

2.金持ちとラザロ

ではどうして同じ人間でありながら、異なる死後の世界へ行かなければならないのかということです。このたとえ話の最初の言葉を見てみましょう。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(ルカ16:19~21)とあります。

ここを読んでみますと、不思議なことに、金持ちの名前は記されていません。逆に貧しい病人のラザロの方は、はっきりとラザロと名前が出ています。恐らくこの町の人々の目から見れば、金持ちの名前は誰でも知っていたと思います。しかし、貧乏人の名前は誰も知らなかったのではないでしょうか。どこの人間かわからないような、孤独な路上生活者です。いやそれよりももっと悪い状態でした。全身腫物ができ、犬がそれをなめていたのです。貧しい人の名前なぞ、誰も知らないのが当たり前です。

ではなぜ、聖書には貧しい男の方の名前が出ていて、金持ちの名前が出ていなかったのでしょうか。それは、人々は知らなくても、神様はラザロという名前を知っていました。何故でしょう。これはわたしの思いですが、彼はいつも主に助けを求めて祈っていたからではないでしょうか。だから神様の目から見た場合には、その貧しい男の名前はラザロだと知っていました。しかし、神様の目から見た場合、神様は金持ちの名前は知りませんでした。どうしてでしょうか。それはこの金持ちは同じユダヤ人であり神の選ばれた民でありながら、神の名前を呼び求めていなかったからではないでしょうか。神の名を呼んで祈っていなかったから、名前が憶えられていなかったのではないかと思います。彼も神の名を忘れていました。

神様の目からは、たとえ貧しくても、病気の中にあっても、いつも自分の耳に入ってくる人の声は知っています、そしてその名前も知っています。ラザロが今日も自分の名前を呼んでいると思っているのです。そしてたとえ、その人の生きている間に願いが叶わなくても、病気が治らなくても、神に祈り求めている者を神は覚えて下さり、死んだ後は主の元へと引き上げてくださるのではないでしょうか。名前を覚えてもらうことです。主が十字架に架かった時に、一方の救われた囚人の言った言葉は、「イエスよ、わたしを思い出してください。」(remember me!)でした。神様に覚えられているかどうかが大事なのです。

一方金持ちはなぜ名前がなかったかと言いますと、神に祈り求めていなかった、だから神も名前を知らなかったのではないかと思います。そして金持ちの一番の罪は何かと言いますと、毎日贅沢に遊び暮らしていたということです。仕事をしなくても自分は神に祝福されているのだ、そのことをこの富が証明している。自分は神の祝福を受けているのだと誇っていたのです。そして、その財産や富を自分だけのために用いていたということです。子供の頃に知っていたかもしれないラザロには、残飯を与えていました。そしてそのことで自分は、十分に善を施したと満足していたのではないでしょうか。ラザロのできものを放置しておきました。ここに彼が、黄泉の世界に突き落とされた理由があったような気がします。

このお話のすぐ前の16:1から13までには有名な、「不正な管理人のたとえ話」が出ています。神様である主人の財産の管理を申し付けられていながら、その神の財産を無駄に使っていたのです。いわばこの金持ちのように、神様から託された財産や富を自分の楽しみのためだけに浪費していたのです。そのことがばれた悪い管理人は、首を切られた後のために、主人の財産を使って人に恩を売りはじめました。勝手に借金を帳消しにして、失業後の友人を造ったのです。こうしておけばいつ首になってもかまわないと思いました。しかし神様は、この不正にまみれた富を使って友達を作ったずるがしこい管理人を誉めたのです。そしてこう言いました。「神と富に兼ね仕えることはできない。だからあなたの富、財産を、生きているうちに、自分の死後の世界のために用いなさい。」と。お解りでしょうか。ここでも、聖書が聖書自らを解釈しているのです。またラザロの話のすぐ前には、「金に執着するファリサイ派の人々の話」(16:14)があります。一方の物語の真理が、別のたとえ話の中に出てきているのです。

つまりこの黄泉の世界に落とされた金持ちの罪は何かと言いますと、自分の富、財産を自分のものだと思って、自分の快楽、自分の生活のためだけに使ったということです。「お前の今持っている財産や富は、お前のものではない。それは神のものだから、そのような富、財産を自分の贅沢のためばかりではなく、むしろ死後の世界に備えて、お前の友人を作ることに使いなさい。」というのです。具体的に言いますと、この金持ちが生前に、自分の富をこの貧しいラザロのために使ったならば、神様は、この金持ちを良き管理人だと言って、引き上げて下さったかもしれないのです。生前、世話になったラザロも、アブラハムにお願いして、金持ちも救ってくれるように頼んだかもしれません。

要するに、この世の富、財産というものは皆汚れてはいるが、それを用いて自分の死んだ後のことのために使うこと、これが信仰のある金持ちの生き方だということです。神様に名前を覚えていただくためにも、まず第一に、いつも神に向かって祈ること、そして第二に、自分が死んだ後のために、自分の財産と富を友達造りのために使うことです。別な言葉で言いますと、自分の富を用いて伝道をして新しい信仰の友人を造りなさいということです。魂の救いのために使いなさいということです。富や財産は、自分のものではなく神のものだからです。そのために神は彼を富ませたのです。死んだ後に恩恵を受けた人たちが、証言してくださいます。「神様、この人はわたしたちのために自分の財産を使ってくださいました。ですから彼を天国に入れてください。」と。

Why did those people have gone to the different places after death? The Bible says that a rich man lived in luxury with a purple dress and a poor man Lazarus was laid at the gate, covered with sores and longing to eat. Only the dogs came and licked his sores. From the two different life of believers, I guess there are two reasons why did they separated after death. The first reason is God knows a poor man’s name Lazarus describing in the Bible. Lazarus used to pray to God to help him. God knows his name through his earnest prayer. But God did not know a rich man’s name. I guess he may not pray for his satisfying his luxury life. And the second reason is that rich man used to live with his luxury. He did not care fore poor men not to giving his kind and not to using his wealth and property for poor people. He was using the property he has deposited from God only for himself. A rich man’s property is belong to God not his own. A rich man is wasting God’s possessions. He thought his property is his own possessions never used for his friend and neighbors. This is his sin against to God to make
himself God. That no pray and no love to poor man are the reasons for him to go to hell.

3.黄泉の世界へ落ちないために

さて、もう一度問います。どうしたら黄泉の世界に行かないで楽園に行けるでしょうか。同じユダヤ人でありながら、片方は天国へ、片方は地獄へと行ってしまいました。どうしたら、あの金持ちのように、名前もなく、死んだ後に灼熱の炎で苦しむことがないようになるのかということです。その答えをアブラハム自身が言っています。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
(16:29,31)

ルカがこの福音書の中で、何度も何度も言っている通り、聖書に耳を傾けないのなら、いくら幽霊が出て行って警告しても、人間は聞き入れはしないというのです。答えは簡単です。聖書に書かれてあるからそれに聞きなさいということです。死後の世界のことも、どうしたら地獄に行かなくて済むかということも聖書に書かれてあるのです。そして誰でも読めばわかるというのです。

皆さん聖書を読んでいますか。週報に毎週出る聖書日課を励行しているでしょうか。意外とクリスチャンという人の中で、聖書を読まない見せかけのクリスチャンが多いのです。ラザロも金持ちも二人ともユダヤ人です。神の民です。それでも片方は読まなかったのです。黄泉の世界に行ってから、しまったと思ったに違いありません。でももう手遅れです。行ってしまってからでは遅いのです。聖書を読みます。聖書も律法も預言書も、地獄に落ちてから読みますと言っても手後れです。死ぬ前に、黄泉に行く前に読むべきです。

黄泉の世界のことも地獄のことも、楽園も天国のこともちゃんと書いています。そして、今はどこにでも聖書はあふれています。それでも誰も読まないのです。クリスチャンでも読まない、そういう人は正真正銘の信仰のない人です。死後の世界に関心がないのです。世の終わりがどうなるかも知らにでいるのです。死は必ず、誰にでも訪れます。世界の終末も来ます。今、全世界でその兆候がだんだん表れて来ています。あの3・11の恐ろしい津波、地震災害よりももっと激しい天変地異が起こります。聖書はそう預言しています。そしてその日に備えよと。

今から、生きているうちに熱心に聖書を読んで、天国への道を探し求めなさいとアブラハムは言っているのです。まだ遅くはありません。この聖書の中に天国へのカギがあるのです。これはクリスチャンに対する警告です。手元には聖書があっても、その中に何が書いてあるのかを探しもしない、求めもしない、そういう勘違いの信仰者が多いのです。説教を聞いてもそれに聞き従おうとしない。それは自分が中心になっているのです。形だけのクリスチャンになっているのです。神様はわたしたちの心の中、内面を見ておられます。金持ち、貧しい人、健康な生活、病気持ちと言った外見ではなく、内側をご覧になっておられるのです。内面を、心の中をご覧になっているのです。

Then how do we do to go to the side of Jesus? Abraham said in the Bible, you have the old testament of Moses and the prophets; let them listen to the Bible. If they do not listen to the old testament and new testament; they will not be convinced even if someone rises from the dead. (16:29,31) The key that we will be able to go to heaven is to listen to the Bible. In the Bible we can see the two worlds after death, and we can avoid the way to the hell. After death it is too late to avoid the way to the hell. So let us listen to the teaching of the Bible while we are living. Listen to the preaching message and searching the truth in the Bible while we are living. And let us use our spiritual gift from God and give our property from God to needed people.

心から聖書の御言葉を聞いて、それに従おうとしていますか?まず主の前に自分の心を明け渡して、受け入れ心を内側から清めていただき、新しく造りかえていただくようにしましょう。地獄に落とされてしまうような、罪深いわたしたちです。でもイエス・キリスト様は、その黄泉の世界から甦られ、罪と死と悪魔に勝利されました。あの誰も超えることのできない大きな淵を、イエス・キリストがご自分の肉体を橋にして通り道を開いて下さったのです。黄泉の世界にいるわたし達の方からは上に行くことはできません。でも神様の方からわたしたちに道を備えて下さったのです。それは上から差し伸べられた道です。それがイエス・キリストです。

その方の教えを書いたのが聖書です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父の御許に行くことはできない。」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。自分の罪を告白して、悔い改めましょう。そうすれば目が開かれて、聖書が解かるようになります。天国への道が開けます。たとえ貧しくても、病気を持っていても、障害を抱えていて、聖書に耳を傾けることです。ここでもあのマリアの言葉が言われています。人生で最も必要なことはただ一つ、それは主の足もとに座って、御言葉に耳を傾けることです。それが永遠の命なのです。み言葉に聞くことです。それが信仰です。そしてマリアはその良い方を選んだのです。(ルカ10:42)わたしたちも今日、その決断をしましょう。(岡田 久)

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